記憶の中の企み
8月7日・金曜日。
今朝の天気は、快晴です。
♫チャンチャチャ〜♪
軽快な音楽がテレビから流れ出し、リビングに小気味よい朝の空気が広がる。
「おはようございます!今朝も元気にまいりましょう!」
お茶の間の“朝の顔”として、すっかり定着した男性アナウンサー・生島博之が、画面の向こうからいつもの調子で語りかけてくる。歯切れのいいテンポと、程よい脱線が人気の秘密だ。
隣に座るのは、清楚な笑顔が印象的なアシスタントアナウンサーの桐島恭子。近頃では二人の掛け合いが“名物”とされ、視聴者からの支持も厚い。
「今朝の気温は……え〜っ!すでに32度を超えています!」
「それじゃあ、今年中に60℃超えそうだね〜!」
「そんなことありませんのでね。皆さま、どうかご安心ください」
──ここまでが、もはや**番組の“恒例のくだり”**になっていた。
朝からうんざりするような暑さの中でも、彼らのやり取りはどこか軽やかで、日常の一部として受け入れられていた。
ここ数日、茹だるような暑さが続いていた。
夜になっても気温は下がらず、扇風機の風さえも、ぬるく肌にまとわりつくだけだった。
警視庁湾岸署の巡査部長、園部美也子は、そんな寝苦しい夜に、うだうだとネットのオンデマンド放送の番組表を眺めていた手を止めた。画面に映っていたのは、NHKの大河ドラマ。
タイトルは、『真田丸』。
物語は、主人公・真田幸村がまだ「源次郎信繁」と呼ばれていた少年時代から始まっていた。
その第一話の冒頭、甲冑を纏った真田昌幸が、深い山中を駆け抜け、霧の向こうから現れる場面を観た瞬間──美也子の心に、何かがすっと射し込んだ。
(ああ、涼しいところへ行きたい……)
そう思ったときには、すでにスマートフォンを手に取り、LINEで友人にメッセージを打っていた。
「美波、今週末、長野行かない?」
葛飾署交通課勤務の婦警・山中美波とは、警察学校の同期で、今でも時折飲みに行く仲だ。
翌朝、美波から「いいね、涼しいところがいい!真田の里とか?」という返信が返ってきて、美也子は小さく頷いた。
──こうして、**女ふたりの“真田旅”**が、突如として決まったのだった。
行き先は、長野県上田市。真田氏のかつての本拠地であり、大河ドラマ『真田丸』の舞台ともなった土地。
**
今回、2人が選んだのは――
東都観光バス主催、「タラバガニ&さくらんぼ食べ放題付き・信州日帰りバスツアー」。
観光地を効率よく巡れる気軽さと、何より“食べ放題”の魅力に惹かれての申し込みだった。
集合場所は、バスタ新宿。時間は午前7時30分。
まだ少し余裕のある朝の新宿駅南口。
吐き出されるように出てきた人波のなかで、山中美波が急に足を止め、目を輝かせながら声をあげた。
「ねえ、美也子。早速だけど、集合時間って7時半よね?……あと1時間あるし、少し腹ごしらえといかない?」
「……あなたの腹の虫は、相変わらず元気ね」
思わず吹き出したものの、園部美也子も心の中で納得する。考えてみれば、朝起きてからまだ、コーヒーを一杯飲んだきりだった。
「いいわよ。軽く何かつまもうか」
そんなふうに頷き合いながら、2人が選んだのは――
駅のすぐそば、朝7時から店を開けている、小洒落たベーカリーカフェだった。
外観は、白を基調にしたウッド調の明るい造りで、店先には「焼きたてパンあります」の黒板ボードが立てかけられている。
ガラス越しに見える店内には、朝の光が差し込み、カウンター席にはすでに若い女性客が一人、スマホ片手にカフェラテを飲んでいた。
「なんか、旅の朝って感じだね」
「うん……こういうの、ちょっと久しぶりかも」
そう言って、美也子はショーケースの中のクロックムッシュを、そして美波は焼きたてのバターチキンカレーパンを手に取った。
**
「お早うございます!」
元気な声が、バスタ新宿の集合場所に響いた。
「わたくし、今回、皆様の楽しみにしていただいておりました、長野県へのバスツアーに添乗させていただきます、望月遥子と申します!」
年の頃は30代前半くらい。肩までの髪をすっきりまとめ、白と緑のツアージャケットを着た女性が、にこやかに深く一礼した。
「定刻まで、あと5分ほどございます。お手洗いは大丈夫でしょうか? 長距離の移動になりますので、ご不安な方は今のうちにどうぞ!」
明るく、どこか芝居がかった口調だが、それがまた場の空気をやわらかくしていた。夏の朝の、張り詰めすぎない緊張感にちょうどいい“軽さ”がある。
「なんか、プロって感じね……」
美波がこっそり耳打ちし、美也子は「確かに」と頷いた。
数分後、定刻午前7時30分。
「それでは皆さま、お揃いのようですので──まいりましょう!」
バスのドアがウィンと開き、参加者たちがぞろぞろと乗り込んでいく。
美也子と美波もそれに続き、後方の2人掛けシートに腰を下ろす。
エンジンがかかり、バスがゆっくりと新宿駅の高層ビル街を後にする。
窓の外には、朝陽を浴びたビルの谷間。休日の都心は思ったよりも静かだった。
バスはやがて首都高に乗り、中央道を通って、一路長野県を目指して走り出した。
車内には、望月遥子の柔らかな声で流れるツアー案内が響いている。
「……本日は、長野県上田市、真田氏ゆかりの地へのご案内となります。途中、中央アルプスを望むサービスエリアでの休憩を挟みながら、さくらんぼ農園でのさくらんぼ狩り体験、続いて、タラバガニ食べ放題会場へと移動して、思う存分タラバガニを堪能していただきます。 皆さま、どうぞお楽しみに──!」
声に合わせて、バスのあちこちから小さな拍手と笑い声が起こった。
そのなかで、美也子は目を閉じ、そっとシートに身体を預けた。
**
午前9時を少し過ぎた頃、バスは最初の目的地――さくらんぼ観光農園に到着した。
「うわぁ……思ったより広いし、清々しい雰囲気のところね」
降り立った園部美也子は、朝の陽射しを浴びてきらめく果樹園の向こうを眺めながら、楽しげに呟いた。
見渡す限り、緑に包まれた丘陵地。整然と並んだビニールハウスの中には、たわわに実る真っ赤なさくらんぼが、枝を重たげに垂らしている。
「……あら、ここ、まだ山梨県なのね」
同行した望月遥子が頷いて補足する。
「白根のあたりは、フルーツ王国といわれるくらい、桃やさくらんぼの名産地なんですよ〜」
「へえ……やっぱりね」
美也子が感心していると、隣の山中美波が、キラキラと目を輝かせて立ち上がった。
「フルーツなくして、何の女子旅かっ!」
今にも雄叫びを上げそうな勢いで、農園のビニールハウスに突撃しそうな表情だ。
その気迫に、思わず美也子が吹き出す。
「あんたの鼻息の荒さは、女子旅っていうより……出陣前の武者のようよ」
その言葉に、美波はぴたりと動きを止め、ふと意味ありげな笑みを浮かべた。
「……でも、旅って、ちょっと戦いに似てるところ、あると思わない?」
「……何と戦うのよ。胃袋と?」
「それもあるけど……たとえば、過去とか、自分とか」
冗談めかした口調だったが、美也子はその一言に、わずかに胸の奥を突かれるような感覚を覚えた。
「……やめてよ。朝っぱらから哲学は」
そう言いつつも、美也子の笑みには、どこか影がさしていた。
──果樹園の向こう、青空に浮かぶ雲は、まだ夏の形をしていた。
「満足満足!」
農園の出入口に戻ってきた山中美波は、どっかりと腰に手を当て、大袈裟にお腹をさすってみせた。
「も〜う、これ以上は入らないかも……とか言って、あと3粒は食べられたかも……!」
「あなたねぇ……」
園部美也子は、呆れ顔で笑いを堪えながら言った。
「本番の“タラバガニ食べ放題”はこれからなのよ?」
「なに言ってんのよ!あれはあれ、これはこれよ!」
美波は、得意げに指を立てて宣言する。
「カニは別腹って言うでしょ?」
「初耳よ、そんな格言……」
「女子旅の常識よ」
「……美波、あんたのお腹に感心するわ」
そう言った瞬間、美也子はついに堪えきれず、ぷっと吹き出してしまった。
「やだ、なによぉ〜」
美波も笑いながら、美也子の腕を軽く小突く。
まるで学生時代に戻ったような、無邪気な時間。
空は高く澄み、さくらんぼの赤い実の甘さが、まだどこか口の中に残っていた。
このあとのタラバガニ会場まで、バスで約一時間。
**
タラバガニ食べ放題会場は、上田市内の中心に近い繁華街の一角にあった。
建物の名前は、悠華会館。
レストランらしい佇まいではなく、地域のイベントや法事、婚礼なども行われていそうな、やや年季の入った多目的施設だった。
「……ここ?」
バスを降りた美也子が、建物を見上げて眉をひそめる。
白いタイル貼りの外壁。入り口の自動ドアの上には、古びた金色の看板で「悠華会館」と掲げられている。
「見た目で判断しちゃダメよ。カニは中身で勝負なんだから」
すでに食欲で前しか見えていない山中美波が、先にスタスタと中へ入っていく。
その背を追いかけるように、美也子も歩き出した。
ちょうどその時だった。
ぽつ、ぽつ……
空から小さな雨粒が落ちてきた。
「……降ってきたわね」
思わず見上げた空は、低く灰色に垂れ込め、まだ明るさの残る夕方の光を、淡く滲ませていた。
蒸し暑く、どこか湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
けれどそのジメジメとした空気が、逆に、この街の奥深さや古い歴史の重みを浮かび上がらせるようでもあった。
「……なんか、時代劇のワンシーンみたい」
思わずつぶやく美也子の言葉に、美波が入り口のガラス戸の向こうで振り返る。
「だったら、カニは出陣前の軍議ってとこね!」
「……カニがそんなに重要?」
「重要よ。勝敗は胃袋で決まる!」
美波の相変わらずの食い気ぶかい台詞に、美也子は呆れつつも、心が少し軽くなるのを感じた。
まるで、薄く重ねられた過去の雨雲を、一瞬だけ払いのけるような声だった。
しかしその背後で、誰かの視線を感じた気がして、美也子はふと振り返った。
そこにはただ、濡れたアスファルトと、ひっそりと佇む商店街の看板たちがあるばかりで人の姿はなかった。
歴史のある建物だとしたら、過去の誰かの想いなんかも残っているのかもしれないわね。
**
タラバガニ食べ放題会場・悠華会館内――
会場内にはカニの香りと蒸気が立ちこめ、湯気を上げる大鍋の前では、調理スタッフが黙々と沢山のタラバガニの脚を並べていた。
「うわぁ……これ、マジで食べ放題ってやつよね!?」
「見るからに高そうよね……元とらなきゃ」
2人は顔を見合わせ、同時に声を揃えた。
「……まずはビール、よね」
係員に生ビールを2つ頼み、グラスがテーブルに運ばれてくると、ふたりは笑いながら乾杯した。
「ん〜〜っ、生き返るぅ!」
「……やっぱりこういうの、たまには必要ね」
沢山のカニが所狭しと並べられたテーブル。
笑い声もあちこちからこぼれ、すっかり宴もたけなわという様相だった。
***
そのころ。
ホールの隅で、添乗員の望月遥子はこっそりと頭を抱えていた。
「……いやほんと、毎回じゃないんですけどね。こういう人が、時々いらっしゃるんです」
目の前の席には、美也子と美波。すっかり食後のひと息に入っていたふたりは、まるで旧友のように遥子の愚痴に付き合っていた。
問題の人物は、会場の奥で、やや大きな声を張り上げてビールを煽っている中年男性。顔は真っ赤で、カニよりもアルコールの方に全力投球しているようだ。
「バスツアーって、こういうのも込みの経験なのかしらね……」
「はは、まあ、警察沙汰にならない限りは、笑い話ですけどね……」
遥子が肩をすくめた。
「それでも、何かあったら私が責任取らなきゃですし。旅はいいけど、団体ってのは、人間模様の縮図っていうか……」
「それ、よく分かるわ」
美也子がふと、遠い目をしてつぶやいた。
警察官としての日々のなかで、何度も見てきた――
どうしようもない人間の愚かしさと、時に胸を打たれるほどの優しさと。
「望月さんって、何年くらいこの仕事されてるんですか?」
美波の問いかけに、遥子はグラスの氷をくるりと回してから答えた。
「今年で14年目です。でも、上田方面の添乗は初めてで……ちょっと、昔のことを思い出す土地なんですよね」
「え……?」
美也子と美波が視線を交わす。
その一言には、旅に付きものの“偶然”には思えない、何かの気配が含まれていた。
気さくな言葉を交わしているうちに、美也子と美波はふと、胸の奥にかすかなひっかかりを覚えた。
さっきの、「昔のことを思い出す土地なんです」という、望月遥子のひと言が、何かを含んでいたように感じられたのだ。
美也子が、水を向けるように静かに尋ねた。
「望月さんって……お生まれは東京なんですか?」
望月は、一瞬だけ目を伏せ、それから小さく首を振った。
「いえ……生まれは信州の松本なんです」
「松本……」
「私がまだ小さかった頃に、父が南アルプスの北岳で滑落事故に遭って、亡くなってしまったんです」
その言葉に、美波が表情を曇らせた。
一瞬、ビールの泡が喉を通る音が、場違いなほどに生々しく響いた気がした。
「……それで、母と二人で母方の実家を頼って移ったのが、埼玉の所沢で」
「え、埼玉?」
美也子が目を見開く。
「あら、私たちも埼玉よ」
「私は大宮、この子は蕨」
「私たち、出身が近いねって、警察学校で意気投合したんですもん。実際、出身高校もすぐ隣で。学園祭なんて、行き来するのが当たり前な感じだったよね」
美波がにっこりと微笑みながら、グラスを置いた。
「まあ……そんな偶然もあるんですね」
望月は、少しだけ遠くを見るような表情をして、微笑み返した。
けれどその目の奥には、まだどこか、語りきれない翳りが残っていた。
「所沢なら……西武線?」
「うん、池袋線沿線」
「私の通ってた中学、所沢第三中なんです」
その名を聞いて、美也子がふと手を止めた。
「……第三中? そこって、昔……」
「え?」
「いえ、ちょっと……知ってる子が、通ってたって聞いたことがあるような気がして」
言いながら、美也子自身、なぜその学校名が引っかかったのかは、まだ思い出せなかった。
だが、その時。
どこかで、ひっそりと錆びついた記憶の扉が、かすかに軋んで開いた気がした。
**
「……私も聞いたことがある」
美也子がぽつりと漏らしたその一言に、空気がわずかに変わった。
その変化を感じ取った美波が、グラスを置き、声を潜めて話し出す。
「確か、三中って──
……2年連続で自殺者が出たんだよね」
望月遥子が微かに身じろぎした。
「1人目の子は、イジメが原因って……学校側も認めざるを得なかったって聞いた。
でも、2人目の子は、誰にも理由が分からなかったって」
「クラスメイトも、先生も、家族さえも」
美波の声は、ますます低く、呟きのようになっていく。
「しかもね、最初の子が“引きずり込んだ”ってウワサが広がってた。
……“お祓いが行われた”とか、“ロッカーに御札が貼られた”とか、そんなオカルトじみた話が、ひとり歩きしてたの」
その言葉に、望月遥子の指が、無意識にグラスの縁をなぞっていた。
「やだ……それって……」
「いま思うと、噂の半分以上は誇張だったかも。
でも、当時は本当に、何かあったんじゃないかって皆が思ってた。
空気が重いっていうか、背中がざわっとするような、妙な学校だったって」
美波がふと口をつぐみ、隣を見ると、美也子もまた、眉間に皺を寄せていた。
「私……その話、もっと詳しく聞いたことがある気がする。
……ただの学校の噂話じゃなくて、事件として、どこかで……」
美也子の声は、いつもの穏やかさとは違い、明らかに何かを探るような響きを帯びていた。
そんな2人を前にして、望月遥子は静かに目を伏せた。
まるで、その話題に触れたことで、心のどこかを、そっと剥がされたように。
「……そのうちの、1人目が、私の幼なじみでした」
しんと、音のない時間が流れた。
雨は、外でまだ静かに降り続いていた。
**
遥子は静かに語り始めた。
「小学四年生のときに、所沢に越してきたんですけど……」
ゆっくりと、過去の扉を開けるように言葉を選ぶ。
「あの子──山本あずさは、私にとって、所沢で初めてできた友達でした。
すぐに仲良くなって、……なんていうのかな。初めて“親友”って思える子だったんです」
その言葉のあと、遥子は一度、目を伏せた。
まぶたの裏に、その頃の景色でも浮かべているかのように。
「私、転校生だったから……やっぱり最初は、どこか輪の外にいたんです。
でも、あずさだけは最初から自然に声をかけてくれて……一緒にランドセルを背負って、並んで帰った日、まだ空がオレンジ色で、風が気持ちよくて……」
そこまで話して、遥子はふっと、短く笑った。
「……あのときのこと、なんでか今でも鮮明に覚えてるんですよ。
でも……それから、たった2年後に、あずさはいなくなった」
「……」
美也子も美波も、黙って耳を傾けていた。
「ある日、学校に来なくなって。
その翌日、……朝、あずさの家の近くの林で、遺体が見つかったって、ニュースで知りました」
遥子の声はかすかに震えていた。
「自殺だったって、言われました。
あずさが……自分で命を絶つなんて、どうしても信じられなかった。
でも、大人たちは皆、そう決めつけた。『いじめがあった』って噂もあったけど、担任は否定して……」
「……学校が、認めたのよね。あとになって」
美波がぽつりと呟いた。
「ええ。でも、それでも……」
遥子は、両手を膝の上で組んだまま、かすかに俯いた。
「その翌年、もうひとり、別のクラスの子が自殺したんです。
でも、今度は本当に、何の理由も分からなかった。
その子、クラスでも明るくて、友達も多くて……ご家族も、ほんとに理由が分からないって、ずっと泣いてました」
「そして、噂が流れたんですね……」
美也子の声は低かった。
「“最初の子が引きずり込んだ”……」
「……ええ。でも、それは全部、大人たちが真面目に向き合わなかったせいだと思ってます」
そう言って、遥子は、まっすぐに美也子と美波を見た。
「だから、私は大人になったら……
いつか、あのことの本当の理由を知りたいと思ってた」
**
帰りのバスがエンジンをゆっくりとかけ、上田の街並みを背に動き出した頃――
車内の空気はすっかり和らぎ、参加者たちはほどよく疲れた表情で、それぞれの座席に身を沈めていた。
窓の外では、夕立の名残の水たまりが夕陽に反射して、街をオレンジに染めていた。
そんな中、山中美波がふと笑いを噛み殺しながら、美也子に身を寄せて囁いた。
「ねえ、あの酔っ払いのオジサン、
奥さんの一喝で、嘘みたいに静かになったって知ってた?」
「えっ……そうだったの?」
美也子が驚いたように振り返る。
「言われてみれば、途中から驚くほど静かだったわよね……」
美波は目を細め、肩を震わせながら続けた。
「上田城の博物館をみんなが観覧してる間……
遥子さんが言ってたんだけど、奥さん、カンカンに怒っちゃって。
『アンタはどこのどいつのツアーを台無しにしてんのよ!』って、すごい剣幕だったんだって」
「ふふっ……あの奥さん、やるわね……」
美也子は、思い出し笑いをこらえきれず、ついに吹き出した。
「『ちょっとくらいなら飲んでも大丈夫だって言ったの、そっちでしょ!?』とか、
『タラバガニも食べてないくせに、何杯飲んだか覚えてんの!?』とか……」
「もう、完全に家庭内戦国時代だったって」
「こらこら、信州でそれ言う?」
3人の笑いがバスのなかで小さく弾けた。
少し前の、あの静かな告白が嘘のように――
旅の終わりには、また少し軽くなった笑いが、3人の間に戻っていた。
添乗員席から振り返った望月遥子も、少しほっとしたような顔で微笑んでいた。
旅は終わりに近づいていた。
**
東京に戻った3人は、近いうちの再会を約束して別れた。
それぞれの日常へと戻りながらも、心のどこかには、信州で過ごした濃密な時間と、そこに浮かび上がった“記憶の輪郭”が、まだくっきりと残っていた。
数日後。
渋谷区恵比寿2丁目、
住宅街の目立たないが、明るい雰囲気の喫茶店に美也子は来ていた。
ベージュのクロスが敷かれたテーブルに、ミルクの香りの漂うカフェラテと、冷めかけたレモンティーが置かれていた。
「そうなんですよ」
美也子はそう言って、小さく笑いながらカップを持ち上げた。
「美波ったら、やっぱり食い意地すごくって。さくらんぼ、あんなに食べたのに、その後のタラバガニでも、“元取らなきゃ”って張り切っちゃって」
「ふふ……」
「あのときの後ろ姿、ほんとにね、戦国武将が出陣するみたいだったんです。
悠華会館ののれんをくぐる姿、いまだに目に焼き付いてますよ」
向かいに座っている男は、ゆるやかな笑みを浮かべながら、その話に耳を傾けていた。
神谷諒一。警察庁公安部に所属する、かつて美也子の直属の上司だった男だ。
今では部署も離れ、顔を合わせる機会も限られているが、たまにこうして――ふとしたきっかけで会うことがあった。
「……楽しそうだったな、おまえ」
そう言って、神谷は軽く目を細めた。
「たまには、そういう顔も悪くない」
「……たまには、って失礼ですね」
美也子は肩をすくめつつも、心の奥がほんの少し温まるのを感じていた。
「でも……楽しかっただけじゃ、なかったんですよ。
旅の途中で、少しだけ、昔のことに触れたというか……気になることがあって」
神谷の目の奥に、わずかな変化が走った。
「……“事件の匂い”か?」
「どうでしょう。まだ確証はありませんけど」
美也子はそう言って、静かにティースプーンを受け皿に置いた。
**
東京に戻った翌週、園部美也子と山中美波は、さっそく動き出していた。
2人が連絡を取ったのは、所沢東署の交通課に勤務する警察学校時代の同期、中嶋裕子だった。
裕子は、同期のなかでも落ち着いた性格で、人当たりがよく、署内での人脈も広い。頼りにされる存在だった。
《久しぶり。いきなりでごめん。ちょっと、少年課に聞きたいことがあるんだけど……》
そんなメッセージに、裕子は即座に反応してくれた。
《いいよ。今ちょうど、少年課のベテランが詰めてるから話通してみる。たぶん、力になってくれると思う》
裕子が紹介してくれたのは、所沢東署少年課の古株刑事、安藤優子巡査部長だった。
年は50代前半。少年事件の取り扱いに関しては署内でも一目置かれるベテランで、「安藤さんに聞いて分からないことは、ない」と言われるほどの人物だ。
翌日、2人は所沢東署を訪ね、裕子の案内で少年課の一室に通された。
「ようこそ。……あんたたち、裕子の同期ね。警察学校時代の?」
開口一番、安藤優子はそう言って目を細めた。短く整えた髪に、深いネイビーのジャケット。派手さはないが、目には確かな鋭さが宿っている。
「お話を聞いたわ。山本あずさと、もうひとりの生徒が亡くなった件……あのとき、うちにもかなり報告が上がってきてた」
「記録って……残ってるんでしょうか」
美也子が慎重に尋ねると、安藤は一瞬だけ言葉を止めた。
「……記録は、ある。でも、閲覧には理由が要るわよ。
それと、思ってる以上に、あの件には手を出しづらい空気があったの」
「手を出しづらい?」
「“イジメ”ってことで蓋をしたがってた人間が多かったの。
でも本当は、その“いじめ”の線が、あずさちゃんの件だけじゃ説明つかないって、当時も言われてた」
「じゃあ、2人目の生徒……?」
「ええ。自殺じゃないって言い張ってた職員もいたわよ。証拠はなかったけど、状況に違和感が多すぎたって」
静かに進んでいく会話の中で、次第に場の空気が重くなっていく。
安藤優子は、一枚の古びたファイルを机の引き出しから取り出すと、表紙を指でなぞって言った。
「この記録、正式な開示はできないけど……同期のよしみで、あんたたちが本気なら、目を通すくらいなら見逃してあげるわ」
美也子と美波は、そっと視線を交わした。
ついに、過去の闇へと通じる扉が、音もなく開かれた。
安藤優子がそっと開いた古びたファイルのなかに、一枚の写真が挟まれていた。
カラーとはいえ、年月の経過でやや褪せた光沢紙。
その中央に映っていたのは、ふたりの少女だった。
――山本あずさと、もう一人。
後に2人目の自殺者として名を記録された、清水祐美子。
背景には、石垣。
上部に見える黒塗りの塀と、奥にそびえる櫓の一部。
「……上田城ですね」
美也子が、写真を手に取りながら呟いた。
ふたりは、並んで立ち、にこやかな笑みを浮かべている。
まだあどけなさの残る顔。あずさは髪を後ろでまとめ、祐美子は肩までのボブを揺らしていた。
不鮮明ながらも、その**“仲睦まじい空気”**は写真越しにもはっきりと伝わってくる。
裏返された写真の裏書には、ボールペンでこう記されていた。
「平成12年8月 上田城」
「……2人、繋がってたんだ……」
美波がぽつりと漏らした。
「遥子さんの話では、あずさと祐美子に接点はなかったはずよね」
美也子も、違和感を隠さなかった。
「ええ。私もそう認識していたわ」
安藤が静かに頷いた。
「校内で一度も言葉を交わしていなかったって証言もある。
担任たちの間でも、2人はクラスも違ったし、関係はなかったとされてた」
「でも、これ……」
美也子が改めて写真を見つめながら言った。
「一緒に旅行している写真よ。しかも、笑顔で」
「場所は上田。遥子さんがこの前訪れた、あのツアーの目的地と同じ」
美波が、思わずぞくっと肩をすくめる。
「この事件、やっぱりおかしいわ。
ただのいじめとか、偶発的な自殺じゃ説明がつかない。
何か、もっと深いところで、……共通した原因がある気がする」
安藤は黙ったまま、腕を組んで天井を見上げた。
「……写真の出どころは不明なの。資料に紛れ込んでたって記録されてるけど、誰が提出したのかも記載されていない」
「そんなこと、あり得ますか?」
「本来なら、あり得ない。けど……これは“何かを伏せたかった誰か”が、故意に曖昧にした可能性があるわ」
美也子と美波は、再び写真に視線を落とした。
あずさと祐美子。
自殺したはずの2人が、上田城で並んで笑っていた夏の日。
それはまるで、誰かが意図して隠していた“真実”が、ひとつ顔を出したかのようだった。
数日後。
夜の池袋駅西口。
ネオンに照らされた雑踏のなか、3人の女性の姿が、駅から数分の雑居ビルの前に現れた。
目的地は、そのビルの3階に入っている、大衆居酒屋チェーン店――「酒処 より道」。
赤提灯の灯る入り口には、仕事帰りの会社員や学生らが行き交い、熱気と湿気が混じりあう空気のなか、のれんをくぐる。
カウンター奥の半個室に通された3人は、それぞれ生ビールとお通しが運ばれるのを待ちながら、視線を交わした。
「それじゃあ……」
美也子が軽くグラスを掲げた。
「“山本あずさ事件・途中経過報告会”ってことで、乾杯しましょうか」
「いいね、じゃあ――乾杯!」
「乾杯!」
グラスが軽くぶつかる音と同時に、泡立つビールが喉を滑り落ちる。
「……で、美也子さん」
グラスを置きながら、望月遥子が少し声を潜めて切り出した。
「写真の件、その後何かわかりました?」
「うん。あれから警視庁の資料室で、当時の地域報告書を調べたの。
そしたら……清水祐美子の家族が、平成12年8月に**“親戚を訪ねて長野に行っていた”**って記録があった」
「え? 山本あずさも?」
「……そう。彼女も、“父方の親戚と旅行に行った”って、同じ月に同じ長野方面に。
でもね、それぞれの記録では**“個別に移動している”ことになってて、同行の形跡がない**の」
「それなのに、あの写真には――2人並んで上田城」
美波が、思わず声を潜める。
「やっぱり、“偶然を装った必然”ってやつじゃない? 誰かが意図して2人を会わせた」
「そこよね……」
美也子は、ポケットからスマホを取り出し、画面を遥子に見せた。
「安藤さんが探してくれた、第三中の当時の生徒指導記録の断片。
ここにね、“特別進学補習班”っていう非公式の指導グループが存在してたっていう証言があるの」
「特別進学……?」
「当時、学年を跨いで上位成績の生徒を密かに集めてたらしいの。
でも、それに関わった生徒が、次々と心を病んでやめていった。
明文化された記録はない。けど、清水祐美子も、山本あずさも……その“補習班”に入っていた可能性が高い」
遥子が、固く息を呑んだ。
「……そんなの、私、全然知らなかった……」
「当時、その存在自体を“知っていること”が、いじめの原因にもなってた可能性がある。
だから2人とも、口を閉ざしていたのかも」
居酒屋の喧噪のなかで、3人のテーブルだけが、まるで時間の止まったような空気に包まれていた。
「……真相は、まだ見えない。でも、何かが故意に伏せられていたことだけは、確か」
美也子の言葉に、美波と遥子がうなずいた。
ビールの泡が、音もなくグラスの縁に消えていった。
「……全ては闇の中だし、あまり先入観を持たない方がいいですよね。
安藤さんも言ってたじゃない」
美波が、ふと口を挟んだ。
トマトスライスを箸でつまみながらの何気ない言葉だったが、その響きは重かった。
「……そうね。確かにそうね」
美也子が頷くと、望月遥子がにっこりと笑い、手にしたビールジョッキを掲げて見せた。
「なら、乾杯ね!」
「「乾杯!」」
カチン、と軽くグラスが鳴った。
それを合図に、わずかに張っていた空気が和らぎ、3人の間に笑い声が戻っていく。
居酒屋の喧噪に混じって、ビールの泡が小さく弾ける音。
グラスの水滴を指でなぞりながら、美波が最近の職場の愚痴をこぼし、遥子が添乗員ならではの“珍客ネタ”で笑わせる。
久々に訪れた、心からの“楽しい時間”。
だが――その穏やかな時間のなかにも、
美也子の心の奥底では、ひとつの映像が繰り返し去来していた。
あの写真――
山本あずさと清水祐美子が、上田城の石垣の前で並んで笑う姿。
心から楽しそうに、まるで小さな冒険の始まりに浮き立つような、そんな笑顔だった。
けれど、今やそれは**“死者の笑顔”**に他ならなかった。
そして――
ただ一つ、ハッキリしているのは。
あの写真が撮られた数日後から、
あずさと祐美子は、学校内で一切、目を合わせることすらなくなった。
まるで、赤の他人のように。
あの夏、上田で2人の間に何があったのか。
それを知ってしまえば、もう元の自分には戻れない気がして、美也子は胸の奥に小さなざわめきを感じていた。
笑い声の中、グラスを口元に運ぶ自分の手が、わずかに震えていることに気づかぬふりをしながら――。
**
その日、朝から強い雨が都内全域を濡らしていた。
窓の外には、灰色の空と斜めに降る雨脚。
ビルの外壁を叩く音が、いつもより早く目を覚まさせていた。
テレビの画面では、アナウンサーの声が緊張気味に響いていた。
「先週フィリピン沖で発生した熱帯低気圧が勢力を保ったまま、
本日未明、三浦半島に上陸しました。現在、関東南部を中心に強い風と雨が続いています」
画面の中では、水色のレインコートに身を包んだリポーターが、強風にあおられながら三崎口駅前からの中継を続けていた。
「風速は15メートルを超えていて……足元もかなり……っ」
その声をBGMのように聞き流しながら、園部美也子は、リビングの窓際でトーストの端をちぎりつつ、静かに考えを巡らせていた。
山本あずさ。
清水祐美子。
2人の少女のあいだに、かつて確かに存在した親密な空気。
写真に映る無邪気な笑顔。
そしてそのわずか数日後に始まった、徹底的な“無関係”という演技。
「……何があったのかしら」
美也子は、そう呟きながら目を細める。
あの年頃の少女たちの心に、急激な変化をもたらす出来事。
ただの喧嘩やすれ違いでは、あの硬い沈黙は生まれない。
――何かを見たのか。
それとも、何かを聞いたのか。
しかも、それは――
“余程のこと”だったに違いない。
サク、とかすかに響くトーストの音。
コーヒーカップから立ちのぼる湯気は、雨の湿気に溶けていった。
ふと、美也子は顔を上げ、窓の向こうに視線を投げた。
「……課長なら、どう推理するのかしら」
頭に思い浮かんだのは、今はニューヨーク出張中の元上司、神谷諒一の顔だった。
冷静で、執念深くて、でもどこか抜けているようでいて……
“肝心な時には、必ず本質を見抜く人”だった。
美也子は、思わずひとり笑った。
「……“まずは現場を歩け”って言われそうね」
その言葉に背を押されるように、美也子の中に、ひとつの考えが浮かんだ。
あの日、あの場所で、2人の少女は何を見たのか――
自分の足で、確かめに行く必要がある。
嵐の一日が始まろうとしていた。
けれど、美也子の中には、すでに新しい一歩が芽生えつつあった。
**
「しかし、不思議よね……」
蒲田の料理屋『ヤオカン』。
古い商店街の一角にある、木製の引き戸と白暖簾が目印の店。
夕暮れ時、カウンター席の端で、山中美波がポツリとつぶやいた。
予約の名を告げて、先に着いていた園部美也子が顔を上げる。
「いきなり、なに?」
「店名のことじゃないわよ」
「そっちか。てっきり“ヤオカン”の由来かと思った。**“八百屋のオカン”で“ヤオカン”**って、メニューに堂々と書いてあるし」
そう言って笑いながら、メニューを開いた美也子に、美波が声を潜めて言った。
「一昨日のニュースで、また子どもの自殺があったでしょ。茨城だったわよね?」
「……うん。確か、中学二年生の男子生徒。
遺書はなくて、でも家族が“いじめを疑ってる”って会見した」
「そうそう。でもさ、**学校側は“いじめの存在を最後まで認めなかった”**って」
美波が、手元の湯呑みに目を落とす。
「やっぱり、学校って“いじめ”を表に出したがらないんだと思う。
認めたら最後、自分たちの責任になるし、保護者からも叩かれるから。
……だから、どうしても“なかったこと”にしたがるのよ」
美也子も、しばらく黙ってから小さく頷いた。
「確かにね。責任問題、報道対応、内部処分……全部が動き出すから。
下手に認めるより、曖昧にした方が組織としては“守れる”って考える人もいる。
……でも――」
そこで、ふと何かに気づいたように、顔を上げた。
「……そうか」
美波も、その表情に気づいて、すぐに鋭い視線を返した。
「気づいた?」
「清水祐美子のときは、“いじめの存在は確認できなかった”って報道だった。
それどころか、“明るく交友関係も良好だった”って、まるで自殺の動機が見えないように語られてた」
「でも、山本あずさの時は、“いじめがあった”って、学校も市教委も、珍しく“はっきり認めてた”のよ。
加害者生徒の実名までは出てないけど、責任は認める方向で、割と積極的に対応してた」
「……普通、逆じゃない?
なぜ学校側も教育委員会も“いじめを明言した”のか。
しかも、後の祐美子との関係が伏せられていたのに」
「誰かが、“山本あずさの死を”いじめによるものだと“強調する必要があった”のかもしれない」
ふたりの言葉が重なり、ピタリと止まった。
その瞬間、ヤオカンの厨房から、出汁を沸かす香りがふわりと漂った。
けれど、ふたりはもう、その香りにも気づかぬほど集中していた。
「……意図的に、“いじめ”の線で処理させた誰かがいる。
祐美子の死の背景を隠すために、あずさの死を“完結させる”必要があった」
「だったら、手がかりはそこにある――あえて“あずさ”の死を語った者たちの中に」
ふたりは、静かに顔を見合わせた。
何かが見えかけている。
絡まりきった糸の中に、一本だけ、確かに光る線が――。
ヤオカンの料理は、“八百屋のオカン”を名乗るだけに、季節の野菜をふんだんに使ったものばかりだった。
秋の気配が深まり始めた夜。
カウンター越しに女将さんが、にこやかに小皿を次々と並べていく。
「はい、お待ちどうさま。秋茄子の煮浸しに、きゅうりとトマトの塩麹和え、それから南瓜の白和えね」
テーブルには、色とりどりの秋野菜の小皿料理が所狭しと並んだ。
それぞれの皿には、余計な飾り気はないものの、切り口や盛り付けに確かな丁寧さが宿っている。
「この茄子の料理、薄味だけど……」
美波が箸を止めて目を見開く。
「昆布の出汁が効いてて、めちゃくちゃ美味しいんだけど……!」
「ほんとだ。とろとろなのに、煮崩れしてない。
……あ、この皮、飾り包丁が入ってるのか。口当たりがすごく柔らかい」
美也子も、驚いたように頷いた。
「こっちの、きゅうりとトマトのやつも美味しいよ。
和えてある白いの……これ、チーズよね?」
「うん、たぶんモッツァレラ。野菜の甘さと塩麹のまろやかさで、全体にすごく上品にまとまってる。
……組み合わせは普通なのに、味はちゃんと**“プロの仕事”**って感じ」
ふたりは、思わず顔を見合わせて小さく笑った。
「こういう店、いいわね。変に気取ってなくて、でもちゃんと美味しくて」
「うん……こういうのが沁みる年になったんだよ、私たちも」
話しているうちに、緊張していた肩の力が少しずつ抜けていく。
話の核心にはまだ届いていない。
だけど、だからこそ――まずはちゃんと食べること、ちゃんと息をすること。
ふたりは、そんな気持ちで、目の前の料理を楽しもうとしていた。
店内には、近くの席から上がる笑い声と、味噌焼きの香ばしい香り。
蒲田の夜は、雨に濡れながらも、しっとりと深まっていた。
**
その晩――。
園部美也子は、枕元で震えるスマートフォンの鈍い振動音に、薄く目を開けた。
暗闇の中、画面に浮かぶ発信者の名は、望月遥子。
眠気をこすりながら、スライド式の着信ボタンを押す。
「……はい、もしもし……」
「園部さん……夜分ごめんなさいね」
電話の向こう、遥子の声はどこか迷いを含んでいた。けれど、その芯には微かな焦燥の色があった。
「少し……思い出したというか……
いや、“気になって仕方ない”っていう方が正しいかも」
「どんなことでも、思い出したことがあるなら、話して」
美也子がそう答えると、数秒の沈黙ののち、遥子は低く、絞り出すように語りはじめた。
「あずさが亡くなる、ほんの数日前のことだったと思うんだけど……
あの子、ある朝、真っ青な顔をして、怯えてたの。
……言葉にならないくらい、震えてた」
「怯えてた……?」
「うん。でも、そのあと何も言わなかったし、あずさも普段通りに振る舞ってて。
だから……私、その記憶をずっと忘れてたの。
いや、忘れてたっていうよりも――
“思い出さないようにしてた”んだと思う」
遥子の声が震えた。
「今になって、やっとわかるの。
あの子、きっと“何かを見た”。しかも、上田で。
それも……余程のことを」
「……」
「こんな夜にごめんなさい。でも……
居ても立ってもいられなくなって」
そこで、遥子の声がふっと小さくなり、電話が切れた。
ブツッという電子音だけが、暗い部屋に残る。
美也子は、受話器を下ろしたまま、数秒間そのまま動かなかった。
“怯えていた”――“真っ青な顔”――“震えるようにしていた”
電話の向こうから伝わってきた遥子の記憶の断片が、ゆっくりと脳裏で再構成されていく。
上田。
長野県。
あの日、あの場所で、あずさは――何を、見たのか。
美也子は、そっと目を閉じた。
瞼の裏には、石垣の前で笑っていた少女の写真が浮かんでいた。
だがその笑顔の奥に、何かがじわりと滲み出すような感覚があった。
その“何か”の正体が、今まさに、指先に届きそうな場所まで来ている――。
そう確信しながらも、美也子は、まだその答えをつかみきれずにいた。
やがて、外の雨が一段と激しさを増した。
夜は、まだ深いままだった。
悠華会館。
再びその名の建物を目の前にしたとき、園部美也子は、
あの日、タラバガニ食べ放題の湯気のなかで交わされた、たわいのない会話が、
まさかこうして再訪の理由に変わるとは思ってもみなかった。
館の白いタイル外壁は、相変わらず無機質で、どこか年月を経たような褪せた印象を与えていた。
雨こそ降っていなかったが、空には厚い雲が垂れ込め、山間の空気はひんやりとしている。
「本当にここだったのね……」
そう呟いたのは山中美波。
彼女が持っていた、ある噂話が、今回の再訪のきっかけとなったのだった。
「成績中位の生徒だけを集めた“夏季合宿”が、数年間だけ“悠華会館”で行われてたって話……
最初は信じられなかったんだけど、知り合い経由で所沢三中出身の人から、ぽろっと聞いたのよ。
“そういう妙な行事があった気がする”って」
「“成績上位”じゃなくて、“中位”?」
望月遥子が眉をひそめた。
「ええ。成績に関して“目立ちすぎず、落ちこぼれでもない”層。
妙に選抜基準が曖昧で、通知も非公式で、保護者にも詳しい説明はなかったらしいの」
「つまり……“選ばれたこと”すら、隠されてたってことね」
美也子が静かに言った。
「しかも、生徒や親には、“口外しないように”って、箝口令まで敷かれていたっていうの。
いま思えば、どう考えても普通じゃないでしょ?」
「……じゃあ、あの写真の“上田城”は――この悠華会館の“合宿のついで”に行った可能性がある?」
「そう」
美波は頷いた。
「山本あずさと清水祐美子、ふたりが一緒に映っていた理由。
同じタイミングで、ここに“集められていた”とすれば、辻褄が合うのよ」
遥子が、館の建物をじっと見上げる。
「でも……なぜ“中位層”なの?
進学指導でも、補習でもなく、“曖昧な目的”の合宿をわざわざ遠方で?」
「しかも、あずさも祐美子も、“合宿に行った”なんて、誰にも話してなかった」
美也子は唇を噛んだ。
「あの写真は残っていたのに、記憶の中ではその旅が“存在していなかった”ようにされていた。
それ自体が、もう“何かを隠している”証拠よね」
悠華会館の入り口は静かに閉じられ、貼り紙には「貸切予約受付中」の札がかかっていた。
それでも3人は、一歩ずつ確信に近づいていた。
何が行われていたのか。
なぜ誰も語らなかったのか。
そして――
あの“夏”に、2人の少女は、ここで何を見てしまったのか。
静かな午後の空気の中で、館の壁に染みついた時間が、今にも囁きだしそうな気配を帯びていた。
**
館の裏手にある勝手口をノックすると、数分後、ドアが静かに開いた。
待ち受けていたのは、腰の曲がった小柄な老人だった。
「よう来てくれたのぉ……」
高畑政之。
悠華会館の管理人を務めてきた人物で、現在は隠居同然の身ながら、今でも鍵の管理や予約帳の見回りなどを任されているという。
この訪問は、望月遥子が事前に電話を入れたことで実現したものだった。
その際、「あの合宿のことなら、よう覚えとるよ」と、穏やかに応じてくれたそうだ。
会館の一角にある昔ながらの応接室に通されると、淹れたてのほうじ茶と、手作りの漬物が出された。
老人は、湯呑に口をつけてから、静かに語り出した。
「あの合宿、確か……4回か、5回はやったと思うんじゃが」
目を細めながら、記憶を辿るように言葉を選んでいく。
「所沢の中学校……三中って名前じゃったかのう。
毎年、夏休みの中頃に、10人くらいの生徒と3〜4人の先生が来てのう。
制服も持たずに、私服で。名札もなかった」
「名簿とか、宿泊記録は……」
美也子が尋ねると、高畑は首を横に振った。
「残っとらん。先生たちが、“正式な記録は要らん”って言うてな。
現金でぽんと支払うだけ。親の名前も、緊急連絡先も無しじゃ」
「……まるで、隠したがってるみたいですね」
美波が呟いた。
「そうじゃのう。わしも、妙だとは思った。
でも……一番よう覚えとるのは、先生たちがよう口にしてた言葉じゃ」
高畑の声が、わずかに低くなった。
「“いいか、あいつらに勝て!”
“あいつらを、1点でも上回れ!”――
そんな檄を、夜の講義の前とか、朝の体操ん時とかに、よぅ飛ばしとった」
「……“あいつら”?」
「誰のことかは言わんかった。
でも、生徒たちも……なんちゅうか、緊張しとるというか、
時折、みんなで顔を見合わせるようにしとってな。
話す言葉も決まったように短くて、“作られたグループ”という感じだった」
そして、しばしの沈黙ののち――
「最後の年に、事件は起こった」
高畑の声は、急に重みを増した。
「5日間の予定で始まった合宿の、2日目の午後じゃったか。
午後の“授業”が始まってすぐ……いきなりガラの悪い連中が、数人で押しかけてきたんじゃ」
「……!?」
「見たところ、地元のもんじゃない。明らかに“ヤクザ崩れ”のような風体じゃった。
奴らは手に、ツルハシ、ハンマー、バールなんかを持っとってな――
机、窓、ドア、壁……果ては厨房から取り出した食器棚まで、めちゃくちゃに壊していった」
「警察には……?」
「呼んだが、来た時にはもう全員いなかった。
先生たちも、“相手にするな”“関わるな”って口を閉ざしてのう。
なぜか、それ以降の合宿は一切取りやめになった」
「……それで、“ツアーバス向けのホール”に?」
遥子が言うと、高畑はゆっくりと頷いた。
「うむ。わしも、それ以上関わりたくなかった。
会館の修繕費も、なぜか匿名で払われてな……
全部、闇の中じゃ。
わしがあのとき目にしたものの意味も……、よう分からんかった。」
老人は、また湯呑に手を伸ばし、黙った。
窓の外には、風が木々を揺らし、古い建物の板壁がきしむ音がかすかに聞こえていた。
3人は、言葉を失ったまま、互いの顔を見合わせた。
「“あいつらに勝て”……?」
「“中位層の選抜”……?」
「“壊された教室”……?」
断片が、徐々に繋がりはじめていた。
だがその先に待っているのは、
**誰かが必死に覆い隠した“もうひとつの現実”**だった。
“あいつら”――
「あいつらって言うのは、誰のことなんでしょうね……」
夕暮れの中央自動車道。
談合坂を過ぎたあたり、オレンジ色の空がフロントガラス越しにゆっくりと傾いていく。
車内には、小さなエンジン音と、ラジオから流れる柔らかなジャズ。
運転席でハンドルを握る園部美也子が、独り言のように、ふと呟いた。
「ライバル校の生徒……?」
隣の助手席にいた山中美波が応じる。
「それとも――三中の、上位陣?」
「……」
美也子は、視線を前に向けたまま、しばし黙っていた。
だが次の瞬間、言葉が自然にこぼれた。
「そう、そうなのよ。
“あいつら”ってのは、きっと三中の上位層のこと」
「……つまり、内部の、成績上位の“エリート組”に勝てってこと?」
「そう。あずさたち“中位層”は――あえて選抜された“第二ライン”だったんじゃないかしら」
「……まさか」
「いいえ、あり得る。
あの合宿は、勝たせるための“訓練”だったのよ。
それも、内にある“もうひとつのヒエラルキー”に挑ませるための」
美波が息を呑んだ。
「でも、それって……。“子どもたち同士を競わせる構図”を、学校ぐるみで作ってたってことになる」
「ええ。そして、もしかしたらその構図に……生徒自身が、飲み込まれていったのかもしれない」
夕陽が、車内のダッシュボードを赤く染めていた。
静かで、美しい時間。
だが、美也子の胸の奥には、ひとつの像がぼんやりと浮かび上がっていた。
あずさと祐美子――
彼女たちは、ただ競わされたわけじゃない。
なにかを見てしまった。なにか、見てはいけないものを。
**
「……遥子さんも言ってた。
あずさが、死ぬ数日前に、真っ青な顔で震えていたって。
“勝ち負け”を超えた、もっと深い恐怖が、あの子を飲み込んでいたはずよ」
美波は、静かに頷いた。
「なら、やっぱりもう一度、あの“合宿の内部”を洗い直す必要があるわね」
「ええ。教師。保護者。参加した他の生徒。
そして――“勝てと言った者”は誰なのか」
レンタカーは、ゆるやかな下り坂を滑るように走っていた。
夜が、すぐそこまで迫っていた。
けれど、ふたりの胸の内には、
ようやく真実に近づき始めた手応えが、確かに灯り始めていた。
**
「この土日、全国で水の事故が多発しております。
特に小さなお子さまのいらっしゃるご家庭では、目を離さぬよう、くれぐれもご注意ください――」
朝の情報番組。
画面には、波打ち際で浮き輪を持つ親子の映像とともに、青地に白抜きの注意テロップ。
コメンテーターの声が、どこか上滑りするように響いていた。
8月最後の週末が終わった月曜日の朝。
園部美也子は、警視庁湾岸署での土日連勤を終えたばかりで、
ソファに倒れこむように座ったまま、ぼんやりとテレビ画面を眺めていた。
疲労感と、頭の奥でくすぶるような焦燥。
どこかが引っかかっている。
何か――まだ足りていない。見落としている何かがある。
清水祐美子の死。
山本あずさの死。
2人の合宿参加、写真、沈黙。
だが、それらすべての周囲を囲む最後のピースが、どうしても浮かび上がってこなかった。
「……やはり、当時の担任に話を聞くのは必須かな」
声に出すと、ほんの少しだけ思考が整理された気がした。
そして、その時ふと頭に浮かんだのが――
赤澤瑞樹
清水祐美子が通っていたクラスの、事件当時の担任。
事件発生の翌年、所沢三中にALT(外国語指導助手)として勤務していたニュージーランド人と結婚し、国外へ移住した人物だった。
当時、何を見て、何を語らずにいたのか。
その彼女が――
「来週、一時帰国するらしいよ」
そう伝えてきたのは、数日前の望月遥子だった。
ニュージーランド滞在中も、かつての教え子たちと細々と連絡を取り続けていたという彼女から、遥子宛に一本の連絡が入ったのだ。
「今度、日本に少し帰るの。8月の終わりから10日くらい。
できれば誰かに……昔のこと、ちゃんと話しておきたくて」
そのメッセージに、美也子は言い知れぬ緊張を覚えた。
ようやく、“内側”の証言者が口を開くときが来たのかもしれない。
ふと窓の外を見れば、空はどこか秋の気配を帯びていた。
8月が終わる――
そして、あの夏の真実が、ようやく語られようとしていた。
**
蒲田駅東口から歩いて5分。
路地裏の小さなビルの2階、赤い暖簾のかかる料理屋――ヤオカン。
八百屋を前身とするこの店は、季節の野菜を中心にした滋味あふれる料理で、近頃3人のお気に入りの場所になっていた。
その日の夜。
園部美也子、山中美波の2人は、店の奥にある掘りごたつ席に腰を落ち着けていた。
間もなくして、京急蒲田駅から望月遥子に付き添われて赤澤瑞樹が到着した。
柔らかなグレーのカーディガンを羽織り、明るいベージュのトートバッグを抱えた赤澤は、ややふっくらとした体型と、おっとりとした笑みが印象的な女性だった。
「遅くなって、ごめんなさいね。飛行機、思ったより時間かかっちゃって」
そう言って恐縮した様子で腰を下ろす赤澤に、遥子が微笑んで言った。
「赤澤先生は、私の直接の担任じゃなかったけど、英語の先生としてお世話になったんです。
英語クラブの顧問もしていただいて……あの頃、本当に楽しかったなあ」
「ふふ、遥子ちゃん、当時から元気だったわね。英語の発音だけ、やけにネイティブだった記憶があるわ」
そんなやりとりに、場の空気が一瞬和む。
その流れで遥子が料理メニューを手にしながら言った。
「このお店、つい最近開拓したんですけど、季節のお野菜の使い方が絶妙で。
3人して、すっかりファンなんですよ」
「へえ……なんだか、懐かしい感じの店ね。落ち着くわ」
やわらかく頷いた赤澤に、遥子が本題へと丁寧に繋いだ。
「こちらが、園部美也子さん。
そして、こちらが、山中美波さん。
お二人とも、警察の方なんです」
赤澤が一瞬だけ表情を硬くするのが、分かった。
「ひょんなことで知り合ったんですけど……あずさや祐美子さんのこと、真剣に聞いてくれて。
それで、先生が帰国されるって聞いて、お話伺えたらと思って」
数秒の沈黙。
赤澤瑞樹は、3人の顔をゆっくりと見渡し、そして小さく、呼吸を整えるように話し始めた。
「……実はね、あなたたち3人が、あの“事件”を調べてるって、耳にしてたの。
悠華会館まで足を運んだって聞いて、正直、驚いたのよ。
――そこまで調べてるなら、もう、知ってることの全てを聞いてもらおうって思ったの」
視線を伏せる赤澤の手が、テーブルの下でわずかに震えていた。
「私ね、あの時、本当に怖くて……。
何が、ってはっきり説明できない。
でも、空気が異常だったの。あの“事件”の前後から、学校全体が何かに蓋をしてる感じで……」
「……それで、ニュージーランドに?」
美也子が小さく訊ねると、赤澤は苦笑いのような顔で頷いた。
「ええ。たまたま、同僚だったALTのジョンソンにプロポーズされて。
あのときは、もう……この国から逃げたかった。
何も言わずに、何も知らなかったふりをして、全部を置いて……」
言葉を切り、赤澤はそっと目を伏せた。
重く沈黙が落ちる中、運ばれてきた秋茄子の揚げ浸しが、湯気を立てていた。
その香りの中で、3人は同時に感じていた。
この夜――
ついに、口を閉ざされていた“中の人間”が、語り始める。
あの夏、学校で何があったのか。
そして、あずさと祐美子に何が見えていたのか――。
全てが、少しずつ、形を持ち始めていた。
**
ヤオカンの一角。
熱々の秋野菜の小鍋がぐつぐつと音を立てる中、
卓上の空気は、少しずつ緊迫感を帯びていた。
赤澤瑞樹は、箸に手を伸ばすでもなく、
コースターの端を指でなぞりながら、低く語り出した。
「あの頃の学校を取り巻いていた雰囲気は、今考えても――異常だったの」
誰も言葉を挟まない。
「少子化が進んで、“大学全入時代”が本当に来てしまったでしょう?
希望さえすれば、どこかの大学には誰でも入れる……
でもそれが、“成績トップ層”と“それ以外”という新しい格差を作ったのよ」
「つまり、成績中位層をどうにか“トップ層”に引き上げることで、
“学校全体の進学実績”を底上げしたかった――そういう狙いがあった?」
と、美也子が確認すると、赤澤は静かに頷いた。
「そう。
でも、実際には、“中位”と“下位”の差って曖昧で、
誰を合宿に参加させるか、その線引きが難しかったの。
ほんの数点の違いで、進学の道が開けるかどうかが決まるから」
「選ばれた子たちは、“名門校進学”というアメを与えられ、
選ばれなかった子たちには――箝口令、ですね?」
と、山中美波。
「うん……。
でも……漏れたの」
赤澤は、深くため息をついた。
「一部の生徒が、口を滑らせたのよ。
“すごい場所に泊まった”とか、“将来の進学の話があった”とか。
その内容を、“とあるブログ”に書き込んだ」
一瞬の静寂。
「そのブログの持ち主が、“あずさ”だった――」
と、美也子がゆっくりと繋げた。
「……そう」
赤澤は、伏し目がちに、言葉を吐いた。
「あずさは、自分が選ばれたことを“誇らしく思っていた”の。
たぶん、自分なりに、その体験を誰かと共有したかっただけだったのよ。
でも、学校側はそれを“裏切り”と見なしたの」
「それで、あずさに圧力が?」
「直接的な“処分”はなかった。
でも、彼女の周囲の空気がガラッと変わったのは確かだったわ。
同じ合宿に参加していた子の何人かが、あからさまにあずさを避け始めて。
“裏切り者”という空気が、彼女を取り囲み始めた……」
「じゃあ、清水祐美子は?
彼女も合宿にいた。
あずさの投稿に対して、どういう態度をとっていたんですか?」
と美波が食い込む。
赤澤は、しばし考えてから、静かに言った。
「……あの子は、あずさに何か言われたの。合宿の最中に。
それから様子がおかしくなって……口数が減って。
でも、絶対に“あずさの名前”は出さなかった」
「2人は、“仲が良くなかった”という話だったんですが」
「学校内ではね。
でも――上田城で撮った、2人の写真があるんでしょう?
あれは……たしか、合宿の自由時間に撮ったものじゃないかしら」
「ということは、あの一枚の写真が――
“2人の関係が、なぜ崩れたか”の手がかりになる?」
赤澤は、唇を噛みしめながら、小さく頷いた。
「私ね……
祐美子の方が、なにか“知ってしまった”んだと思うの。
合宿の最中か、直後に――
そして、それを“誰にも言えなかった”」
「言えなかった?」
「うん……。
“言ったら、自分もあずさみたいになる”って、
そんな表情だった。」
その瞬間、
――何かを見た。何かを知った。
そして、それは“沈黙”という形でしか処理できないほどのことだった。
ヤオカンの静かな一角で、
4人の女性たちの思考が、静かにひとつの輪郭に近づいていた。
“選ばれた者たち”だけの合宿。
その中で何かが起きた――
誰かが何かを仕組み、
誰かが何かを封じ込めようとした。
そして今、
それが“破られる”時が、近づいている。
**
「そういえば……」
園部美也子が、グラスの氷をかすかに揺らしながら、思い出したように口を開いた。
「合宿の最中に、ガラの悪い連中が押しかけて来て、悠華会館をメチャクチャにしていったって話がありましたよね?」
赤澤瑞樹の顔が一瞬、固まる。
「私たちも上田に行って、“悠華会館”の管理人さんに話を聞きました。
あのとき、机や窓、壁……あちこち壊されて、大騒ぎだったって」
赤澤は、手元の湯呑みを見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「……そう。あれは、私にとっても忘れられない夜よ」
「学校では、選ばれなかった生徒の保護者が“腹いせ”にやらせたって噂になっていたって聞きました。
先生方の中でも、そういう話になってたんですか?」
と、美波が続けると、
赤澤は小さく、しかし確かに頷いた。
「そういう“筋書き”だった。
誰も確かな証拠なんて持っていなかったのに、いつの間にか“あれは外部の嫌がらせだ”って話にまとめられて……
“中の誰かが問題を起こした”って方向へは、絶対に行かせなかった」
「じゃあ、あれは、“なかったこと”にされたんですね」
と、美也子が静かに問いかけた。
赤澤瑞樹は、目を閉じるようにして――無言で頷いた。
「悠華会館の修理費も、当時の理事長が“個人で”支払ったって……。
そこまでして、学校としては“表沙汰”にしたくなかった……」
「その“異常なまでの抑圧”が、祐美子とあずさに何を見せたのか。
私たちはそこまでたどり着かないといけないのかもしれないですね」
望月遥子が、珍しく真剣な口調で呟いた。
「私、あの合宿が終わったあと、何かを“知った”生徒が、
誰にも言えずに潰れていったんだと思ってるの」
赤澤の声は、かすれていた。
「“優秀な子”を守るために、“語ってはいけないもの”を作り出した。
あの合宿は、“未来のため”って建前の裏で、
“見せてはいけない裏側”を生徒にまで共有させてしまったのよ」
テーブルの上の秋野菜の炊き合わせが、いつの間にか冷めていた。
4人の間に、沈黙が流れる。
外の雑踏に紛れて、遠くで電車の発車ベルが鳴った。
だが、ここに集った者たちの胸の中では、あの日の異音――
壊された会館、沈黙する教師、震える生徒たちの記憶が、静かに息を吹き返していた。
**
赤澤瑞樹は、ふとグラスの水に視線を落とし、静かに言葉を継いだ。
「私も……その先の話は、分からない。
後は推測でしか言えないの」
ヤオカンの照明が、テーブルの端に映る湯呑みの影を長く伸ばしていた。
「でもね、遥子ちゃんが言った……
“学校側は、最終的に上位陣の生徒を守る道を選んだ。
それ以外の生徒は、切り捨てられた”って」
彼女はそこで、ふと言葉を切った。
そして――
「その意見には、私もあまり異論がない。
むしろ……そういう印象しか、残っていないのよ」
その声は震えていないのに、どこか懺悔のようだった。
「あずささんにも、祐美子さんにも……
申し訳ないって気持ちは、ずっと頭の隅から離れたことがないの」
視線は下を向いたまま。
「ニュージーランドに逃げたって、
生活の中に“海”があったって、
毎朝キウイの木を見たって……
忘れる日は、一度もなかったの」
しん、と静まる。
目の前の料理は冷め、湯気を失っていたが、
テーブルを囲む4人の内面は、今まさに熱を孕んでいた。
「逃げても逃げても、逃げきれなかった――
きっと、そういうものなのよね。
“何もできなかった大人”っていうのは」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
望月遥子が、グラスの水を口に含んだ。
山中美波が、小さく、でも確かに頷いた。
園部美也子は、赤澤の言葉の余韻を噛みしめるように、
口元にだけわずかに笑みを浮かべて言った。
「……だからこそ、今、私たちが立っているんですね。
この先のことは、もう“推測”じゃ終わらせない」
誰も拍手もしなければ、賛辞もなかった。
ただそこには、深い肯定と、共有された痛みと、決意の予兆があった。
**
帰り際、ヤオカンの暖簾をくぐろうとしたときだった。
「――あ、そういえば」
赤澤瑞樹がふと足を止めて、3人の方へと振り返った。
「さっき言いそびれちゃったんだけど……数日前、電話があったの。
花房先生から」
「花房先生……?」
望月遥子が思わず反応する。
「あのときの学年主任よ。
社会科の担当で、ずっと三中にいて、当時もう50代の後半だったから……
今もご存命だとしたら、もう80近いはずだけど」
赤澤は、どこか複雑な表情で言葉を続けた。
「電話でこう言ってたの。
“君が日本に帰るって話、昔の教え子が知らせてくれた”って。
あの人、昔からどこで何を聞きつけてくるのか分からないところがあってね……」
山中美波が小声で漏らす。
「ちょっとコワいタイプの先生だったんですか?」
「ううん、コワいというより……何を考えてるか分からない人。
あまり笑うこともなかったし、
どこか“生徒を見ているようで、見ていない”ような、
でも全部お見通しみたいな目をしていた」
赤澤は、記憶の糸を引くように言った。
「正直、私は……あの人、ちょっと苦手だったのよ」
「その花房って人、電話では何か言ってましたか?」
園部美也子が訊く。
「“お前もまた、戻ってきたんだな”って。
……意味がよくわからなかったの。
でも、妙に引っかかった」
そう言って赤澤は小さく笑った。
「あの人がまだ“見ている”としたら、
私たちが知りたがってること、知ってるのかもしれないわね」
その言葉に、3人は自然と顔を見合わせた。
上田、
悠華会館、
合宿、
あずさのブログ、
沈黙、
破壊行為――
そして、今、花房という名が、静かに浮かび上がった。
「彼の話を、聞いてみるべきかもしれないわね」
美也子が、誰ともなくそう呟いた。
花房隆一(76)――元所沢第三中学校・2年学年主任
現在は、川崎市宮前区のアパートに一人で暮らしていることが、照会を通じてすぐに判明した。
旧同僚で、すでに退職した教員たちの間でも、彼のことは、今も時折話題になるらしく、特に話題に上ったのは――
「花房先生は、かつて教員組合の活動に熱心で、
“学力至上主義”や“順位付け”には強く反対していた」
「上からの“成績強化”方針に一貫して抵抗していた」
「職員会議でも孤立していたけど、“信念を曲げなかった”人だった」
そんな証言が、複数のルートから寄せられた。
「……ということは――」
園部美也子は、LINEの画面を開きながらつぶやいた。
「合宿そのものに反対していた彼が、
あの“妨害事件”に、関与していたと考えても不自然ではない」
翌朝、山中美波がスマートフォンの通知を見て、美也子の書き込みに返信した。
「私はそう感じたわ。
今となっては、確かに証拠を集めるのは難しいけれど……
状況証拠は、花房教諭を“クロ”だと言ってる。
少なくとも、合宿を潰す意思を持っていた。
それも“生徒たち”ではなく、“企画そのもの”に向けた怒りとして」
美也子は、それを読みながら静かに頷いた。
そして、返信を打った。
「あの合宿で、何かが起きた。
それは、生徒の誰かにだけに降りかかったんじゃない。
教師の世界の“正義”と“現実”が、ぶつかったんだと思う。
花房は、きっと自分の正義のために動いた――
でも、その結果が、あずさと祐美子の沈黙を生んだのなら、
私は、やっぱり許せない」
彼女の胸には、あの上田城の写真が焼き付いていた。
2人の少女の、無邪気な笑顔。
その後の“断絶”と“孤立”。
そして、語られなかった何か。
その根に、“正しさ”の名を借りた暴力があったとしたら――
「会いに行こう、花房隆一に」
美也子は声に出して言った。
**
――花房隆一の悔恨
静かな夜だった。
時計の針の音さえも遠ざかって聞こえる。
窓の外には、遠く川崎の町の街灯がぼんやりと霞んでいた。
ベッドの上で、**花房隆一(76)**は静かに目を閉じる。
ナイトテーブルに置いたグラスはすでに空になっていた。
大量の鎮痛剤を飲み込んだあと、グラスに注いだウオッカを一気に飲み干した。
指先は震えていたが、彼はそれを見つめようともしなかった。
「自分のしたことが、すべて間違っていたとは思わない。
でも――“正しい”とも、もう言えない」
若い頃、共産主義に傾倒していた自分を思い出す。
労働者の権利。教育の平等。
「競争は悪だ」「順位は人を殺す」――
そう口にしていたあの頃の自分が、今では誰よりも残酷な“選別”を行う者を憎んでいた。
だが、あの合宿の話が持ち上がったとき。
**“成績中位の生徒を密かに鍛えて、上位層を脅かす”**という企画が教務部から持ち込まれたとき――
私は怒った。
心底、怒り、
恐れ、
そして、
動いた。
「あんなものは“教育”ではない。競争を煽る“養成所”だ。
こんなことがまかり通れば、学校は、子供たちは、壊される」
そう信じた。
そして、ある“手段”を使った。
直接、手を下したわけではない。
だが、あの襲撃を止めることも、否定することもなかった。
それが、結果として。
2人の少女の命を奪う土壌を作った。
他にも、心を折られ、声を失った多くの教え子たちがいた。
今さら、何を言い訳しても始まらない。
私は、正義の名を借りて、“暴力”を正当化した。
私は、“あずさ”を見殺しにした。
あの子が、何を見て、何を聞いて、どんな恐怖を抱えていたのか。
今となっては知る由もない。
だが、彼女の恐怖の根に、私が関わっていたとしたら?
もし、私があの時、あの方法ではなく――違う手段を選んでいたら?
そう思い始めた夜から、
私は、眠れなくなった。
涙は、とっくに枯れ果てた。
自分は、強くなれなかった。
正しさを振りかざしながら、何も守れなかった。
「せめてもの“始末”を、私なりに付けたい」
そう呟きながら、静かに目を閉じる。
やがて、呼吸が浅くなり、
時をかけて、闇が花房隆一を包みこんでいった。
**
園部美也子は、久しぶりに神谷諒一と
お台場に新しく開店したイタリアンレストランで待ち合わせをした。
9月も終盤に差し掛かり、朝晩は肌寒さも感じる季節になった頃、神谷から電話が入った。
美也子の声が聞きたかった。
一週間ほど前に、ニューヨークでの事件調査にひと段落つき、長期の出張からの帰国の目処が立ったと知らせて来た。
神谷諒一は、美也子のまとめた“事件”のあらましに目を通しながら、遠くを見つめるように呟いた。
誰かの正義が、
善意が、
人を追い詰める。
この“事件”には、100%の“悪人”も“犯人役”も最初から用意されてなどいなかった。
強いて言えば、あの時、
国を
社会を
学校を覆っていた“空気”が、幼い命を追い詰めて行った。
美也子も、神谷の意見に同調した。
だからこそ、一度立ち止まって周りを見回すことって重要なんですね。
深い沈黙が2人を包んだ。
そうだな、
美也子、それにしても、キミの口から立ち止まってなんて言葉が聞ける日が来るなんてな。
神谷諒一は、少し笑いながら“公安の猪突猛進娘”も成長したをだな。。。
もー、課長ったら!!!
美也子の顔には久し振りの微笑みがあった。
ーーーーーおわりーーーーー