音
川のせせらぎが聞こえる。蛙や鈴虫の鳴く声がする。隣を歩く女の足音がする。暗闇の中、ただ音だけが世界に存在した。
「ねぇ」
そこに、音が一つ増えた。何もかもを呑み込むような、そんな音が。僕の耳はその音に意識を全て集中させ、他の音を遮断した。暗闇の中、彼女の声が聞こえる。声だけが聞こえる。
「もうすぐ、お別れだね」
卒業式の夜。僕の両親が開催した卒業のお祝いから二人で抜け出して、ここに来た。小さな村で、他に行く場所もないので、必然的に僕らはいつも通り川にやってきた。
「ひーちゃん。上京しちゃうんだもんね」
「可憐も来ればよかったじゃん」
ひーちゃん。僕のあだ名だ。夏目 日色なのでひーちゃん。昔から、ずっとそう呼ばれている。それがむず痒くて、嫌だった。けれど、きっとこれからそう呼ばれることが減るんだと思うと、どこか寂しさを覚える。
「私は、無理だよ」
可憐は隣町にある調理系の専門学校へ進学した。いつか店を開くのが夢らしい。可憐の両親は古風な人で、女子が働くことをあまりよく思っていない。しかし、そんな彼女の両親が唯一許したものが料理人になることだった。
「ねぇ」
音がする。それは、自分の喉から聞こえてきた。言いたいことは山ほどある。幼馴染で、ずっと一緒にいたのに、言えなかったことが山ほどある。
「好きだよ」
音がする。自分の喉から。彼女の喉から。同時に、同じ音がした。暗闇に目が慣れ、彼女の顔が突然鮮明になる。ぱっと見た彼女の顔は、トマトのように赤く熟れていた。恐らく、僕の顔も似たようなものだろう。
指を絡める。確かな体温だ。離れていても、これは決して忘れない。僕の音は未来永劫、鳴り続ける。




