冬空を見上げて買い物へ
リビングの時計は朝の8時30分を指していた。久々に台所の冷蔵庫を開けて、溜め息を吐く。
あたしが居ない間に、食材は無くなっていたらしい。麦茶しか入っていない冷蔵庫はなんとも空しい。桃香はひきこもり(ちょっと違うかもしれないけど)だし、あたしが帰らずにふらふら外を歩いてたら餓死してたかもしれない。いや、普通は大人しく外に出るか。いやいや、あの美少女はお金を持ってないから外に出ても何も買えない。でも可愛らしい笑顔を振りまけば男が寄ってきそうな気もする。閑話休題。考えが脱線しすぎだ。
朝ごはんの用意も出来ないから、近場のスーパーに行くために財布を探す。
「買い物か。財布の中身あるかな」
財布が見つからない。リビングをぐるぐると歩いて思い出す。桃香が見てたらどん引きしてきそうだ。
昨日の荷物を風呂場の籠に突っ込んだままなのを思い出して、足を動かす。財布も一緒に置いたはずだし。
洗面所の鏡の前に立って、驚愕した。
「おおう、何だこの頭」
頭の中身じゃなくて外側。髪の毛が所々跳ねていて、間抜け仕様になっている。どっかのアニメの主人公みたいに髪の毛が立ってる。
「あいだだっ」蝉みたいに泣いた。髪の毛を櫛でがしがしすく。櫛を動かすたびにぶちぶちと嫌な音がする。痛みで涙目になりながら、頑固な髪の毛を何とか平常にするために努力する。やっと重力に逆らわない頭にして、頭皮を右手で撫でる。鏡にも涙目の自分が映ってる。籠から紺色の財布を探し出して中を覗く。
「一応入ってる、な」
紙幣も入ってることを確認して手早く着替える。今日は洗濯されて服がほとんどないから深い青色のワンピースに黒のタイツを着用。寒い時期にスカートだけなんてあたしにとっては自殺行為だ。ポケットに財布と携帯を突っ込んだ。携帯が重いから左ポケットだけ違和感があって顰め面になった。
外はひんやりと冷え込んでいて、太陽が日光を地面にまき散らしている。太陽の光は温かいのに、風がそれを台無しにしてる。冬空は晴天。空気が乾燥してるせいか、鼻先が乾く。
ナメクジみたいな動きで玄関脇に放置してる自転車を引っ張り出す。赤錆で汚れてるが、使うには問題ない筈。
「うわぁ、手が汚くなったー」
悔しかったから棒読みで喜んでみる。ハンドルを握っていた手が真っ黒になったのだ。
・・・。暇なときにでも自転車を洗おうと予定を立てながら、冷水で濡らした雑巾でサドルを力いっぱい拭く。サドルの埃を払ってからハンドルのついででサドルも拭いてみた。自転車に跨がる。
自転車は普段は乗らない。出かけるときは基本的にカメラをもっているからだ。カメラを傷つけるのが嫌だから、出かけるときは徒歩。遠くにも歩いていくが、バスを使うこともある。バスはどちらかというと敬遠してる。見知らぬ人が沢山いる空間には、出来るだけいたくないから。あと、乗り物は眠くなる。ゆりかご効果とかあるのかな。
「あれ?あたしって人見知りだったのか?」
頭で考えてたはずなのに、口に出していた。前をのろのろと歩いてた若い男が振り向く。目が合ったので会釈してみた。羞恥心が頂点になる前にペダルを漕ぐ足に力を入れて自転車を加速させる。
朝早くから開けているのが売りのスーパーで、ご飯にするための材料を大量に買い込んだ。
レジで気だるそうに挨拶してくるおばさん(化粧が濃すぎて妖怪じみている)にお札と小銭を渡して、開いたスペースで買ったものをレジ袋に突っ込む。
順番はあまり気にしないが、卵だけは別の袋に入れた。前に買い物をして帰ったとき、卵も一緒の袋に突っ込んでわざわざ手で殻を割る必要をなくさせた。桃香にそう言い訳したら、「粉々の殻を取るほうが面倒でしょ」と冷たく言われた。
駐輪場に停車させている自転車の籠に、三つの袋を突っ込む。もちろん収まるわけもなく、袋が一つ落ちそうになった。それを空中でキャッチしてそのままハンドルにかける。重さの問題で自転車が倒れそうになる。それを両手で支えて千鳥足で駐輪場を出る。さっき会釈した男の人が笑いを堪えてこちらを見ていた。うむ、恥ずかしい。
家に帰るまでに、何度も転びそうになったのは言うまでもない。
自転車を最初と同じ位置に仕舞い込んで、買い物袋を3つ同時に持って玄関の扉を開く。靴の踵を踏み潰して脱ぐ。横着したんじゃなくて、袋の重さで指が付け根から落ちそうだったから、仕方なく靴の踵を踏んだ。廊下の壁に袋をぶつけて音を立てながら、なんとか台所に行き着く。食材を冷蔵庫に並べて、遅い朝食の用意に取り掛かる。
「久々に料理なんてするな。作れるか?」
きれいに並べられてる食器を食器棚から引っ張り出して、目玉焼きとフレンチトーストをお皿に盛り付ける。味は確かめなかった、というより確認するのを忘れた。小皿に野菜を乗っけて、リビングのテーブルに持っていく。
途中で落としそうになって『うおうふっ!』と奇声を上げた。皿とカップをテーブルに並べ、美少女を起こすために寝室に向かう。
無駄に広いこの家で、二階の部屋を使うのは桃香だけだ。あたしは二階に上がるのも面倒なので滅多なことがないと上がらない。
階段を上がって、左に曲がって一番奥の部屋に向かう。扉を二回叩いて「入るよー」と言いながら扉を開けた。部屋の隅においてあるベッドの布団が、のそのそと動く。
部屋に足を踏み入れてベッドの横まで歩く。横目で透明のテーブルの上を盗み見る。テーブルの上には教科書が立ててあり、控えめ程度にアロマが置いてある。アロマはあたしの部屋にあった石鹸だかの香りだ。
家に来て二日ほどたったとき、家の中を説明してあたしの部屋に入れたとき、いい香りだと言うからあげた。
そのアロマの隣には、写真立てがあった。緑のフレームに蝶が飛んでいる。女の子らしい写真立てだが、あたしが買うとは思えない代物だ。桃香が持参してたのだろうか。写真は青空。あたしがリビングであげた写真。それなりに喜んでもらえたみたいだったので少し嬉しい。
「おはよー。起きてる?」
布団の中を覗き込むように喋ると、片目だけ開けてこちらを見ている桃香と目があった。片目だけだけどさ。
「ノックしたのはいいけど、返事聞いてから開けなさいよ」
あたしの行動に難癖をつけてくる。難癖でもないけどさ。
「え、だって入ってよかったでしょ?ダメだった?」
「ダメじゃないけどさ」
「じゃ、いいじゃん」
小声で「能天気」といいながら起き上がる。布団を退けて、足を床につけた瞬間に肩が跳ねた。足を布団の中に引っ込めて愚痴る。
「寒くない?」
「そうかな」
靴下やスリッパが嫌いなあしたはあまり気にならないけど。嫌いな理由は、実に子供っぽい。だってほら、滑るじゃないですか。ねぇ。滑ってこけるくらいなら、寒さを紛らわせるほうがいい。
頭に浮かんだ顔のない老人にそう言ってみた。阿呆な想像だ。そんなことを考えながら口を動かす。
「おんぶしてあげようか?そしたら床に足つけなくてすむよ」
「いらねーよです」
変な敬語であたしの提案を突っ撥ねて、意を決して床にもう一度足を下ろす。
「冷たい」「だから、「いらねーよ・・・さいですか」喋ってる途中で否定されたので、大人しく納得してみた。あたし的にはいい案だと思ったんだけどな。
ベッドの横のイスにかけてあった上着を手渡す。桃香がお礼を言いながらそれを羽織って、先に廊下に出て行った。あたしもその後を追うように部屋を出て扉を閉めた。近々、スリッパと絨毯を購入しようかな。そんなことを考えた。なんだか桃香に対して過保護になってる気がする。
「あれ?ご飯がある」
「うん、そのために起こしたから」
驚いたような顔で振り返ってくる。その反応に言葉をつけるなら『え、うっそー。ありえねー』と言ったところかな。やる気がないのは寝ぼけてるから。もしかというか、その表情からするとあたしは料理の出来ない奴だと思われてたみたいだ。「憤慨である」「ごめんって」また口に出ていた。独り言が大きすぎるな、うん。しかも主語がないのに謝られたし。
さっきと同じように向かい合って座る。お互いに手を合わせてご挨拶。
「「いただきます」」
もしゃもしゃとお互いに無言で食べ物を口に運ぶ。味見は一切してない。まぁ、味見出来るのなんてスープくらいだが。そのスープはというと、塩見が足りない気がした。だめである。
「ねぇ、スープの味薄くない?」
「そう?普通だけど」
お嬢様はあまり気にならないらしい。最近は桃香の手料理ばかりだったからか、味も桃香が作ってくれたもののほうがいい。我ながら贅沢な味覚だなぁ、とか考えながらトーストを頬張った。
「「ごちそうさまでした」」
二人で声を揃えて挨拶して、分担して食器を全部片付ける。昔は一人でやっていたのに、今では桃香と二人で分けて運ぶのが普通になっている。
朝食が終わったから桃香は歯を磨く。歯ブラシを加えて廊下を歩き、リビングのイスに納まる。あたしはテーブルに置いてたカメラを手に取った。これから沢山写真を撮る予定だから、容量を増やすために残りを確認する。カメラをバックにしまって、今朝の気合をここで吐き出す。
「ねぇ、桃香。いつ家に帰る?」
「…………………」
唐突に聞いたら無言が返ってきた。あたしが欲しい答えは、沈黙じゃない。だか、言葉を淡々と続ける。
「何時までも、家出少女って訳にはいかないよ。この家に一生引きこもるつもりかい?」
視線が鋭い。怒りを隠しもしない少女は、戸惑いも隠せない。鋭い視線の中に、動揺の色が出ている。
「……突然何よ。昨日の電話?」
鋭く痛いところをついてくる。だけどそれに反応出来ないあたしには、何の問題もない。感情が欠如してるのかもしれない。
「それは今はいいよ。で、いつ帰るの?」
「何、私が邪魔になったの?」
「そんなんじゃない。あたしの質問の答えは?」
「帰らない」
「なんで?あたしは桃香が家出をしている理由を聞いてない。教えてくれるかな?」
お茶目っ気を出して首を傾げたら消しゴムが額にヒットした。普通に痛いんだけど。当たったおでこを手のひらで擦る。
正面の美少女はため息を吐きながら眉間に皺を寄せていた。皺くちゃになっちゃうんじゃないかって心配した。だってあんなに美少女なのに。将来も美婆になってほしい。なに言ってるか訳分からん。
美少女は額をあたしと同じようにごしごし擦って、嫌そうな表情を隠しもしない。
「私は、両親がダメなの」
「ダメ?」
「そう。なんて言うのかな、うまく言えないけど同じ場所に感じない」
額を擦るのを止めたかと思うと、テーブルに転がしてたシャーペンの尻をカチカチやりはじめた。シャーペンは芯がどんどん出てくる。それと一緒に美少女、桃香が淡々と吐き捨てる。
あぁ、やっぱり。桃香は少し、訳ありらしい。