第六話 眠りの底で、名前を呼ばれた
その夜、勇希はなかなか寝付けなかった。
エアコンの送風音、窓の外を走る車の音、隣の部屋から聞こえる妹の寝返り。
どれもいつもと変わらないはずなのに、意識だけが妙に冴えている。
(……考えすぎだ)
自分にそう言い聞かせ、目を閉じる。
夢なんて、見ようと思って見るものじゃない。
掲示板の話も、削除も、偶然が重なっただけだ。
最近は動画やSFドラマも多いし、集団心理ってやつだろう。
――そう、思っていた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
ふっと、体の感覚が軽くなった。
まるで布団の重さが消えたみたいに、身体が浮く。
それでも怖さはなく、ただ静かだった。
「……あ?」
目を開けると、そこは自室じゃなかった。
天井がない。
壁も、床も、はっきりしない。
暗闇というほど暗くなく、光があるというほど明るくもない。
霧の中に立っているような、奇妙な空間。
「また……夢かよ」
口に出した声は、やけに澄んで響いた。
足元を見ると、確かに地面はある。
踏みしめる感触もある。
なのに、どこか現実と噛み合わない。
――前にも、こんな感覚があった。
思い出そうとした瞬間。
《――高瀬勇希》
声がした。
男とも女ともつかない、落ち着いた声。
どこから聞こえたのか分からないのに、直接頭の中に届く。
「……誰だ」
反射的に構えるが、手には何もない。
《恐れる必要はありません》
声は淡々としていた。
感情がないわけじゃない。
ただ、距離が遠い。
「ここはどこだ」
《あなたが眠り、そして“少しだけ”こちらを向いた場所です》
意味が分からない。
だが、不思議と怒りも恐怖も湧かなかった。
「……夢だろ」
《ええ。地球の尺度で言えば》
その言い方が、ひっかかった。
地球の尺度?
じゃあ、他に何がある?
霧がゆっくりと流れ、視界の先に何かが浮かび上がる。
通路のようなもの。
石でできた、単純な一本道。
「……」
胸の奥が、じくりと痛んだ。
(知ってる)
理由は分からない。
でも、この“感じ”を、知っている。
《ここでは、性別も年齢も、立場も関係ありません》
声は続く。
《必要なのは意思だけです》
勇希は唇を噛んだ。
「……ふざけんな」
思わず、強めの言葉が出た。
「そんな都合のいい話、あるわけないだろ」
《そうですね》
意外にも、すぐ肯定が返ってきた。
《都合は、よくありません》
霧の向こう、通路の先で、小さな影が動いた。
茸のような、植物のような――生き物。
動きは鈍く、こちらを警戒している様子もない。
「……小学生でも倒せそうだな」
自嘲気味に呟く。
《あなたは、どうしたいですか》
「は?」
《ここを、引き返しますか》
《それとも、進みますか》
問いかけは、淡々としている。
選択を急かすでもなく、答えを誘導するでもない。
ただ、待っている。
勇希の脳裏に、妹の顔が浮かんだ。
笑っている顔。
額の傷跡。
そして、あの日、公園で聞いた悲鳴。
(……オレは)
無意識に、拳を握る。
「……進む」
声が、少しだけ震えた。
《了解しました》
霧が晴れ、通路がはっきりと形を持つ。
《これは“初心”の場です》
《まだ、何も与えられません》
《奪われることも、ありません》
その言葉を最後に、声は遠ざかった。
代わりに、世界が動き出す。
足音。
微かな風。
そして、確かにそこにいる“何か”。
(夢で終わらせていいのかって……)
昨日の自分の言葉が、胸に刺さる。
「……終わらせるわけ、ないだろ」
勇希は、一歩、前に踏み出した。
それが、
贖罪の入口だとも知らずに。




