第二十七話 選択はまだ誰にも知られていない
勇希が目を覚ましたとき、最初に感じたのは安堵ではなく重さだった。
身体が鉛のように沈み、意識の奥にまだ夢ダンジョンの感触が残っている。
精神を直接削られたとき特有の倦怠感。深く潜り何度も引きずり戻された証拠。
「……現実、か」
呟いた声は、やけに乾いていた。
天井は見慣れたものだった。剥がれかけたポスター、少し軋む床、薄いカーテン越しの朝の光。
夢ダンジョンの繋がりはもう閉じている。
枕元のスマートフォンを手に取り、掲示板を開く。騒ぎは、まだない。
『上級ダンジョンの噂、結局ガセ?』
『中級までしか公式確認されてないよな』
『夢見すぎだろ』
スクロールを止める。
――まだ、誰も知らない。
自分が上級ダンジョンを踏破したことも。そこで得た報酬が、どれほど異質で、危ういものかも。
勇希はスマートフォンを伏せ、深く息を吐いた。視線がベッド脇に置かれた小さなケースへ向く。
中身を確認する必要はなかった。
上級回復薬。
意識不明者にも効果があるとされ、そして古傷すら修復する可能性がある代物。
本来ならもっと切迫した場面のために温存されるべきもの。
理性が告げる。
――これは私情だ
――誰かの命を救うために使うべきだ
――お前が決めていいことじゃない
すべて正しい。
それでも、勇希は立ち上がった。理由を言語化する前に、身体が動いていた。
廊下を抜けてリビングを横切る。足音は自然と静かになる。咲良の部屋の前で少しだけ躊躇し、それからノックをした。
「……誰、 お兄ちゃん?」
眠たげな声。
「ちょっといいか」
「うん」
ドアを開けると、咲良はベッドの上で上体を起こしていた。
まだ完全に目が覚めていない様子で、前髪が少し乱れている。
勇希の視線が自然とそこへ向かった。前髪の奥。額に残る、細いが確かな傷跡。転んだときにできたものだ。
医者は「もう残るだろう」と言った。
本人は前髪で隠れるからと気にしていない素振りをしている。
だが、勇希だけは違った。
(忘れられるわけがない)
忙しい母に代わって二人で公園へ行ったあの日。「しっかり咲良を見てるのよ」と言われ、少し誇らしかった。
からかわれて咲良が拗ねて。「一人で遊ぶ」と言われたとき胸をよぎった安堵。
(少しなら、目を離してもいいだろう)
そう思った、あの一瞬。
次に見たのは、地面に倒れた小さな身体と、赤。
悲鳴が聞こえたとき、最初に浮かんだ考えは――
(……これで、もう一緒に遊ぶって言わないだろうな)
その思考が、今も胸を締め付ける。
疎ましく思った罰だ。一瞬でもそう感じた、自分への。
勇希はケースを取り出した。
「お兄ちゃん? なぁに、それ」
「……気にするな」
それ以上、言葉を続けられなかった。
キャップを外してそっと咲良のおでこに触れる。傷跡の上に、慎重に回復薬を垂らした。淡い光が、静かに広がる。
派手な演出はない。ただ何かが「正しい位置に戻る」感覚。
勇希はそれを最後まで見届けなかった。
「ちょっと用事あるから」
そう言って部屋を出る。
結果を見る資格はないと思った。自分は、ただ選んだだけだ。
正しいかどうかは、後から世界が決める。
数十分後。
洗面所から驚いた声が上がった。
「……え?」
鏡の前で咲良は固まっていた。前髪をかき上げ何度も自分のおでこを撫でる。
「……ない」
あったはずのものが、ない。傷跡が完全に消えていた。
「……兄ちゃん?」
勇希はリビングでその声を聞いた。胸の奥で何かがゆっくりほどける。
後悔はない。この行為が、やがてどれほど叩かれるか。
「高ランク回復薬を私情で使ったクズ」と呼ばれる未来も想像できる。
それでも。
(それでも俺は、これを選んだ)
まだ誰も知らない。
掲示板にも、ニュースにも、記録にも残っていない。
だがこの静かな朝の出来事は確実に世界を一歩ずらしたのだ。
――その中心に、自分がいるとも知らずに。




