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水色

作者: まんじゅ

 泣くのにも力がいる。風呂釜の栓を閉め、水道の蛇口をひねりながら歩美はしみじみと思った。

 智也にふられて三日も経つというのに涙ひとつでない。突然のことだったからかもしれないけれど、自分でも少し意外だった。

 智也とは友達の紹介で知り合った。いわゆる合コンというやつで。軽薄な雰囲気の男が多い中、智也だけは落ち着いた雰囲気を醸し出していた。話すと快活で少し意外だったけれど、嫌な感じはしなかった。店内の落ち着いた照明を浴びた堂本光一似の横顔も、面食いの歩美に好感を与えた。

 ふたりが付き合いだしたのが正式にいつ頃だったかは歩美にもわからない。合コンのあと何度かメールのやりとりをしてデートをして、気が付けばそのまま付き合っていた感じだ。手をつないで歩くようになったのもいつ頃だったか憶えていない。ただ外の空気が冬の気配をおびて冷たくなった時期だったと思う。つないだ手の温かさに、歩美はほっとしたことを憶えている。

 智也の手は大きくて、指がすらりと長かった。歩美の小さな手と指を絡めあうと、智也の指は歩美の手の甲のほうまで届いた。歩美は智也の手が好きだった。ピアノを弾いたことはないけれど、ピアノを弾くのに向いていると思った。

 歩美は蛇口にかけたままの自分の手を見た。ふっくらして小さい手。智也の大きな手に包まれて、安堵した日々を思い出す。智也の手はいつも温かかった。

 風呂場を出てリビングへ行く。テーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを手に取ると、おもむろにテレビの電源を入れ何度かチャンネルを変える。けれど歩美の興味をひくような番組はやっていなかったので、歩美は仕方なくNHKのニュース番組をつけた。紅茶をいれようと思い、台所へと向かう。

 智也のことを思い出せば泣けるかも。歩美はやかんを火にかけながらふと思った。さきほどのように智也のことを何気なく思い出せば泣けるかもしれない。

 歩美は目を閉じて智也のことを思い出そうとした。なるべく良い点だけを思い出そうとした。

 しかし思い浮かぶのは先日の光景だった。智也に別れを告げられたときの光景。会社から駅へ向かう途中の橋の上で、智也は突然別れを切り出した。

 好きな人ができたのだという。歩美より好きな人ができたのだと。

 歩美ははじめ何を言われたのかわからなくて、ただ目をぱちくりさせていた。川から生暖かい風が吹き上げて、歩美の短い髪を乱す。遠くサイレンの音が聞こえた。

 智也はずっと下を向いていた。橋の真ん中あたりに立ち尽くして、息を殺したように黙り込んでいた。白い街灯に照らし出された智也は、ひどく陰気で頼りなく見えた。

 三分ほどして歩美は智也の言葉をやっと理解した。歩美より好きな人ができたから、別れたいと言っているのだと。

 歩美は頭の中がふつふつと熱くなるのを感じた。それは怒りではなくて、恥ずかしいのだった。別れの予兆をまったく感じ取れなかった自分と、あまりにありきたりな台詞でふられた自分が。

 そう思うと歩美は居ても立ってもいられなくて、くるりと踵を返すとさっさと駅のほうへと歩き出した。そんな自分を止めようともしない智也にかちんときて、咄嗟に指にはめていた指輪をはずし川に放り込んだ。蝶をあしらった銀の指輪、はじめて智也に買ってもらったプレゼント。ぽちゃん、という水音を聞きながら、歩美は猛然と歩いていった。等間隔に並んだ街灯が、妙に白々しく光っていた。

 あのあと智也はどうしたのだろうか。紅茶のティーパックを棚から取り出しながら歩美は思った。ちゃんと家に帰ったのだろうか、それとも自分より好きになった女のもとへ行ったのだろうか。

 ティーカップにお湯を注ぐ。ティーパックから紅い色がふわりと滲み出て、透明なお湯と混ざり合う。しばらくティーパックをちゃぷちゃぷさせるとお湯はすっかり紅茶色になった。

 テレビでは如何にも真面目そうな男性キャスターが淡々とニュースを伝えている。今日の午後奈良県で交通事故があって、男性がひとり亡くなったという。

 あんな別れ方をしたが、歩美は智也のことを嫌いになったわけではない。まったく嫌いになってないといえば嘘かもしれないけれど、憎しみを抱くほどじゃない。かといって未練があるわけでもない。言葉では言い表せないような曖昧な感情に、歩美も少し戸惑っている。こんな調子だから泣けないのかもしれない。泣くほど明確な感情がないから泣けないのかもしれない。ニュースで悲惨な事故を知って、悲痛に思いながらも泣けないのと同じように、確かに悲しいことなのだけれど何処か遠くの出来事のようで確信が持てず泣くに泣けない、そんな感じ。

 ふう、と息を吐きながら、歩美は紅茶を覗き込む。紅茶の中にまあるく自分の顔が映りこんでいる。少しまのぬけた顔。

 泣いて忘れちゃいなさいよ、そんな男。陽子は電話越しに何度もそう言った。そんなろくでもない男、泣いて忘れちゃえばいいのよ。

 だから歩美も泣こうと努めた。泣いて泣いてたくさん泣いて、智也の何もかもを忘れようとした。

 でも現実には泣けなくて、しかも智也のことを忘れる必然性も特に感じなくて、そんな自分を持て余しているのだった。

 また陽子に電話しようか。でも昨日電話したばかりで、特に話すこともない。智也に電話する? でもふられたばかりで何を話すというのか。

 紅茶を一口飲んでため息をつく。歩美は昔から「間が悪い」と言われていた。何をするにしても、何を言うにしても「間が悪い」と。

 間が悪いから泣くタイミングを逸してしまったのかもしれない。本当はふられた直後に泣くべきだったのだ。自分を恥じるのではなくて、哀れに思うべきだったのだ。歩美は愕然とした。本当に間が悪い。本当に。

 飲みかけの紅茶をテーブルに置き、フローリングの床に腰をぺたんとおろしてテレビを見る。ニュースはスポーツの話題に移っていた。

 お風呂のお湯がたまったら、入浴剤を入れてゆっくりつかろう。歩美お気に入りの、安物のラムネのような水色をした入浴剤を入れて。一日の疲れを取りながら智也のことを少し思い出して、泣く練習をしてみよう。今更だけど泣いてみれば、少しはこのもやもやした気持ちもすっきりするのかもしれない。

 そのために今は泣く力を蓄えておこう。もやもやした自分をリセットするために。そうしてはじめてこの恋の決着がつくのだと、ちかちか光るテレビを見ながら、歩美はおぼろげながらにそう思った。外にはいくつかの星と、ぼんやりとした月が静かに顔を出していた。

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