第五話 境界線に立つ者たち
最初に“おかしい”と気づいたのは夢を娯楽として扱わなかった人間だった。
「……これただの夢じゃないよな」
会社員の男は朝の洗面所で鏡を見つめながらそう呟いた。
腕を上げると、昨夜――
夢の中で受けたはずの打撲。
そこにうっすらとした内出血が残っている。
「……あれ?」
指で触れる。確かに痛い。夢なら、こんなものは残らない。
それでも病院に行くほどではない。誰かに話せば笑われる。
男はその出来事を胸の奥に押し込めた。
だが、同じような“押し込められた違和感”は世界中で同時多発的に発生していた。
夢の中で転んだ。
噛まれた。
切り裂かれた。
致命傷ではない。
だがその痕跡は残る。
医療現場では不可解な症例が少しずつ積み重なっていった。
「原因不明の擦過傷」
「睡眠中の打撲」
「外傷の記憶が曖昧」
どれも単体なら珍しくない。
だが共通点がある。
「……夢の話をし始めるんです」
若い医師が困惑した表情で報告する。
「しかも他の患者と似たような内容を」
政府はついに医療機関との情報共有を拡大した。それでもすべては出てこない。
理由は相変わらず同じだった。
「言語化できない」
「思い出そうとすると頭がぼやける」
――話せないのではない。
――話す必要性を感じられない。
その微妙な違和感に一部の専門家だけが気づき始めていた。
「……これって心理的ブロックじゃないですか?」
精神科医の女性が会議室で言う。
「外部からの強制ではなく、自発的な回避反応に近い」
「つまり?」
「“今は話さなくていい”そう思わされている」
誰が?
なぜ?
その問いに答えは出ない。
一方夢ダンジョンの内部では別の変化が起きていた。攻略意識を持つ者が現れ始めたのだ。
「……次はあの通路を調べよう」
夢の中で地図を描こうとする者。敵の動きを観察し距離を測る者。
ただ逃げるのではなく“どう攻略するか”を考える者。
○○はそれを静かに見ていた。
(……早ぇな)
(まだ遊び感覚でいい段階だ)
(なのにもう本気になり始めてる)
巨大な樹の根元で彼の存在は腕を組む。表向きの顔は相変わらず穏やかだ。だが内心では舌打ちしていた。
(人間ってのはどうしてこう極端なんだ)
(安全だと思えば油断する)
(危険だと知らなければ一気に踏み込む)
その結果起きたのが――
初の“重傷者”だった。
夢の中で油断した一撃。
通常なら浅い傷で済むはずだった。だが相手は少しだけ“違うモンスター”だった。
目覚めたその人物は病院のベッドの上にいた。
骨折。
内出血。
意識混濁。
「……事故ですか?」
医師の問いに本人は首を振る。
「……夢、だったんです」
その瞬間病室の空気が凍りついた。
この症例は隠せなかった。
政府は即座に動く。
「これ以上放置できない」
「“夢だから安全”という認識はやはり危険だ」
緊急会議。
医療、心理、軍事、情報。すべてが集められた。それでも核心は伏せられている。
「……もっと上では情報を握っているのでは?」
誰かがそう呟いた。誰も否定しなかった。否定できなかった。
その頃ソラは――
ほんの一瞬迷っていた。
(……ユニークモンスターはまだはやかったか?)
(いや必要な犠牲だ)
(でも――)
彼の存在は自分の内心を振り払う。
(俺はこの世界の人間を助けるために来たわけじゃねぇ)
(あの世界を救うためだ)
(そのために地球を使う)
その事実は変わらない。
だが。
(……それでも)
(壊したくはねぇな)
夢の中。
巨大な樹の前でソラは静かに告げる。
「これは今夢の中にいる人々に話しています」
その声は丁寧で穏やかだった。
「夢ダンジョンは完全に安全な場所ではありません」
「ですが無秩序な危険でもない」
「選択は皆さん自身に委ねます」
表向きは公平な言葉。内心では別のことを考えていた。
(……ここからだ)
(ここが分かれ道だ)
この世界が夢を“現実の延長”として受け入れるか。
それとも拒絶するか。
政府も、医療も、一般人も。すべてが同じ場所に立っていた。
境界線の上で。




