一、
年が明け、ふたつめの月が訪れました。
この季節、旧くは『如月』と呼ばれておりました。
寒さで着物を更に重ねて着る季節であることから『着更着』。その名から判る通り、一年で最も冷えの厳しい時期です。
そんな季節、その寒空の下、薄手の着物を纏い素足で道を行く者がおりました。そのような身なりではありますが、その者は寒がる様子もなく平然としております。
ぺたりぺたりと冷たいアスファルトの地面を歩く男のすぐ傍を、分厚いコートを着た婦人が通り過ぎて行きます。婦人は男の姿に目もくれません。
けっして見て見ぬふりをしたのではありません。婦人の目には、男の姿が見えていなかったのです。
男の額には、牛のような二本の角が生えておりました。
男は普通の人間の目には見えることのない、『災い』あるいは『鬼』と呼ばれているあやかしだったのです。
鬼は人間のことが嫌いでした。ですがあやかしは人間の傍におらねば存在することができません。
人間は木を切り倒し、山を荒らします。けれど山は人間が手を入れねば草木が生い茂り、自らを枯らしてしまいます。それと同じように、あやかしは人間からの恐れや信仰といったものがなくては存在することができないのです。
ですから鬼は、いくら邪険に扱われることがあろうとも人の傍を離れようとはいたしません。
ですがこの頃ばかりは、鬼は人里を離れざるを得ませんでした。
人里を離れ、鬼は山へと向かいます。
普段は仕方なしに人里に住まう鬼ですが、本当は山での暮らしの方が好きでした。
この辺り、昔はいくつもの山々が連なっていた土地でしたが、今ではすっかり平坦になってしまったものです。
人間はたくさんあった山をあっという間に切り崩し、代わりに四角く背の高い建物をたくさん建てました。
鬼は、自分の暮らしていた山を殺した人間が嫌いでした。ですから、鬼はその人間に災いをもたらすのです。
四角い建物の群れから離れ、濃い緑の木々が見えてきた頃、鬼の肩に白いものがはらりと落ちてきました。
「雪か……」
あやかしは寒さ暑さを感じたところで、どうということはありません。ですが、人間と同じ季節を感じることはとても大切なこと。
人間は季節ごとの行事を大切にします。その多くは信仰に深く関わるものです。
人間が感じているものをあやかしも感じることで、人との繋がりを保つことができます。人里を離れた今、それは己の存在を保つためには特に必要でした。
鬼は山に入ると、雪と風を避けられる場所を探し始めました。
始めは獣道を進んでいましたが、次第に道がなだらかになり、開けた場所に出ました。
そこには一軒の平屋が建っておりました。
屋根瓦は所々抜け落ち、薄い窓硝子は割れ放題。とても人が住んでいるとは考えられない朽ち様です。
あばら家ではありますが、雪を凌ぐにはうってつけ。鬼はここをしばらくの寝床に使おうと決め、家屋へと近付きました。
元は庭だったのであろう枯れた草むらを通り抜け、家の中を覗き込みます。中はさほど荒れていないようです。雨戸とガラス戸が開いたままですが、それにしては縁側の床板は落ち葉ひとつなく綺麗なものでした。
鬼は中に入ろうと床板に足を乗せます。すると、いずこからか声がいたしました。
「他人の住処に無断で、しかも縁側から上がりこむとは礼儀を知らぬ奴じゃ」
若い娘のような声でしたが、姿は見えません。
「先客がいたのか」
「客ではない、主じゃ。今は住まう者がおらぬゆえ、わらわが主としてこの家を守ってやっておるのじゃ」
尊大な物言いをするその者は、人間ではなく鬼と同じような存在であるようです。
鬼と同じあやかし。ですがもたらすものは災いではありません。
家屋は人の手入れがなくなったにも関わらず、朽ち果てることなく形を保っております。それはその者がこの家を守っているからに他なりません。
その者は幸をもたらすもの。その者はきっと、福の神と呼ばれる類のものなのでしょう。
「それは悪かったな。すぐに出て行く」
災いと福の神は相対するもの。福の神は家を守るため、災いを中に入れることを許しはしないでしょう。
鬼の方も、あばら家をわざわざ無理に奪い取ろうなどという気はございません。他の寝床を探せばよいだけのこと。無益な争いを起こそうという気はありませんでした。
ですが意外なことに、縁側から降りようとする鬼を、福の神は呼び止めたのです。
「出てゆけとは言うておらぬ。雪が溶け、新芽の芽吹く季節までならば寝屋を貸してやらぬこともない」
「構わないのか?」
「わらわは心が広いでな。鬼は外と追い出された哀れな鬼っ子のひとりふたり、受け入れてやろうではないか」
この物言いに、鬼は少しかちんときました。
「豆をぶつけられ逃げ出したか? 柊で目をつつかれ泣いたのか?」
「追い出されたのではない、俺の方から出て行ってやったのだ。てめえ、偉そうにしてないでいい加減に姿を見せやがれ」
くすくすと小馬鹿にしたような声に、鬼は食ってかかります。
姿を探して辺りを見回していると、不意に背後に気配を感じました。
「出て行ってやった、か。まあ、そういうことにしておいてやろう」
振り返ると、そこには赤い着物を着た娘が佇んでおりました。
鬼の腰ほどしか背のない、童女の姿をしたあやかしです。
「わらわとは何のことかと思ったが、なんだ、童のことか」
「ほんに礼儀を知らぬ鬼っ子じゃ」
鬼が小娘と侮った途端、どこからか柄杓が飛んできて鬼の後ろ頭に当たりました。こーん、と小気味のいい音があばら家に響きます。
「何をする!」
鬼が怒鳴ると、柄杓は逃げるように宙を舞いました。まるで意思を持っているかのようです。
「悪餓鬼には躾が必要じゃ」
くるくると逃げ回った柄杓は童の手の中に納まりました。
古い道具には魂が宿ると言います。柄杓は本当に意思を持っているのでしょう、家の主である童に懐いているようです。
鬼は童の手から柄杓を毟り取ろうとして、やはりやめておきました。家の中の道具も、家そのものも、主である童の味方をするでしょう。柄杓を一つ奪い取ったところで、この家の中では鬼に勝ち目はありません。
「さてどうする、やはり出てゆくか? わらわはどちらでも構わぬぞ?」
小娘の見た目をしたあやかしに大きな顔をされて逆らえないのは、鬼にとっては面白くありません。しかしこのまま家を出てしまうのも負けを認めてしまうようで釈然といたしませんでした。
鬼はふたつのことを決めました。
ひとつは、春までこの家に住まうこと。
そしてもうひとつ。
「春までここにいてやろう。それまでに、てめえを追い出しこの住処を乗っ取ってみせるぞ」
「ふふん、面白いことを言うではないか。そのようなことは無理に決まっておる。無意味なことじゃ」
「やってみなければ判るまい」
はらりはらりと舞い落ちる雪の結晶は少しずつ降り積もり、外の景色を白く変えてゆきます。
こうして災いと福の神は春が訪れるまでの短い間ではありますが、同じ屋根の下で共に時を過ごすことになったのでございます。