携帯電話と我侭
「はい、記憶を遡るのやめっ」
小学校の運動会の行進を思い出しながら陽気に言ってみた。いまいち笑顔が足りないなと自己評価。採点基準が空想だから意味無いけど。
小学校って何してたっけ。記憶の容量がとても少ないあたしは、一年分の思い出を保存するために、半年分くらいの思い出を消去しなきゃいけない。なんてアナログな頭なんだ。
桃香を置いてあたしの家を出て、もう半日が過ぎた。桃香を一人で部屋に残してよかったかのか、あたしには分からなかった。覚悟を後回しにして判断だけをさっさと出来るのは、あたしの長所であり短所。
空気が冷たい。頬を切るような風がずっと道路に吹き続けてる。ポケットに右手を突っ込んで携帯を取り出す。携帯電話の小さいボタンを不器用に押して、耳に携帯を近付ける。
トゥルルルが五回鳴って、電話越しに声が聞こえた。
「「はい、もしもし」」
「あ、お久しぶりって程でもないですね」
言いかけてそれに気付いたから、言葉の着陸地点を無理矢理変えた。電話の声は、懐かしくない声。つい最近あたしの家に電話してきた人の声。
電話番号は家の固定電話から引っ張ってきた。だから、番号が合ってるから正直不安があった。初めて携帯電話をしっかり使わなかった事を悔やんだしな。アナログ女にハイテクなものは使いこなせないのです。
「「え、あの。ご用件は?」」
「あ、そうでした。桃香を桃香の母親に合わせたいんですよね?」
「「あ、え?あぁ、はい。そうです」」
動揺しまくりながらも返事をくれる。突然電話がきたら驚くよな。あたしだったら無言で通話を終わらせちゃうもんな。あたしの社交性の無さが悲しい。比べるのは電話してる人に失礼だ。
「「あ、あの。桃香を説得してくれたんですか?」」「いえ、まだ何も言ってないんです。それで、一つお願いしたい事があるんです。もちろん桃香を説得させるためのことなんですけど」「「何ですか?」」「桃香の母親、病院とかに入院してるんですか?」「「そうです」」「そうですか。じゃあ、その病院の場所教えてもらえますかね?」「「何でですか?」」
「写真が撮りたいんです」
「「写真、ですか?」」
「は、い」
返事をした途端に風が吹いた。風で舞った砂埃が目に入る。通話中と必死に自分に言い聞かせて、奇声を上げるのを我慢する。携帯を持ってない左腕で目を思いっきり擦る。
「桃香に、気づかせてやりたいんです。無理ですかね?」
「「あ、いいえ。大丈夫です」」
「ありがとうございます」
瞼の中の砂が指と眼球にサンドされて、痛みが増してきた。目を潤ませて空を見上げる。電話で三回、病院の住所言ってもらってなんとか記憶する。病院の名前を聞いて、そこまで遠い病院じゃないことに安心した。時間を掛けたくないから、近場の病院だという事は実に助かる。
電話でお礼を何度も言って、こちらから通話を切る。
電話をしながら無意識に歩いていた、にもかかわらず懐かしい場所に足が向いていた。
「馬鹿か、あたしは。よりによってこの公園って」
桃香と初めて逢った公園に立っていた。無意識に足がここに向くとは思ってなかった。記憶力の薄いあたしでもまだ、鮮明に思い出せるあの日のこと。
茜色の空がゆっくりと紫色に変化する。青い空と茜色の夕日が合わさって出来る、不思議な色の空。この空があたしは意外と嫌いじゃない。
手が勝手に動いて、紫色の空を写真に収める。
「あ、れ?」
シャッターを押した指が、小さく震えた。それが原因でカメラがぶれて、写真が取れなかった。思わず息の呑んだ。時間が、止まったみたいだった。あたしは、固まって動けなかった。強い風が頬に当たってやっと視界が鮮明になる。
「まさか、ね?」
もう一度ファインダーを覗く。空が小刻みに揺れる。地震とか、風が原因じゃない。原因は、震えるあたしの腕だ。寒さで震えてるわけじゃない。寒さじゃ、ないんだ。
シャッターに指をかけたまま、カメラを下ろす。ファインダー越しじゃなくて、肉眼で、群青色に変わった夜空を見上げた。
「人物は撮らないの?」
篠宮さんの言葉を真似してみた。あの時、篠宮さんたちに理由を言わなかった。言わなかったのはこのあたしなのに、今あたしは後悔しているのかな。
それともこれからすることに怖気づいてるのか。淡々とした声が口から飛び出す。
「あー、なんてヘボいんだ自分」
そんなに、怖いか。誰かに何かを教える事が。誰かに近づくのが。
最近過去があたしの後ろ髪を引いてくる。振り返れってもう一人の自分が言ってるのかもしれない。昔の自分が、今変わろうとしてるあたしを攻め立ててるのかもしれない。
でも、桃香にかっこいいいこと言っちゃったし。なにより変わるあたしをあたしは見てみたい。桃香に、感情の一部分だけでも教えてあげたいんだ。そんなときに、後ろ振り返ってびびってる時間なんてない。
「さあ、気合入れていきましょー」
暗い公園で一人でぶつぶつ喋ってる女って結構怖いよな。独り言いう癖、いい加減直そうかな。
とりあえず過去に抗うために、ファインダーを覗きこんで、星ひとつない真っ暗な夜空をカメラに焼き付けた。
それでも手は震えてて、写真がぶれたのは言うまでもない。