旧校舎にて
私の通う学校には旧校舎がある。昔は音楽室として使われていたらしいのだが、今は使わなくなった机が積まれているだけの建物だ。旧校舎にまつわる噂話は多い。旧校舎には地下へ続く階段があって、地下には口裂け女が住んでいるとか。誰それの母親は子供の時に実際にお化けを見たのだとか。誰も動かしていないのに、机の位置が勝手に動いているとか。
まあ、私が知っているのはこれくらいだが、どれもこれも現実味のない話だ。建物自体が古く、中も少し薄暗い感じがするので、怖い話の舞台としては恰好の場所であることは確かだが。
しかし、私はそんな旧校舎が好きだった。すごく居心地が良くて、休み時間なんかは旧校舎のそばに行く。鍵がかかっているので入れないのが残念だが、そばに居るだけでもいい。結構な大きさの建物なので大きな日影ができ、夏は涼しいし、冬は霜柱の上を歩くのが楽しい。
何故私が此処まで旧校舎にこだわるのか。それは自分にもわからなかった。低学年の頃はそこまででもなかったはずだ。ただ、旧校舎は居心地が良かった。
私がそれを見たのは、小学四年生になった時のことだった。
放課後、皆と一緒に校庭で遊んでいた時だ。ふと顔を上げたら、遠くに異様な顔の児童を見かけた。私は目を凝らし、その人物を凝視した。
やはり見間違いではなかった。黒々とした真ん丸な目と口。そこにぽっかりと穴が開いているみたいで、まるでムンクの叫びに描かれている人物だった。
「どうしたの?」
一緒に遊んでいた友達に声を掛けられ我に返ったが、私は酷く気分が悪くなっていた。落ち着かない。胸の奥がぞくぞくとした。
私はそのまま家へ帰ることにした。
帰り道、不思議で仕方なかったのは、あの異様な児童を周りが受け入れていたことだ。普通なら、もっと騒がれるはず。まるで、私にだけ、ああ見えていたようではないか。そう思うとさらに恐ろしくなり、その考えを振り払うように歩くスピードを上げた。
翌日も、翌々日も、その後も、私はその異様な人物を見かけた。初めて見た時は分からなかったが、髪型と声、服装から判断するに、その人物は男子だった。そして、彼の名前と、彼が六年生であることを知ったのは、あれから一ヶ月ほど経った後だった。
あの日以前にも、その人とは何度も会っている筈だった。というか、二つしか年が離れていないわけだから、四年間も一緒の学校に通っていたのだ。知らずにいる方が無理な話である。それなのに、あのような顔を見たのは、あの日が初めてだった。あの日から、あの人が変わってしまったのだと思う。しかし、それに気づいているのは私だけ。
気が付くと私は、その人のことを目で追うようになっていた。初めて見た時に気分が悪くなったのだから、二度と見たくないと思ってもいいものなのだが。あの姿を見て、嫌だとか怖いだとかいう感情を抱いたことはなかった。
それから半年ほど経った頃、私はその人を見かけなくなった。否、その人自体は今まで通りに学校に居るのだが、ぽっかりと穴の開いたようなその顔を見なくなったのだ。その人が卒業するころには、あの顔をしていたのは誰だったのか、思い出せなくなっていた。
翌年、又もそれを見た。
今度は一個下の学年の女の子だった。やはり同様に、黒々とした目と口をしていた。ぽっかりと穴が開いてしまったかのようなその顔に、私は魅了された。初めてこの顔を見た時に抱いた気持ちの正体を、私はようやく知ってしまった。
私はあの顔に魅かれている。
彼らの仲間になりたいと思った。私は女の子に声を掛けることにした。
ところがどっこい、彼女はただの女の子だった。私のことを不思議そうに見ながら、「何して遊ぶ?」と訊いてくる。恐らく、他の皆から見れば、純粋無垢な瞳が私を見つめていたのだろう。
私は、その真っ黒な闇の穴に吸い込まれてしまいそうだった。
異様な顔の人たちは、自分たちが周りと違うということを自覚していないらしい。彼らが周りと違うということを認識しているのは、私だけらしいのだった。
それなら、私がおかしいのだろうか。
私が、異様なのだろうか。
答えは出ぬまま、翌年を迎えた。私は六年生になった。
◆
「紗依ちゃん」
私は、休み時間に一人で旧校舎に行くような寂しい奴ではあったが、そんな私にも友達はいた。それが彼女、木塚萌絵だ。彼女は本当に完璧だった。顔も可愛くて、頭もいい。運動は少し苦手だったが、そんな所もまた可愛らしかった。
「なあに、萌絵ちゃん」
そんな完璧な彼女と、あまり冴えない私が何故友達でいられるのかというと、私たちはいわゆる幼馴染という奴なのだ。
「今日さ、学校行ったら旧校舎に行こう? 何だか最近、旧校舎の良さがようやくわかってきたんだよね」
「そっか。じゃあ、急ごう」
私たちは一年生の頃から、毎朝一緒に登校していた。私みたいな子がクラスで浮かずにいられるのは、萌絵ちゃんと一番仲がいいのは私だからだった。
学校に着いて鞄から教科書を出していると、「先行ってるね!」という萌絵ちゃんの声がした。きらきらと響く可愛らしい声。
「うん」
私は素っ気ない返事をした。
それが、その時の萌絵ちゃんとの最後の会話となることも知らずに。
「誰?」
旧校舎に着くと、そこには、あの異様な顔の人がいた。
「誰って……どうしたの、紗依ちゃん? 私じゃん」
そう言うその人は、萌絵ちゃんの身体で、萌絵ちゃんの髪型で、萌絵ちゃんの声をしていた。しかし、本質的な何かが違う。顔だけじゃなくて、何かが。
「……大丈夫?」
私が何も言わずにいると、心配そうな声でその人が声を掛けて来た。
喋り方も、萌絵ちゃんそのものだ。
しかし、何なのだろう、この違和感は。
これは萌絵ちゃんじゃない。
それ以来、萌絵ちゃんに対する違和感が消えることは無かった。しかし、私は萌絵ちゃんに対する態度を、以前と変えることは無かった。今まで通りに接したし、今まで通りに一緒に登校した。
否、今まで以上に彼女のことを慕うようになった。
それはやはり、あの顔のせいなのだろうか。
黒々とした目と口。ぽっかりと開いた、深い闇のような穴。その顔に、私は強く心惹かれるのだ。
私は、彼らの仲間になりたい。
……なりたい?
否、私は彼らの仲間であるのだ。
既に。何年も前から、私は彼らと同じものだった。
ただ、それを彼らにも知ってほしい。
自分で知っていたい、覚えていたい。
あの深い闇にどっぷりと嵌りたい。
黒々しいあの瞳が心地よい。
あの瞳で、私をここから引きずり出して。
ああ、この抑えきれない欲望を、どうすればよいだろうか。
逆らえない時間の流れに抗い、再びあの旧校舎に帰るには、どうすればよいだろうか。
ああ、ああ。
旧校舎が恋しい――
「うわっ…………は……ぁ」
目が覚めて、呼吸が整うまでに暫くかかった。そして、得体のしれない恐怖に身震いした。
もう旧校舎へは行かない方がいい。
何故かそう確信した。
あそこは居心地がいいが、あの場に居続けたら、自分が自分で無くなるような気がしたのだ。
◆
「九月から、旧校舎の取り壊し工事が始まります」
ホームルームで、唐突に告げられた。
「えっ!?」
「何で!!」
クラスメイトは口々に騒ぐ。
私も内心、動揺していた。
最近、旧校舎へは行っていない。あの場所は自分にとって良くない場所だと思うようになったからだ。しかし、あの場所が好きだという思いに変わりはなかった。
旧校舎が、壊される?
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
そんなことはさせない。絶対にさせない。何とかしなきゃ。私がそれを阻止してみせよう。どんな手段を使ってでも。
旧校舎が取り壊される理由としては、建物の老朽化があげられる。また、耐震性が低いことも原因だそうだ。
「なんかさ、寂しいよね」
帰り道、萌絵ちゃんが呟いた。今では萌絵ちゃんも普通の顔に戻っている。しかし、萌絵ちゃんに対する違和感は、依然として変わらなかった。旧校舎のことかと尋ねると、萌絵ちゃんは頷いた。
「紗依ちゃんは、寂しくないの? そう言えば最近は全然行ってないみたいだけど」
「うん。なんて言うかさ、仕方ないことだと思うよ、時間の流れには逆らえないもん」
なんであろうと、いずれは朽ちてなくなる運命なんだよ。
◆
工事のための準備が始まり、旧校舎はたちまち鉄のパイプに囲われてしまった。その後、工事用の重機が入ってきて、児童たちは大はしゃぎした。
「かっけえ~!」
翌日、工事は一時中止となった。車の運転をしていた人が事故に遭ったらしい。暫く入院とのことだったが、そのまま息を引き取ったそうだ。そんな情報は教師からは流れてこないが、親たちが話しているのを聞いた。
亡くなった人の代わりが見つかったようで、工事は再開された。しかし、又すぐに中止になった。その人もまた、事故で亡くなったのだ。
それ以降、工事が再開されることは無かった。旧校舎は鉄パイプに囲われたまま、私たちの卒業式の日が来た。事故死者が二人も出たことにより、その年の卒業生は何とも複雑な心境でその学校を後にしたのだった。
◆
「ああ、何て哀れな!」
月明かりに照らされる旧校舎を眺めながら、私は一人笑った。
「これで私は、いつでもここへ帰ってくることができる!」
ようやく思い出したのだ。
私が何者であったのかを。
私は五十年ほど前、音楽の教師としてこの学校に勤めていたことがあった。その頃はこの旧校舎も使われていた。この旧校舎は私の職場であり、生活の一部だった。そして、この教室が大好きだった。
ある日の晩、私は地下室にある物置へ何かを取りに行っていた。それが何だったのかは、流石に覚えていない。それはなかなか見つからず、私は地下室の物置で必死にそれを探していたのだ。
だから、いつの間にか一階へ上がる扉の鍵が閉められていることにも、気が付かなかった。それは確か、冬の夜のことだった。夜が深くなるにつれて体は思うように動かなくなり、朝になっても動くことができなかった。私はそのまま死んだのだ。
私は動かなくなった体から離れ、旧校舎の中をさまよい続けた。私の遺体は、直ぐに発見された。冬場だったこともあり、遺体の損傷は少なかった。
それから何年もの間、私は彷徨い続けた。そうしているうちに、外の世界にあこがれた。いつの間にか私は旧校舎の中から出られなくなっていて、外から聞こえる子供たちの笑い声を、羨ましく聞いていることしかできなかった。
しかしある時、私はある児童の身体に乗り移ることに成功したのだ。どうやったのかは覚えていない。ただ、必死だった。それから私はその女の子になるために努力した。今までのその子の記憶を頼りに生活し、いつしか私が元音楽教師であったことさえ忘れ、その子として生きていくようになった。
そして私はまた教師となった。
しかし、思いもしなかった。
まさか、私に体を奪われた女の子の魂が、私と同様に他の身体を奪っていたなんて。
そしてその繰り返しが、ずっと続いていたなんて。
私は何の縁か、再びこの学校を訪れた。その頃には、この旧校舎は旧校舎と化していた。しかし、物置としては使われている。用が合って此処へ近寄った際、自分がしたときと同じように体を奪われたのだ。そして私はまたこの旧校舎へと帰ってきたわけだが、この紗依という女の子の身体を奪った。もう一度、外の世界へ帰りたかったから。
しかし、どうやらそれは本心ではなかったらしい。
だって私はこんなにも旧校舎が恋しいのだから。
この場所を残しておくためならば、他人の命だって簡単に奪ってしまう。工事の人には少し悪いことをしたかしら?
でも、いいんだ。
私はやっぱりこの場所が好きだ。
――躰、其ノ躰、頂戴。
旧校舎の中から声がする。私を呼ぶ声がする。
中には、寂しそうな霊が一人。
――其ノ躰、頂戴。
霊は、私を深い闇へと引きずり込んでいった。私の意識が、魂が、紗依の身体から離れていくのを感じる。
これでいい。
私は再び、旧校舎に帰ってきた。