第二十一話 甘い夢は、血の味がした
世界が、ゆっくりと歪んでいく。
それは突然の発作のようなものではなかった。
むしろ、優しく包み込むように――。
「……?」
勇希は一歩、前に踏み出したつもりだった。
だが足元の感触が、変わらない。床の冷たい石の感覚が、いつの間にか消えている。
代わりに、柔らかい。
土の匂い。
夕暮れの、湿った空気。
「……は?」
瞬きをする。
ダンジョンの暗い通路は消え、目の前には見覚えのある景色が広がっていた。
――公園。
小さな滑り台と、ブランコ。
少し錆びた鉄棒。
幼い頃、よく遊んだ場所。
「……なんで」
喉が、ひくりと鳴る。
頭では分かっている。精神魔法だ。掲示板でも何度も見た。
サキュバスとインキュバスは、肉体ではなく、心を狩る。
「落ち着け……これは、幻覚だ」
そう言い聞かせる。
だが、空気が生々しすぎた。
風が頬を撫で、草が揺れる音まで聞こえる。
「お兄ちゃん?」
背後から、声。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは――
「……咲良」
妹だった。小学生の頃の姿。まだ背が低くて、前歯が少し抜けたままの。
「なにしてるの? みんな、あっちで遊んでるよ」
無邪気な笑顔。
勇希の喉が、ひりついた。
「……来るな」
「え?」
「来るなって言ってるだろ……!」
叫んだ瞬間、景色が一瞬揺らぐ。だが、消えない。
咲良はきょとんとした顔で、近づいてくる。
「どうしたの? お兄ちゃん」
その距離が、あの日と同じだった。
――忘れたくとも忘れられない、嫌な記憶が胸の奥から浮かび上がる。
友達と遊んでいた。男同士で、ふざけ合って。
妹は、少し離れたところにいた。
そのとき。ほんの一瞬。ほんの少しだけ。邪魔だな、と思った。
それだけだった。
なのに。
「……やめろ」
勇希の視界が、赤く染まる。
――悲鳴。
甲高い、聞き慣れた声。地面に倒れる、小さな体。
頭から流れる、血。
「……あ」
足が、動かない。あの日も、そうだった。
一瞬、理解が追いつかなくて。身体が、固まって。
咲良が倒れる。
周囲が騒ぐ。
――自分は、何を考えていた?
これでもう後を追いかけて来なくなるだろうな。その考えが、頭をよぎった。
次の瞬間、吐き気がした。
「……オレは……」
視界が、ぐにゃりと歪む。
公園が崩れ、別の光景が重なる。
今度は、教室。
オレの座る席を囲むクラスメイト。
「お前さ、最近調子乗ってない?」
「ダンジョンで活躍してるからってさ」
笑い声。ひそひそ声。
掲示板の書き込みが、壁に浮かび上がる。
――高ランクポーションを私情で使ったクズ。
――たかが数センチの傷跡のために?
――重症者に回せよ。
画面もないのに、文字だけが浮かぶ。見たこともない書き込み。それなのに、やけに現実味があった。
「……違う」
勇希は頭を抱える。
「違う……!」
それでも、文字は消えない。
今度は、妹の姿が重なる。成長した咲良。額の傷を、指でなぞる。
「お兄ちゃん、これ……本当は嫌だった」
そんなこと、言われたことはない。
なのに。
「でも言えなかった。だって、お兄ちゃん、ずっと守ってくれたから」
胸が、締めつけられる。
――守って?
違う。あれは、贖罪だ。自分を許すための、自己満足だ。
「オレは……」
声が、震える。そのとき、背後から、吐息がかかった。
「苦しい?」
甘い声。耳元で、囁く。
「それがあなたの本音なのでしょう?」
振り向くと、そこにサキュバスがいた。
艶やかな笑み。
インキュバスも、反対側に立つ。
「一撃で倒せるのに、できないのはなぜ?」
「心が、縛られてるからだよ」
勇希は歯を食いしばる。
「……黙れ」
「ねえ、教えてあげる」
サキュバスが、指先で胸に触れる。
「あなたは、罰を求めてる」
「許されるより、苦しむ方が楽なんでしょう?」
その言葉が、深く突き刺さる。否定できなかった。
――そうだ。
あの日からずっと。妹を守ることで、危険なダンジョンに潜ることで、自分を追い込むことで。
罰を、探していた。
「……オレは」
勇希は、ゆっくりと剣を握り直した。腕が、重い。
本来なら、目の前の二体は脆い。耐久力は低い。物理攻撃に弱い。一撃で、終わる相手だ。
なのに、心が言う。
――倒す資格があるのか?
その瞬間、咲良の声が重なった。
「お兄ちゃん」
幻の妹が、微笑む。
「ねえ、いつまで自分を責めるの?」
勇希は、はっとする。
「……それは」
「私、そんなふうに思ってないよ」
胸が、痛む。そうだ、咲良ならきっとそう言うだろう。
それでも。勇希は、目を閉じた。
――これは、幻だ。
――でも、感情は本物だ。
「……オレは、間違えた」
静かに、言葉を紡ぐ。
「でも、それだけで全部を否定するつもりはない」
剣を、構える。
「オレは、咲良を守りたい」
サキュバスが、目を細める。
「それも、自己満足じゃない?」
「……かもな」
勇希は、前に出た。
「それでもいい」
踏み込み。剣を、振るう。世界が、ひび割れる。
サキュバスの笑みが、驚愕に変わる。
インキュバスが、叫ぶ。
「精神抵抗……!? ここまで幻覚に捕らえたのよ! ありえない!」
「……オレは、弱い」
勇希の剣が、光を帯びる。
「だから、折れそうになる」
斬撃。一体目が、霧散する。
「でも、弱いままでも――」
二体目に、踏み込む。
「前には、進める」
断ち切る。景色が、砕け散った。
次の瞬間。
勇希は、ダンジョンの冷たい床に膝をついていた。
全身が、汗で濡れている。
「……はぁ……はぁ……」
呼吸が、荒い。だが、頭は冴えていた。
サキュバスとインキュバスの姿は、もうない。
倒した。
――心の奥を、抉られながら。
「……これが、上級ダンジョン、か」
呟く声は、震えていたが。確かに、前より強かった。それが、勇希自身にも分かった。
だが同時に、理解する。
ここは、まだ入口だ。上級ダンジョンは、力だけでは足りない。心を、試される。
勇希は、ゆっくりと立ち上がった。
次に進むか、撤退するか。
その選択が、迫っていた。




