同じ匂い
冷たい水を浴びる必要など、今の生活では全くない。一日くらい水浴びを省略して良い。それでも今までの私の生活を伝えるのなら、水浴びの時間だってきっと欠かせない。
「たまには昔を懐かしむのも良いものだ。俺にも教えてくれないか?」
そんなハイルの言葉にも背中を押され、かつての日常を思い出す。肉厚で表面がツルツルしている葉が石鹸代わりの薬草だ。茎も少しだけ手元に入るように摘む。そうすることで体に擦り付けやすいのだ。こうやって、と腕に擦り付けて見せる。川の傍に向かい、髪もこうして、と説明した。姉と一緒にいた頃は互いの髪や体を洗い合っていた。それは今できない。思いつくままに全て話してしまえば当然だと受け入れられた。それどころか賊などが来ないか見張っていると言って背を向けてくれる。ヴェントも風で壁を作り、誰からも見えないようにしてくれた。
服を全て脱ぎ払い、石鹸代わりの薬草を髪と全身に擦り付ける。肌を痛めつけてしまわない程度にしっかりと。流れる川で洗い流し、持ってきたタオルで全身を拭う。凍える冬場はだから水浴びが嫌いだった。水浴び自体数日に一回で、髪を洗うのはさらに頻度が減っていた。溜まった汚れが落ちると気持ちよかったが、そのためには凍える水に耐える必要があった。歯を鳴らしながら、小さく歌って無理に気分を上げていた。
水浴びを終え、脱いだ服を着直す。声をかければヴェントも風の壁を解除し、ハイルもこちらを見てくれる。水浴び前と変わった様子はないだろう。水気を取っている間にヴェントも乾かす協力をしてくれていた。
「なら次は俺か。ノクス、頼んだ。」
すっと黒く質量を持たない壁が現れた。薬草の使い方は伝えたが、こうした生活の経験などあるのだろうか。サマジアの事務所での生活以外あまり想像がつかない。不思議な感じとヴェントと話していると、予想外にハイルから返事があった。
「俺もサマジアに拾われる以前は似たような生活だったからな。懐かしいものだ。」
私にもこうして穏やかに懐かしめる日が来るのだろうか。水音を聞きながら、今私と同じように石鹸代わりの薬草で頭と身体を擦っているのかと意識する。同じ香りにしていっている。なんとなく落ち着かない気分になり、狐の姿のヴェントを抱きしめた。
宿泊場所はヴェリタテ村跡地にある私達姉妹の家だった廃屋。土と葉の寝台に上着の掛け布団で眠る。眠る前の会話も無く目を瞑ることにもとうに慣れた。そのはずなのにいつまで経っても夜が明けない。何度も寝返りをうち、目を閉じて開いても、星々は変わらぬ明るさで瞬いていた。ヴェントもノクスも姿を消しているが、傍にはいるのだろう。風の精霊ヴェントは大気にその身を溶かしていられる。闇の精霊ノクスは影に身を潜められる。
この場であまりに動いてもハイルを起こしてしまう。それでもなかなか訪れない眠気に諦めて散歩に出ようと身を起こした。ヴェントがふわりと風の中から姿を現す。
「眠れないの?」
目の前に姿はあるのに耳元から囁き声がする。風を通じて言葉を届けてくれているのだ。私の声もきっと風を通じてヴェントに届くと、この距離では聞こえないだろう小さな声で散歩に行くことを伝えた。立ち上がり、念の為ノクスには伝えようと探せば、そちらも姿を現し、私を片目で見てくれる。ハイルが起きても伝えてくれるだろう。
一歩、二歩を離れ、どちらに行こうかと一度足を止める。姉の墓に寄ってから行こうか。振り向くとハイルが体を起こしていた。
「離れるなら一声かけてくれ。」
ノクスは起きていた。彼から伝われば十分ではないのか。私が見てもカァとただの鴉のように鳴くだけ。今は気分が乗らないらしい。ヴェントはこうした態度を取らないため失念していたが、私はノクスのことをよく知らない。ハイルに従っていること、水の精霊アクアと親しかったらしいことくらいだ。事前にハイルが何かを頼んでいなければ察して伝えることは難しい。
「伝えてくれていたとしても、離れてからのことはノクスにも分からない。廃村など賊の格好の根城だ。十分な警戒をするように。」
私にとって馴染みの場所だった。ヴェントもいるからとも思っていた。風の精霊が傍にいることはハイルも知っているのに、こうして止めたということはヴェントがいるから良いという問題でもないのだろう。
夜の散歩は諦めようか。大人しく星を見上げていようか。そう眠っていた場所に戻ろうとすればハイルが一緒に散歩しようと誘ってくれた。ヴェントも精霊に人間のような睡眠は必要ないと同行してくれる。ノクスも何も言わないが一緒だ。
寒いというほどではないが、夜には風が少し気になる季節。森の柔らかな闇はノクスもいてくれるおかげだろうか。昼間のようには言葉を交わすことなく二人並んで歩く。歩いたことで体が温まったのだろうかとぼんやり思いながらの時間。いや、それにしても暖かすぎやしないか。
「そっちに行くのはやめたほうがいいんじゃないかな。」
風の精霊の直感は信じたほうが良い。それなのに私は好奇心のままに近づいてしまった。星明かりで陽炎のように揺らめく二つの人影。近づいては離れ、離れては近づいた。よく見てみようとさらに一歩踏み出せば、それは炎の精霊フレイムとロゼットだった。
ハイルの手が私をその場から離そうとすることにも抵抗し、私は二柱の絡み合いを凝視する。二柱は私達に気付くこともなく、体を炎のように溶かし、どこまでがフレイムの体でどこまでがロゼットの体なのか分からないほど重なり合う。混ざり合い、解け、ふわりと人型に戻った。すっとロゼットが真っ直ぐこちらを見た。まあ、と動揺の声を上げ、人間のように着衣を整えながらこちらに向かって歩いてくる。ゆらゆらと全身が炎を纏っているように赤い。特に頬の部分が赤いように見える。
「アルドラさんもこういったことに興味があるの?そうよね、自分の大切なものを共有するくらいだもの。きっとその人のことも大切なんだわ。ねえ、フレイム?」
ロゼットが何の話をしているのか分からないが、とても素敵な話だということは声色から分かる。表情も全体的に緩んでおり、見たこともないほど寛いでいた。お喋りしたい気分なのか、返事できずにいる私達を気にすることなく話し続ける。その間も傍まで来たフレイムの腕に戯れるように触れていた。
話を半分聞きつつ、半分聞き流しつつ、眠れない夜の時間を潰してくれるのなら良いとなんとなく微笑んで過ごす。ロゼットの声、時折フレイムが相槌を打つ声。ハイルは黙り込み、ノクスやヴェントもいつの間にか姿を消していた。
一晩中ロゼットの話を聞き、眠ったのは明け方になってからだった。それでも出発時間は変わらない。眠い目を擦り、バラジーに帰還する。サマジアで用意されている上質な石鹸に慣れてしまったからか、当たり前だった薬草の石鹸では満足できない。眠いが先に改めて湯を浴びようか。そう上着だけを脱いだ時、ふと昨夜のロゼットの話を思い出す。同じ炎の精霊でもロゼットとフレイムは違う熱を纏っている。それを溶かし合い、同じ熱が一時的にでも感じられることに喜びを得るのだ、と。人間に例えるなら同じ匂いを纏っている状態か、と。昨夜の水浴びでは私もハイルも同じ種類の薬草を使っていた。
なんとなく落ち着かない気分になり、水浴びをやめて散歩に出掛ける。ヴェントは訳知り顔で隣を飛んでいる。街の人々はまた新しい一日を始めていた。
「アルドラ!そんな格好でどうしたんだ?」
呼び声に視線を手前に戻すとケイドが近づいてきていた。ヴェリタテ村での出来事は話せない。住んでいた場所が廃村となっていた話なんて暗すぎる。同じ薬草で身を清めた話だって内緒にしたい。そのため、ちょっと散歩、と言葉を濁した。私の誤魔化しに気付くことなく、ケイドは無邪気に私の隣に並んだ。返事も待たずに歩き始める。積極的に拒む理由も思いつかず、私も諦めて目的地もなく歩いた。ケイドはその間もチラチラと私を見ているが、言葉を発しない。私も話題を探し、仕事はどうしたのかと尋ねた。その返答もしどろもどろで、何とか途切れ途切れの言葉を繋ぎ合わせ、見かけたから久しぶりに話そうと思った、という内容を汲み取る。よく仕事の合間に話しているのに、どこが久しぶりなのだろう。疑問への返答も曖昧だ。何か言い出しにくい用事でもあるのだろうか。サマジアへの借金ももう少しで完済できる。利子もない。ケイドがサマジアとの関わりを断ちたいなら今がその機会だ。
「そうじゃなくて、その、ゆっくり話したいと思ってさ。いい場所があるんだ。」
ケイドがどこかへ先導し始める。どこへ連れて行かれてもヴェントがいるなら心配要らない。いや、それではいけないと昨夜ハイルから注意されたばかりだったか。しかし今はバラジーの街の中。あれは街の外なのに、という前提だった。
十分気をつければ良いと結局ケイドの後に付いて行く。バラジー内であれば巡回のため歩き回っており、どこでも私の行って良い場所だ。サマジアの拠点近くであり、特に危ないと言われる場所でもないだろう。誰の持ち物か分からない建物の外階段を上がり、屋上から街を見る。街の中心部には塔が見え、振り返ればサマジアの建物がある。その上階は仮眠室だ。私の部屋はあそこだ、となんとなく目だけで見ていると、その一つ上の階のカーテンが開けられた。現れたのはハイルで、目が合った気がして手を振った。気の所為ではなかったのか、ハイルも手を振り返してくれた。
ハイルが窓から離れた。視線を感じて隣を見ると、ケイドが私を見ていた。
「何してるんだ?」
なんでもないと誤魔化し、生活面は大丈夫かと話題を逸らす。母親ももう元気に仕事を再開しているようであり、ケイドも清掃の仕事を続けているそうだ。家族三人で稼げば借金返済などすぐだろう。貯金だって少しずつ増えていく。また病気や怪我をすると大変だが、生活は出来ている。私も家を借りられるくらい十分な稼ぎがある。そんな盛り上がらない近況報告をしていると、背後から足音が近づいた。振り向けばそこにはハイルがいる。
「アルドラ、上着はどうしたんだ?そんな格好で寒くないのか。」
これを羽織ると良いと被せてくれたた彼の上着をありがたく受け入れ、お礼を伝える。丈も肩幅も何一つ合っておらず大きいのに、なぜか自分の上着よりも温かく感じられた。
ふとケイドの不機嫌そうな顔が視界の端に映った。急にどうしたのだろうと思いつつ、ハイルにケイドと偶然会って案内されていたと伝える。ここからサマジアの仮眠室が見える、あそこがハイルのいた部屋、その一つ下が私の使っている部屋だったと今気付いたことまで話した。
「良い話を聞けたが、そろそろ休んだほうが良い。昨日も眠れなかっただろう?」
指摘されると途端に眠気が襲ってくる。ここは素直に従おう。お休みなさいとその場を離れ、自室に着いてからハイルの上着を借りたままであることに気付いた。部屋の場所は分かっている。今からすぐ返しに行ける。そのはずなのにまだハイルも部屋に戻っていないかもしれないと言い訳し、返却を後回しにした。
先に今度こそシャワーを浴びる。薬草よりもサラサラになるシャンプーとリンスで髪を洗い、良い香りを纏える石鹸で体を洗う。もうそろそろハイルもこの一つ上の仮眠室に戻っているだろうか。それとも自宅に帰ってしまっただろうか。昨日眠れた時間はほとんど私と変わらないはずだ。既に一度短い仮眠を取った後だろうか。それとも仕事をしていたのだろうか。私と同じように眠れなかったなんてことはないだろう。彼が私のようにそわそわと目的もなく歩き回る姿なんて想像できない。
風呂から上がり、髪を乾かす。ヴェントに頼りきりにならないよう、時間をかけてタオルで十分水気を取った。体もしっかり拭い、寝間着を着る。洗濯物とは分けて置いた、彼から借りた上着が目に入った。もう体温など消えているはずなのに、そっと羽織ってみただけですぐに暖かくなる。ノクスが何か仕掛けていたのかとヴェントに尋ねても、ここに精霊の力はないと返ってくる。それなのに自分の体温で温まるには早すぎるほどすぐ暖かくなった。不思議なことだ。
皺にならないようハイルから借りた上着だけ慎重に掛け、寝台に寝転ぶ。返すのは次に会った時で良いかとその上着を見つめていた視界が徐々に薄れていった。




