第十九話 日常という名の準備期間
朝の食卓は、いつも通りだった。
「お兄ちゃん、今日もダンジョン?」
味噌汁をよそいながら、咲良が何気なく聞いてくる。
「いや、今日は行かない。調べもの」
「ふーん」
それだけ言って、咲良は納豆をかき混ぜ始めた。
特別な会話でもない。ニュースの話題も、ダンジョンの話も出ない。
それなのに――勇希は、どこか落ち着かなかった。
理由は分かっている。
昨日、夢ダンジョンで手に入れたもの。リュックの奥に仕舞い込んだままの、上級ダンジョンへの招待状。
咲良には、まだ言っていない。
言えるはずがなかった。
「……咲良、今日は学校どうだ?」
「え? 普通だけど」
「……怪我とか、してないよな?」
「してないよ? 何、急に」
不思議そうに首を傾げる妹に、勇希は視線を逸らした。
「いや、その……念のため」
「お兄ちゃん過保護すぎ」
くすっと笑われて、胸が少し痛む。
分かってる。自分でも、過剰だって分かってる。
それでも――
あの傷痕が出来た日を、思い出さない日はなかった。
咲良が登校したあと、勇希は自室にこもった。
パソコンを立ち上げ、掲示板とSNSを片っ端から開く。
検索ワードは当然――「上級ダンジョン」。
出てくる情報は、予想以上にバラバラだった。
『上級は別ゲー。中級までとは常識が違う』
『即死罠あるってマジ? 盛ってるだろ』
『呪い状態で詰む。回復薬じゃ足りない』
『いや、上級は存在自体がデマ』
スクロールするたび、意見がひっくり返る。
ガセ。
誇張。
伝聞。
それっぽい体験談。
どれが本当で、どれが嘘か分からない。
「……まあ、そうだよな」
政府が公式に認めたのは、中級ダンジョンまで。上級については、存在を示唆する発言すら曖昧だ。
だからこそ、噂だけが先行する。
だが――
勇希は、昨日の戦いを思い出す。あのユニークモンスター。明らかに、中級の枠を超えた存在。
そして、手に入れた“招待状”。
――あれが、全部嘘だとは思えない。
「上級ダンジョンなら……」
呟きながら、さらに情報を掘る。
『上級はドロップが違う』
『上級回復薬が普通に落ちるらしい』
『聖水の上位品も確認されたとか』
胸が、少しだけ熱くなる。
上級回復薬。
それは、勇希にとって特別な言葉だった。
掲示板で見た、あのスレ。
**「上級回復薬で古傷が消えた」**という書き込み。
当時は、半信半疑だった。
だが、自分自身がダンジョンを潜り、回復薬の性能を体感した今なら――
「……あり得る」
あり得てしまう。
ポーションや回復薬は低ランクのアイテムでも現実的では無い魔法のような効果だった。確実に怪我を治している。
なら、上級アイテムなら?
咲良の傷痕を、完全に消せる可能性がある。
「……」
勇希は、拳を握った。
自分のせいでついた傷。正確には、守れなかった結果。妹は、もう気にしていない。
そう言ってくれる。
それでも、兄として――
いや、一人の人間として、納得できない。
昼過ぎ、勇希は買い出しに出た。
咲良の好きなプリンと、安売りしていたアイス。別に頼まれてもいないのに、自然と手が伸びる。
「……ほんと、シスコンだな」
自嘲気味に笑いながら、帰路につく。
家に着くと、ちょうど咲良も帰宅していた。
「おかえりー」
「ただいま」
リビングに置いた袋を見て、咲良が目を輝かせる。
「え、プリン?」
「ついで」
「絶対ついでじゃない」
そう言いながらも、嬉しそうに冷蔵庫へ向かう姿に、胸が少し軽くなる。
夕食の支度を手伝いながら、勇希は考えていた。上級ダンジョンは、危険だ。
噂の半分が本当なら、今までとは比べものにならない。
それでも――
逃げる理由は、もうない。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「最近、ちょっと顔つき変わった」
「……そうか?」
「うん。なんか、前より前向いてる感じ」
何気ない言葉。だが、胸に刺さる。
勇希は、少しだけ笑った。
「……そっか」
夜。
布団に入り、目を閉じる。夢ダンジョンに入る前の、独特の感覚が近づいてくる。
上級ダンジョン。
未知。
危険。
それでも、確かな希望。
――もし、あの噂が本当なら。
「咲良の……」
声に出す前に、眠りが深くなる。
勇希はまだ知らない。
上級ダンジョンが、願いを叶える場所であると同時に、願いを試す場所でもあることを。
だが、それでも。彼は、迷わず進む。
妹の傷痕を消すために。いや自分の後悔のために。
そして――自分自身の贖罪のために。




