心腹
残照も消えかけ、夜のとばりが下り始めたころ、公主の城からほど近く、貴族たちの屋敷が立ち並ぶ一帯のなかでもひときわ広大な敷地の門を馬車が走り抜けた。前後左右を騎兵に守られながら、ほどなく主人の富と権力を象徴するかのような豪壮な館を前に停止した。
まず騎兵たちが下馬し、馬車の周囲を取り囲む。彼らが辺りに目を光らせるなか、悠然と降り立ったのは元老の実質の長にして、いまだ国政に厳然たる力を持つと言われるプラキデであった。
「お帰りなさいませ」
数多くの使用人を従え、家令のセバースが出迎える。
「ヴェニスティさまがお待ちでございます」
「うむ」
館に入ろうとして、プラキデはふと背後に目をやった。そこには常に影のように付き従う、彼の護衛隊長であるクイエテが控えていた。暗灰色の髪に、獲物を狙う獣のような同色の鋭い目が印象的な、まだ二十代くらいの若者だが、あのプラキデがそばに置くのだから、剣の腕は確かである。
「クイエテ、そなたは兵舎に戻るがよい」
「は」
頭を下げ、無表情にもっとも短い返事をする。セバースのほうに一瞬ではあるが瞳を向けたのち、部下を連れて足早にその場を去っていった。
一方、プラキデはセバースを従え、別館へと歩を進めていた。本館に比べるとまだ新しく、瀟洒な造りではあるが、その周囲は水堀に囲まれ、外部とのつながりは本館との一本の廊下だけ。見ようによっては、囚人の檻のようでもある。入り口には侍女が控え、セバースをそこで待たせると、プラキデはひとり奥へと進んでいった。
「今、帰ったよ」
「お父さま!」
呼びかけられた少女は、セピア色の瞳を輝かせて父親のもとへ走り寄った。その髪はわずかに渋みのかかった赤色──例えるなら、玄人の淹れた紅茶のような長髪が印象的な美少女である。年齢よりも幼く見える無邪気な愛らしさと、すでに男を惑わすような小悪魔的な匂いを併せ持つこの少女が、プラキデの最愛の娘ヴェニスティだった。
「お帰りが遅いですわ。明日はお母さまのご命日なのに」
「すまなかったね」
拗ねたような態度をとる娘に、父親も穏やかな笑みを返す。クッションを重ねたソファに並んで座り、明日の予定や、他愛無い会話を続けたあと、やがてプラキデはゆっくりと腰を上げた。
「さあ、そろそろ失礼するよ」
「あ、お父さま、あの……」
ヴェニスティが続いて立ち上がり、ためらいがちに声をかけた。
「何かね?」
「今日は……閣下のお召しだったのでしょう?」
「そうだよ」
「それでは、お城で何かありましたの? それとも、これから何か──」
「ヴェニスティ」
娘の問いかけは父親の静かな一声で閉ざされた。表情も声も変わらず穏やかだったが、その目は笑ってはいなかった。
「どうしたんだね。おまえが気に病むようなことは何もない。閣下のいつものわがままだよ」
「ご、ごめんなさい。わたくし、ただ……」
「いやいや、謝ることはない。おまえもラーディガストの貴族の娘だ。国を憂うるのは当然だったね。良い跡継ぎを持って、わたしは幸せだ」
優しく微笑んで、プラキデは娘の額に口づけた。単純な篭絡である。ヴェニスティも心から納得したわけではなかったが、それ以上、何も訊くことはできなかった。
「ヴェニスティ、良い夢を」
「おやすみなさい、お父さま」
プラキデは退室し、セバースとともに別館を離れた。
そして翌朝、故人に対する教礼にのっとり、まず夜明けと同時に館内の礼拝室での祈りが捧げられた。遺された夫や娘、屋敷中の使用人たちが何某かの黒衣や黒章を身に着け、日暮れ時の祈りをもって、追悼の一日を締めたのだった。
しかし、その日の主役のひとりであるヴェニスティにとっては、正直、あまり感慨深いものではなかった。彼女がまだ五歳のときに死別したとはいえ、母の表情がどうしても思い出せないのである。屋敷には肖像画ひとつなく、唯一記憶にあるのは、自分と同じ色の髪を持つ後ろ姿だけだった。父にたまに問いかけても、いつも簡単にはぐらかされてしまい、そのうち、問うこと自体をやめてしまった。また、母の生前からの使用人は家令のセバースだけなのだが、この男、無口というか無愛想というか、木石が服を着ているような人物で、父と同じくらいの歳らしいが、それさえ知らないほど私的に口をきいたことはなかった。
いつもとは少し違うだけの一日が幕を下ろそうとしたとき、屋敷には招いたはずのない客人が訪れていた。
「待たせたね」
夜も更けたころ、プラキデは客間に姿を現した。
「とんでもございません。このような日に、まことに申し訳なく──」
待っていたのは、八人の元老たちである。セバースとクイエテを背後に控えさせ、プラキデが上座に着くのを待ち、その後、誰ともなく口を開いた。
「プラキデさま、一大事でございます」
彼らが得た情報によると、来たる四月の初日、城内で公主と妃の婚約の宴を開くというのである。毎月初日には各地方の長官が「箱」を持って公府に集まり、公主に前月の報告をすることになっているので、それに併せてのことだろう。また、国内のおもだった貴族たちだけでなく、トシュラータにも招待状を発する準備も始まっているという。
もっとも、その程度のこと、プラキデなら彼らより早く知っているだろうとは、このとき誰も考えていなかった。それでいて、この男をもってしても動けなかったのか、いや、この男だからこそあえて動かなかったのか──
「これでは、あの女は事実上、公妃として認められてしまいます!」
ひととおりの事情を話したのち、ひとりが呻くように言った。
みずからがもっとも執着していることに、人はもっとも縛られるものである──ギボールの即位後、カドーシュが宮廷内の守旧派について言ったことがある。世間体にこだわる者は、翻ってそれが最大の弱点になる。どうせ、これまでどおり適当な女性を急ぎ見繕い、ルシィナは愛妾にでも、と説得するつもりだったのだろう──もっとも、ギボールにそんな「器用な真似」ができるはずもないが。だが、それは内密でこそ成立することである。いったん正妃として披露した女性をあらためて日陰に回すことなど、誇り高い公国としてできるはずもなかった。
「あ…あの若造の仕業に違いございません」
プラキデを除くみなが頷く。
「たかが薬師の一族が筆頭書記官とは」
「公主の威を借り、まるで宰相のごとき振る舞い」
「閣下なぞ、あの男がいなければ何もできぬというのに」
館のあるじを放っておいて、しばらく詮無き悪口雑言が続く。が、あるとき、プラキデが静かに口を開いた。
「では、どうするかね?」
途端、沈黙が訪れた。結局、愚痴ばかりで、対処の方法はないのである。しかし、実際にそれは難しい問題であることも確かだった。
もし、カドーシュに何事かあれば、間違いなくギボールは黙っていない。法にすら縛られない公主の権力によって、また、それを制止する者もいないまま、自分たちの首が飛ぶのは明らかだった。他人の血が流れるのは構わなくても、みずからが傷つくのは嫌なのだ。さらに言えば、下手をすれば公主よりも目の敵にしているその人物こそ、いったん頭に血が上ると暴走しかねない主君を制御できる唯一の存在でもあった。
そういう「諸刃の剣」を取り込もうと考えなかったわけではない。だが、すべては徒労に終わるばかりか、逆にそれを弱みとして握られる始末だった。
「禍根は断つべきです」
突然、若い男の声が響いた。客人たちが目を向けた先には、クイエテが直立不動で立っている。
「そなたは……」
「クイエテと申します。お見知りおきを」
「青二才が口を挟むことではない」
「障害は排除する。それだけのことでございます。そして、それこそが皆々様の──」
「クイエテ」
静かに声を発したのはセバースであった。
「下がるがよい」
「しかし──」
クイエテは家令ではなく主人のほうを見たが、プラキデは変わらず前を向いたまま、一瞥すら与えることはなかった。セバースの感情のない、ある意味、もっとも冷たい視線を浴び、クイエテにとってやりきれない沈黙が流れるなか、ややあって頭を下げると、無言のまま部屋を出ていった。
「すまないね。まだ若いゆえか、勇み足の気があるようだ」
「と、とんでもございません」
「プラキデさまは良い従者をお持ちでございます」
形だけの詫びと心のない返しを交わしたとき、室内に時計の音が響いた。プラキデがふっと小さく息を吐くと、途端、「客人」たちの顔色が変わった。
「お疲れのところ、長居をしてしまい申し訳ございません」
「では、我々はそろそろ──」
顔を見合わせながら、あたふたと立ち上がる。その様子を見て、プラキデはゆっくりと腰を上げた。
「みなの国を思う気持ちは心強く思う」
そう言うと、客人より先に部屋を出ていった。すると、扉の外ではクイエテがやはり直立不動で待っていた。
「お館さま、先ほどは出過ぎた真似を──」
腰を直角に曲げて頭を下げるクイエテに対し、しかし主人も家令も、やはり一瞥も与えることなく去っていったのだった。
その後、兵舎の自室に戻ったクイエテは上着を脱ぐと、荒々しく石の床に叩きつけた。
「所詮……『犬』か!」
吐き捨てるように唸り、飲みかけの火酒の瓶を手にして口に流し込んだ。焼けるような熱さとやりきれない思いが胸に渦巻く。何の後ろ盾もなく、頼れるものみずからの腕だけ。事実、そうやって生きてきた男にとっては主人に認められることがすべてであり、存在意義でもあった。まして、彼には帰る家もないのだから。
クイエテは両親の顔も、自分の確かな歳さえも知らなかった。
プラキデだけでなく、貴族や大商人には孤児たちを集めて養育している者が少なからず存在した。なかには慈善として行っている例も確かにあった。が、現実にはそうではないことのほうが多かったのだ。閉ざされた世界での教育は主人への絶対服従を意味し、自由な価値観は許されない。子供たちはみずからが「家畜」であるという自覚もないまま、生涯、「飼い主」の命令に従い、そのまま使役されるか、または見知らぬ地にまで売られていった──何の疑問も持たぬままに。
それは王国法──治外法権である公国も遵守すべき法律でも禁止はされていたが、その多くは黙殺されていた。ラーディガストにおいても、かつてそれは変わらなかった。しかし、ギボールが即位し、その後の改革において、あえて見ないふりをされていた社会の片隅に光は当てられた。「売買」はもちろん「養育」も改めて禁止を公布し、目に余る者たちには厳罰をもって対処した。子供たちは公国が運営する施設に移され、人生はみずからが選ぶものだと教えたのである。
ただ、その時点においてクイエテはすでに成人し、自分の意思でプラキデに仕えていたため、その例には該当しなかったのだ。
「あんな奴ら……なんで、このおれが……」
酒で濁った頭に少しでも進歩的な考えが浮かぶはずもなかった。去来するのは恨み言と愚痴だけである。
彼には自負があった。主人を、実際に体を張って護っているのは自分だという自負である。だからこそ、どれほど尽くしても顧みられない焦燥と嫉妬は、他人には計り知れないものがあった。少なくともクイエテの血気はやる瞳には、プラキデの唯一の「腹心」と言われている家令は、ただの腰巾着にしか見えてはいなかった。
さらにもうひとり、セバースよりも赦せないと感じている人間がいた。カドーシュである。それぞれ仕える主人は違えど、かたや、絶対的に信頼され、誰よりも重用され──そしてもうひとつ、彼にはどうしても譲れない想いがあった。
クイエテは顔が熱くなるのを感じ、夜風に当たるために外へ出、ある場所へ向かった。
「クイエテさま!」
クイエテがやや離れた木陰から女主人の住む別館を見上げていると、不意に呼びかける声が夜の闇に響いた。そのほうに顔を向けると、駆け寄ってくる黒髪の女性の姿が目に入った。
「おまえは、確かヴェニスティさまの──」
「はい、アディールです」
アディールが恭しく頭を下げる。
「こんなところで何をしている」
酒のせいか、知りたくもないことを訊いてしまったクイエテに対し、アディールは黒い瞳を輝かせた。
「お嬢さまの御用で本館に行っておりました。戻るとき、クイエテさまのお姿をお見かけしまして。クイエテさまこそ、どうなさいましたの?」
「夜風に当たっていただけだ」
「そうでしたの。でも、今日の夜は冷えますわ。そのような薄着ではお体に──」
「何をしている」
「は?」
「ヴェニスティさまの御用だったのだろう。さっさと戻って、ご報告したらどうだ」
「は、はい……」
アディールは寂しそうな顔をして頭を下げ、踵を返そうとした。
「待て」
「はい?」
「ヴェニスティさまは最近、あまりお見かけしないが、お元気なのか」
「お嬢さまはお変わりございません」
「そうか。季節の変わり目だ。おまえたち侍女がよくお世話をすることだ」
「はい……」
アディールはどこか冷たい声で返答し、今度こそ去っていった。自分の主人のもとへ戻ったとき、ヴェニスティは侍女に髪を梳かせていた。
「お嬢さま、ただいま戻りました」
「遅かったわね。何かあったの?」
「いいえ、何も。申し訳ございません」
「そう。あなたはもういいわ、下がりなさい」
髪を梳いていた侍女が退室したのち、ヴェニスティは改めてアディールに問うた。
「それで、お城のことは何かわかった?」
「はい。どうやら、公主さまがお妃さまを迎えられるようです」
「え?!」
「それで、近々、お城で大きな宴があるとか」
さすがにヴェニスティも驚いた。しかし、彼女の興味は話題の主役である公主には向けられなかった。
「じゃあ、ひさしぶりに登城できるかしら。あの方にお会いできるわ」
想像しただけで、ヴェニスティの頬は紅潮した。だが、すぐに沈んだ表情になる。
「お父さま、許してくださるかしら」
彼女はここしばらく登城を止められていた。よほどの賓客を迎えるなどでなければ、ギボールが無用な宴を開かないこともあり、城へ行く口実がないということもある。しかし、そもそも登城できなくなった原因は彼女自身にあったのだ。
ヴェニスティが社交界にデビューしたのち、滅多にない宴で初めて登城したのは十四歳のときである。そのとき、一目で心を奪われた相手がカドーシュだった。実はそれまでも、自邸で開く取り巻きたちとのお茶会や宴で、その噂はたびたび聞いていた。ただ、それまでの人生で周囲のすべての人間にかしずかれ、欲しいものは何でも手に入った「女君主」は、その気になればたやすく自分の「もの」にできると高を括っていたのだ。が、一瞬で虜にされたのは彼女のほうだった。それからというもの、城へ押しかけては面会を求めたり、手紙や高価な品を贈りつけたり──もっとも、一度も面会は叶わず、贈り物もすべて送り返されたが、挑めば挑むほど、拒まれれば拒まれるほど勝手に燃え上がるさまは、城や社交界中の人々の口に上った。あげく、さすがに目に余った父によって登城を禁止されたのである。
昨夜、父親に城のことを問うたのも、唯一、元老を招集できる公主のそばには、常にカドーシュの存在があるからだった。父と主君が犬猿の仲であることなど、恋する娘にとってはどうでもいいことで、ただ彼の人の動静を知りたいと思ったからである。
「お嬢さま、もうすぐお誕生日でいらっしゃいましたね」
不意に、アディールが話題を変えた。
「お父さまからの贈り物はお決めになりました?」
「まだよ。でも、欲しいものもないけれど」
「では、登城をお願いなさったらどうでしょう」
「え?」
「そうですわ。そのまえにご友人をお集めなさいませ。その場でも訴えるのです。社交界の華でいらっしゃるお嬢さまですもの。大事な宴へのご出席となれば、みなさん賛同してくださいますわ」
「そうね……」
ヴェニスティの表情に明るさが戻った。自分のためとなれば、行動は早い娘である。
「わかったわ。すぐにやってみる。ありがとう、アディール。あなただけよ、『わたくしたち』のことをわかってくれるのは」
「大切なお嬢さまのためですもの」
取り巻きや侍女はたくさんいても、心を許せるのはこの五歳年上の筆頭侍女だけだと、少なくともヴェニスティは思っていた。
「さあ、そろそろおやすみなさいませ。お体が冷えてはいけません」
ヴェニスティが床に就いたのち、アディールは静かに部屋を出た。そのとき、その口元には小さく、しかしやけに皮肉めいた笑みが浮かんでいた。