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世界樹のダンジョン~神も夢を見るか~  作者: 花衣
贖罪編 高瀬勇希
24/35

第二十二話  引き返すという選択

足が、前に出なかった。

物理的な意味ではない。筋肉は動くし、魔力も残っている。剣も握れている。


それでも、勇希はその場から一歩も踏み出せずにいた。

上級ダンジョンの通路は、静かだった。


サキュバスとインキュバスを倒した後、まるで何事もなかったかのように空気は澄んでいる。血の匂いも腐臭もない。

ただ、石と土とかすかな魔力の残滓だけが漂っていた。



――なのに。

「……はぁ……っ」

喉が、ひりつく。

呼吸が浅い。胸の奥に、まだ“何か”が残っている感覚があった。


精神魔法。

直接的なダメージは、もうない。

だが、あれは――確実に、勇希の中に爪痕を残していた。



脳裏に、断片的な映像が浮かぶ。

病院の白い天井。

小さな体。

包帯。

泣き声を必死に堪えていた、あの日の自分。



「……くそ」

歯を食いしばる。

意識して視線を落とし、石畳だけを見る。上級ダンジョンの床は、初級や中級よりも明らかに“整って”いた。人工物に近い。

罠が仕掛けられている前提の作り。


冷静になれ。

そう言い聞かせる。ここは現実じゃない。夢の中のダンジョンだ。


そして――生きて戻ることが、最優先だ。



勇希は、ゆっくりとインベントリを開いた。

残っている回復薬。

聖水。

武器の耐久。

「……まだ、行ける」


数値だけを見れば、確かにそうだった。

だが、数値に表れないものがある。

判断力。

集中力。

そして――心の余裕。


上級ダンジョンは、それを根こそぎ奪いに来る。

上級ダンジョンに入り最初に倒した敵。プチデビルとインプ。あれだけでも、十分に“中級とは違う”と感じさせられた。連携、フェイント、魔法の精度。


そして、デビル。

あの一体に、どれだけ神経を削られたか。

「……これが、上級ダンジョン」

呟きは、誰にも聞かれない。


勇希は、来た道を振り返った。

ダンジョンの入口方向。まだ遠くはない。撤退するなら、今が一番安全だ。


この先に何があるかは、分からない。だが、分かっていることが一つある。

――今の自分は、万全じゃない。

勇希は拳を握りしめた。


悔しさが、じわりと滲む。もっと強ければ。もっと割り切れれば。

あの精神魔法を、ただの“妨害”として処理できていれば。



「……でも」

それでも。

勇希は、引き返すことを選んだ。逃げではない。これは、選択だ。

命を賭ける場面じゃない。


今は、まだ。

ゆっくりと歩き出す。背後に敵意はない。ダンジョンは、何も語らない。

出口が見えた瞬間、胸の奥がわずかに軽くなるのを感じた。


――生きている。

それだけで、十分だった。






 





現実に戻った勇希は、ベッドの上でしばらく天井を見つめていた。

夢から覚めても、心拍はまだ速い。

手のひらを開くと、微かに震えている。


「……上級ダンジョン、か」

呟きは、掠れていた。

スマホを手に取り、無意識に掲示板を開きかけて、やめる。


今は、見ない方がいい。

情報は必要だが、今日はもう十分だ。代わりに、ドアの向こうを意識する。


――咲良。

今は、無事だ。笑っている。学校に行って、友達と話している。

それだけで、救われる。


だが同時に、胸の奥が締め付けられる。

「……治せる、かもしれないんだよな」

上級ダンジョン。

上級回復薬。

噂じゃない。実例も、少しずつ出始めている。


あの古傷。消えないはずの痕。

もし、本当に――。



勇希は、目を閉じた。今日の撤退は、正解だった。そう、自分に言い聞かせる。

だが、次は。


「……次は、負けねぇ」

声に出すと、少しだけ力が戻った気がした。

上級ダンジョンは、甘くない。

精神も、肉体も、覚悟も――すべてを試される。


それでも。

勇希は、もう一度、そこへ行く。

咲良のため。


そして――自分自身が、前に進むために。


ベッドの上で、深く息を吸い、吐く。震えは、少しずつ収まっていった。

夢の中で見た光景は、消えない。


だが、それを抱えたままでも、人は歩ける。

――次は、準備を整えて。

勇希は、静かに目を閉じた。



上級ダンジョンは、まだ終わっていない。

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