第九話 沈黙する現実
夢を見なかった夜は、久しぶりだった。
目を覚ました勇希は、天井を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
寝汗もない。心拍も落ち着いている。悪夢の名残もない。
――何も、なかった。
それなのに、胸の奥にだけ、重たいものが残っている。
「……今日は、普通でいよう」
自分に言い聞かせるように呟いて、布団を抜け出した。
朝食の席では、父が新聞を読み、母が弁当を詰めている。
咲良はスマホをいじりながら、いつも通りの顔だ。
ニュース欄に、ダンジョンの文字はない。
夢の話も、奇跡の回復の話も、どこにも載っていない。
消されたのか。
最初から、載せなかったのか。
「お兄ちゃん、今日部活ある?」
「……ああ、ある」
嘘だった。
今日は休むつもりだった。
何も考えずに走って、汗を流して、全部忘れてしまいたい。
でもそれは、“現実に戻る”ことじゃない。
“逃げる”ことだ。
学校では、空気が妙だった。
誰も何も言わない。
なのに、誰もが「何か」を知っているような、沈黙。
教室の隅で、スマホを伏せたまま俯くクラスメイト。
視線が合うと、慌てて逸らされる。
夢の話題を振る勇気は、誰にもない。
昼休み。
勇希は屋上に出た。
風が強く、空はやけに高い。
フェンス越しに見える街は、いつもと変わらないのに、どこか作り物みたいだった。
「……潜らない」
声に出す。
オレは、もう行かない。進まない。
夢だろうが、何だろうが、関係ない。
妹がいる。
家族がいる。
これ以上、踏み込む理由なんてない。
その夜。
眠りに落ちる直前まで、勇希は強く意識を保っていた。
目を閉じるな。
考えるな。
呼ばれるな。
それでも――
世界は、静かに切り替わる。
足元は土。
湿った空気。
遠くで水の滴る音。
前よりも、はっきりしていた。
「……くそ」
今回は、分かる。
ここが“夢の中”だということが。
通路は広く、罠は見当たらない。
初心者向け――いや、選別用。
勇希は、立ち止まった。
進めば、何かが得られる。
進めば、何かが変わる。
でも同時に、戻れなくなる。
背後から、声は聞こえない。
命令も、誘導も、ない。
ただ、待たれている。
――選べ。
勇希は、拳を握りしめた。
「……オレは」
逃げることもできる。
目を覚まして、なかったことにすることも。
でも。
この夢が、妹にも触れるものなら?
この“選別”が、無作為じゃないなら?
オレだけが、知らないふりをしていいのか。
勇希は、一歩だけ、前に出た。
その瞬間。
どこか遠くで、何かが静かに肯定した。
――まだ、見ている。
世界は、もう始まっている。




