第二十二話 引き返すという選択
足が、前に出なかった。
物理的な意味ではない。筋肉は動くし、魔力も残っている。剣も握れている。
それでも、勇希はその場から一歩も踏み出せずにいた。
上級ダンジョンの通路は、静かだった。
サキュバスとインキュバスを倒した後、まるで何事もなかったかのように空気は澄んでいる。血の匂いも腐臭もない。
ただ、石と土とかすかな魔力の残滓だけが漂っていた。
――なのに。
「……はぁ……っ」
喉が、ひりつく。
呼吸が浅い。胸の奥に、まだ“何か”が残っている感覚があった。
精神魔法。
直接的なダメージは、もうない。
だが、あれは――確実に、勇希の中に爪痕を残していた。
脳裏に、断片的な映像が浮かぶ。
病院の白い天井。
小さな体。
包帯。
泣き声を必死に堪えていた、あの日の自分。
「……くそ」
歯を食いしばる。
意識して視線を落とし、石畳だけを見る。上級ダンジョンの床は、初級や中級よりも明らかに“整って”いた。人工物に近い。
罠が仕掛けられている前提の作り。
冷静になれ。
そう言い聞かせる。ここは現実じゃない。夢の中のダンジョンだ。
そして――生きて戻ることが、最優先だ。
勇希は、ゆっくりとインベントリを開いた。
残っている回復薬。
聖水。
武器の耐久。
「……まだ、行ける」
数値だけを見れば、確かにそうだった。
だが、数値に表れないものがある。
判断力。
集中力。
そして――心の余裕。
上級ダンジョンは、それを根こそぎ奪いに来る。
上級ダンジョンに入り最初に倒した敵。プチデビルとインプ。あれだけでも、十分に“中級とは違う”と感じさせられた。連携、フェイント、魔法の精度。
そして、デビル。
あの一体に、どれだけ神経を削られたか。
「……これが、上級ダンジョン」
呟きは、誰にも聞かれない。
勇希は、来た道を振り返った。
ダンジョンの入口方向。まだ遠くはない。撤退するなら、今が一番安全だ。
この先に何があるかは、分からない。だが、分かっていることが一つある。
――今の自分は、万全じゃない。
勇希は拳を握りしめた。
悔しさが、じわりと滲む。もっと強ければ。もっと割り切れれば。
あの精神魔法を、ただの“妨害”として処理できていれば。
「……でも」
それでも。
勇希は、引き返すことを選んだ。逃げではない。これは、選択だ。
命を賭ける場面じゃない。
今は、まだ。
ゆっくりと歩き出す。背後に敵意はない。ダンジョンは、何も語らない。
出口が見えた瞬間、胸の奥がわずかに軽くなるのを感じた。
――生きている。
それだけで、十分だった。
現実に戻った勇希は、ベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
夢から覚めても、心拍はまだ速い。
手のひらを開くと、微かに震えている。
「……上級ダンジョン、か」
呟きは、掠れていた。
スマホを手に取り、無意識に掲示板を開きかけて、やめる。
今は、見ない方がいい。
情報は必要だが、今日はもう十分だ。代わりに、ドアの向こうを意識する。
――咲良。
今は、無事だ。笑っている。学校に行って、友達と話している。
それだけで、救われる。
だが同時に、胸の奥が締め付けられる。
「……治せる、かもしれないんだよな」
上級ダンジョン。
上級回復薬。
噂じゃない。実例も、少しずつ出始めている。
あの古傷。消えないはずの痕。
もし、本当に――。
勇希は、目を閉じた。今日の撤退は、正解だった。そう、自分に言い聞かせる。
だが、次は。
「……次は、負けねぇ」
声に出すと、少しだけ力が戻った気がした。
上級ダンジョンは、甘くない。
精神も、肉体も、覚悟も――すべてを試される。
それでも。
勇希は、もう一度、そこへ行く。
咲良のため。
そして――自分自身が、前に進むために。
ベッドの上で、深く息を吸い、吐く。震えは、少しずつ収まっていった。
夢の中で見た光景は、消えない。
だが、それを抱えたままでも、人は歩ける。
――次は、準備を整えて。
勇希は、静かに目を閉じた。
上級ダンジョンは、まだ終わっていない。




