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第3話「レンと呼ばれて」

翌朝、マルタにスープを受け取りながら言った。


「俺の名前、レン。……たぶん」


「たぶん、ね」


マルタは眉ひとつ動かさなかった。まるで最初から知っていたかのように頷いて、「じゃあレン、今日から薬草採りを手伝いな」とだけ言った。


名前を取り戻したことへの感動も質問もなし。この老婆の距離感には毎度救われる。


マルタの小屋の裏手から続く細い獣道を抜けると、村の南側に広がる緩やかな丘陵地帯に出た。朝露に濡れた草が脛を打つ。空気が冷たくて澄んでいて、肺の奥まで洗われるような感覚。山羊小屋の獣臭に慣れた鼻には、薬草の青い香りが贅沢品に思えた。


「あたしの足じゃ一日に三往復が限界でね。お前さんが採ってくれれば助かる」


マルタが指差した先に、紫がかった小さな花が群生していた。ラウフ草。解熱に使う基本薬草だと、昨日の仕分け作業で教わった。


「根ごと抜くんじゃないよ。茎の三節目から上を切る。根を残せば十日で再生する」


なるほど。持続可能な採取。当たり前のことだが、この当たり前をちゃんと守っているから、マルタの薬草は枯渇しないわけだ。


言われた通りに数本採って見せると、マルタが頷いた。「合格。じゃあこの丘一帯、任せるよ」


任された瞬間、頭の中で何かが切り替わった。


まず丘全体を歩いて回った。


ラウフ草の群生地が三箇所。それぞれ密度が違う。南斜面が最も密集しているが、マルタの小屋からは最も遠い。北斜面は近いが、まばら。東の窪地は中程度の密集で、距離も中間。


普通なら近い順に回るだろう。だが俺の体は違う動きを選んだ。


まず東の窪地から入る。ここは湿度が高く、朝のうちに採らないと日が昇ると葉が萎れる。次に南斜面。距離はあるが、下り坂で帰れるルートを取れば体力の消耗を抑えられる。最後に北斜面。ここは日当たりが良く、午後でも品質が落ちない。


採取しながら、束ねる手順も変えた。マルタは種類別に束ねていたが、俺は「使用頻度順」に並べ直した。解熱のラウフ草を一番外側、鎮痛のモーア葉を内側、使用頻度の低いクリン根は底にまとめる。小屋に戻ったとき、仕分けの手間が半分になる配置。


三往復分の薬草を、二往復で運び終えた。


昼前に小屋に戻ると、マルタが束を解いて中身を確認していた。切り口の位置、葉の鮮度、束ね方。一つひとつ丁寧に見て、ゆっくり顔を上げた。


「——あたしが言ったのは、採ってこいだけだ」


「はい」


「種類別に仕分けろとは言ってない。使用頻度順に並べろとも言ってない。採取ルートを最適化しろなんて一言も言ってない」


「……すみません、余計なことを」


「褒めてるんだよ」


マルタが束を棚に並べる。俺が組んだ順番通りに、一切並べ替えずに。


「お前さんの段取りのおかげで、午後の調合が今日は倍できる。いつも足りなかった鎮痛薬の在庫が、これで冬前に間に合うかもしれない」


黙って見ていた俺に、マルタが振り返った。皺だらけの顔に浮かんでいるのは、笑みでも驚きでもない。確信だった。


「お前さん、どこかで人に仕える仕事をしていたね」


心臓が一拍跳ねた。


「段取りを組む。優先順位をつける。指示の先を読んで、言われる前に動く。しかも自分の手柄にしようとしない。成果を上に渡すのが当然って顔をしてる」


マルタが椅子に腰を下ろす。膝が軋む音がした。


「それは召使いの動きじゃない。もっと——そう、参謀だね。誰かの右腕として、全体を回していた人間の動き方だ」


参謀。その言葉に、霧の奥で何かが反応した。


違う。参謀なんて大層なものじゃない。俺がやっていたのはもっと地味で、もっと報われない——。


「思い出せないかい?」


「……断片だけ。大量の数字を処理していた。誰かに急かされて、毎日遅くまで」


「そうかい」


マルタはそれ以上聞かなかった。代わりに、乾燥棚から薬草の束を一つ取って俺に投げた。


「じゃあ明日からは午前の採取と午後の仕分け、両方任せる。あたしは調合に集中する。分業だよ」


分業。その単語が妙に心地よく響いた。指示を受けてこなすだけじゃない。役割として任される。信頼の形がひとつ変わった気がした。


その日の夕方だった。


薪を割って小屋に戻ろうとしたとき、道を塞ぐ影があった。


背の高い若い男。村長の息子、ドルクだ。名前はマルタから聞いていた。村の自警団を仕切っている。筋肉質だが目つきが悪い。取り巻きが二人、後ろに控えている。


ドルクが何か言った。早口で、まだ聞き取れない単語が混じっている。だが語気と表情で大意はわかる。


馬鹿にしている。


「——行き倒れ。マルタの犬」


犬、は聞き取れた。取り巻きが笑う。


俺は黙った。言い返すほどの語彙がない。それに、この手の人間の扱い方は体が覚えている。刺激しない。反応しない。やり過ごす。


ドルクが一歩近づいた。汗と酒の混じった匂いが鼻を突く。


「マルタの婆が薬草が足りないと騒いでいた。なら、森の奥から採ってこい」


この言い回しは聞き取れた。わざとゆっくり言ったのだろう。俺が理解できるように。そして断れないように。


「森の奥」──マルタが一度も俺を連れて行かなかった領域だ。丘陵地帯のさらに南、木々が密集して日光が届かなくなるあたり。「あっちには行くんじゃないよ」と、理由も言わずに釘を刺されていた。


「明日の朝までに、これだけ必要だ」


ドルクが地面に木の枝で量を示した。マルタの一週間分の採取量に匹敵する。丘陵だけでは絶対に賄えない。森の奥に入らなければ物理的に不可能な量。計算された嫌がらせだ。


「断れば、お前の小屋は明日から家畜の糞捨て場にする。村長の許可はもらってある」


取り巻きがまた笑った。


俺は数秒だけ黙って、頷いた。


「——わかった」


ドルクが意外そうな顔をした。抵抗を期待していたのかもしれない。だが俺は知っている。この手の相手に口で勝っても状況は悪化するだけだ。パワハラ上司に正論をぶつけたところで、翌日の仕事が楽になるわけがない。


パワハラ。その単語がするりと浮かんで、すぐに霧に沈んだ。


ドルクたちが去った後、マルタの小屋に向かった。事情を話すと、マルタの顔が険しくなった。


「あの馬鹿息子が……。レン、森の奥には行くんじゃない。あそこは最近、獣の気配がおかしい」


「でも断れば小屋を追い出される。そうなれば、ここでの仕事も——」


「お前さんの寝床くらい、うちの小屋に作ってやるよ」


一瞬、言葉に詰まった。ありがたい。本当にありがたい。だが——。


「マルタさんに迷惑をかけたくない。村長の息子に逆らった人間を匿えば、あなたの立場も悪くなる」


マルタが目を細めた。薬草を束ねる手が止まる。


「……そういうところだよ、お前さんは。自分がどうなるかより先に、周りの力関係を計算する。本当に、どこかで相当鍛えられたんだね」


否定できなかった。


「丘陵の採取で足りる分は、夕方までに全力で集める。足りない分だけ、森の入口付近で補う。奥までは入らない」


マルタが長い沈黙の後、棚から小さな瓶を取り出した。


「獣避けの香油。これを首筋に塗りな。気休めだけどね」


受け取った瓶は、マルタの掌の温度が移っていた。


翌朝、夜明け前に丘陵に入った。


通常の倍速で採取ルートを回す。東の窪地、南斜面、北斜面。まだ暗いうちに丘陵分を刈り終えた。ドルクが指定した量の六割。残り四割は、どうしても森に入らなければ届かない。


日が昇りきる前に、森の南端に足を踏み入れた。


空気が変わった。


丘陵の開けた風と打って変わって、湿った重い空気が肌にまとわりつく。木々の密度が段違いに高く、頭上の枝葉が光をほとんど遮っている。足元は苔と腐葉土。一歩ごとに靴底がわずかに沈み込む。獣道すら見当たらない。


首筋に塗った香油のきつい匂いが、かろうじて獣の気配を遠ざけていた。薬草は——ある。丘陵より大ぶりで、色も濃い。品質は明らかに上だ。なるほど、ここに生えていることを知っていたからこそ、ドルクはこの量を指定できたわけだ。


黙々と採取を進める。四割分の薬草を集め終えたとき、ふと足を止めた。


地面に、跡があった。


爪痕。三本の平行線が、腰の高さで木の幹を抉っている。幅は俺の掌より大きい。えぐれた木肌はまだ新しく、樹液が滲んでいた。


その二歩先。地面が不自然に焦げていた。円形に、草も苔も炭化して黒く変色している。熱——火ではない。もっと均質な、何かのエネルギーが叩きつけられたような焼け方。


これは——。


背筋に冷たいものが走った。理屈はわからない。だが本能が「これ以上奥に入るな」と叫んでいる。


薬草の束を抱え直して、来た道を引き返す。帰りの足は自然と速まった。


マルタに薬草を渡し、ドルクへの分も揃えて報告を済ませた後、森で見たものを伝えた。


マルタの顔から血の気が引いた。


瓶を握る手が白くなるほど力がこもっている。数秒の沈黙。唇が何かを呟きかけて、止まった。それからゆっくり、重い声で言った。


「——魔獣の領域が、広がっている」


窓の外では、何も知らない村人たちが畑仕事に向かっていた。いつもと同じ朝の景色。だが俺の目には、南の森を覆う木々の影が、昨日より一段濃く見えた。

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