夜話
元老との「会談」を終えた夜、ギボールは執務室で留守中の報告を受けたあと、カドーシュを傍らに温かい紅茶でひと息ついていた。
「閣下」
「ん?」
「今夜は内廷へお渡りください」
「なんで」
「ルシィナさまへのご慰労です。本日のお披露目では、ずいぶんご心労をおかけしたでしょう?」
「そうだったかな」
「何をおっしゃっているのですか。あちらの言葉に激昂なさって」
「当然だろう。あんな暴言を放っておけると思うか」
「むろんです。だから申し上げましたでしょう、よくて不敬罪だと。首のひとつやふたつ、せっかく飛ばせる好機でありましたものを」
「………」
ギボールが黙って立ち上がり、扉へ向かうのをカドーシュが目で追う。
「どちらへ?」
「内廷だ」
ギボールがしかめ面をしている理由を、カドーシュはわかっていた。一種の照れ隠しである。相手が誰であろうと、たとえそれが「敵」とみなされる者であろうと、けっして冷酷になりきれない主君の性格なぞ、本人よりもよく知っていた。知っていて、あえて言ったものだが、同時にそれは「甘さ」でもあることを、カドーシュだけでなくギボール自身も認識はしていた。
「まあ、閣下」
内廷の女官たちは、ひさしぶりの主君の訪問に一様に驚いた。
内廷とは、謁見や政務を行う外廷に対し、公主一族の私生活の場である。しかし、ギボールは即位してのち、食事や寝所は執務室の奥にある休息室を使い、内廷に足を踏み入れることは滅多になかった。とはいえ、女官長の指示のもと、いつ主君が訪れてもいいように、常日頃から廊下の隅々まで磨き上げられ、また、二代続いた女公主が残した衣装や宝飾品も適切に管理されていたため、ルシィナを迎えるにあたっても慌てることはなかった。ただ、浮いた噂ひとつなかったギボールの公妃となる女性の突然の登場には、さすがに誰もが驚きを隠せなかったが。事前にカドーシュからの密書を受け取っていた女官長を除いては。
「ルシィナは?」
「はい、お部屋にいらっしゃいます」
「呼んでくれないか。居間で待っている」
「かしこまりました」
カドーシュは別室で控え、ギボールがひとりで待つ場に、ほどなくルシィナは現れた。長い金髪はほどかれ、簡素な普段着に着替えていた。
「お待たせいたしました、閣下」
輝くような微笑みとともに、ルシィナが頭を下げる。
「いや、突然に来てしまって……まあ、座ってくれ」
「はい」
茶菓を持ってきた侍女も下がり、ふたりきりになってさらに間があったのち、ギボールがおもむろに口を開いた。
「今日は……その、不快な思いをさせて、すまなかった。先に言っておくべきだったな、あの年寄りどものことを」
「いいえ、閣下。わたくしは不快な思いなどしておりませんし、むしろ感謝しております」
「感謝?」
「はい。わたくしのために憤慨してくださった閣下に、ですわ」
「いや、それは……」
ギボールが照れくさそうに頭をかく。と同時に、別のことを思い浮かべていた。カドーシュである。そもそも、元老への顔見せのこと、もっと早くに伝えることはできたはずである。だからと言って、早く知っていれば──少しは心の準備もできたかもしれないが──あの連中に「大人の対応」ができたかといえば自信はなかった。いや、あいつのことだ。自分が激昂することまで計算していた可能性もある。その上で──
呼び出した目の前の相手を放っておいて、ギボールはしばし黙考にふけった。
「──あいつは、そういうやつだ」
「は?」
「あ、いや、カドーシュがな……」
「カドーシュ卿ですか? そういえば、さきほど──」
ルシィナが小さく笑う。その理由をギボールが問い、ルシィナはここまでの道程で見かけた光景を話した。
廊下のあちこちで賑やかな集団が散見されたのだ。ルシィナの姿を目にすれば、むろん恭しく頭を下げるが、彼女が通り過ぎた背後で聞こえてくるのは、カドーシュへの手放しの賛辞である。若い娘たちを中心に、頬を染めながら黄色い声を上げている。なかには、誰が飲み物を持っていくかをめぐって、諍いまで起こしている者たちもいた。
「ああ、いつものことだ」
ギボールが当然という顔で応える。
「昔から女にはもてていたからな」
「そうでしたの」
「そりゃそうだ。なにしろ、ふたりでそばを通ると──」
カドーシュが視線を送っただけで、女性たちは頬を赤らめ、その場から逃げ出したものである。一方、ギボールが目を向けると、やはりそそくさと逃げ出してしまっていた。顔を蒼白にして。
「まあ、ご冗談を」
ルシィナが思わずはじけるような笑顔を見せ、ギボールもつられた。
「いや、本当のことだ。あの顔だからな。女や男かまわず目を引くのも仕方ないだろう」
ギボールには嫉妬の欠片も見えなかった。彼とて女性にまったく興味がないわけではないし、事実、人並みに少年時代の苦い思い出もある。だからと言って、特に不特定多数の女性にもてたいと思ったことはなかった。男としても公主としても、「人気」というのはあくまで結果であり、それを求めたり、求めようとしたりすることは、ある意味「ずるい」とも思っていた。
だが、ルシィナが思うに、ギボールとてその容貌は十分に整っていた。美形というより、野性味すら感じさせる凛々しい顔立ちなのだ。ただ、彼の場合、宮廷人としては「粗野」だと言われる性格と、常に隣にいる男が並外れて美しすぎることが、強いて言えばわざわいしているのかもしれない。
そんなやりとりの末、緊張もほぐれ、他愛無い話に興じていたとき、壁際の振り子時計が二十二時の音を鳴らした。
「もうこんな時間か。やすむまえだったのだろう? 遅くにすまなかったな」
「とんでもございません。お心遣いに感謝しております」
「何か困ったことがあったら、いつでも言ってくれ」
「ありがとうございます。でも、ご心配には及びません。みなさん、快く迎えてくださいましたわ。女官長のアエテルネ夫人も大変良い方だとお見受けいたしました」
「ああ、夫人ならおれも安心している。彼女の夫はおれとカドーシュの教師だったんだ。昔からかわいがってもらった」
「そうでしたの」
「おれより十歳くらい年下の姉弟もいる。今度、紹介しよう」
「はい、閣下。楽しみにしております」
「そうだ、ひとつ頼みがある」
立ち上がろうとしたギボールが、ふたたび腰を降ろした。
「おれのことなんだが、こういう私的な場では『閣下』ではなく『ギボール』と呼んでくれないか」
「『ギボール』さまですか?」
ルシィナにとっては初めて聞く名だった。
「幼名と言うやつもいるが、おれの、あえて言えば『人間』としての名前だ。『家族』にはそう呼んでほしい」
少し照れたような言い方に、ルシィナは微笑んで頷いた。
そしてルシィナや女官長たちに見送られ、ギボールはカドーシュとともに内廷をあとにした。まだ閨を共にすることができない事情もあり、ふたりの主君はそれぞれの寝室に戻っていった。
ルシィナが部屋へ戻る途上でも、まだ少女たちはカドーシュの「余韻」に浸っているようだった。
「楽しそうですね」
「申し訳ございません、ルシィナさま。若い娘たちのことゆえ──」
「かまいませんわ。閣下もおっしゃっていましたが、カドーシュ卿をお慕いする気持ちも無理からぬことでしょう」
寝室で侍女たちにやすむ支度を整えられたあと、最後に女官長が下がろうとするのをルシィナが止めた。
「少しお話がしたいのですが、よろしいですか?」
「もったいないお言葉でございます」
ルシィナがソファに座り、女官長にも椅子を勧めたが、それは固辞された。
「閣下やカドーシュ卿とはご即位まえから交遊がおありだったと伺いました。おふたりのことをよくご存じなのですね。ご夫君がお師匠だったとか、今はどちらに?」
「亡くなりました。もう十年以上前のことでございます」
「まあ、それは失礼なことをお聞きしました」
ルシィナは恐縮したが、アエテルネ夫人は穏やかに、そして少し寂しそうに微笑んだ。
「どうかお気になさらず。夫もよく申しておりました。あのおふたりはまことに『気持ちのいい』方たちだと」
彼女の夫は大変頭が良かったが、それでも、ふたりの関係をひと言で言い表すことはできなかった。主従であり、乳兄弟であり、そして同志でもあり──ありきたりな言葉を当てはめようとすればするほど虚しく、むしろそんなこと自体が無意味なように思えるほどだったという。
「わたくしが申し上げるのも口幅ったいとは存じておりますが、おふたりとも昔からお優しい方たちでございました。ただ、閣下の場合、少し不器用でいらっしゃいますが」
ギボールに他人の気持ちを思いやりすぎるところがあるのは確かだった。傍から見れば典型的な直情径行かもしれないが、その実、人知れず苦しむことも多いのを知るのは、ごく一部の者たちだろう──もっとも、それを素直に吐露することもできないが。それはギボールという人間の魅力でもあり、国家という怪物を御するべき公主ネツァーとしての欠点にもなりうることだった。
その点では、カドーシュは違っていた。大局と未来を見通す「眼」と、ときに冷徹なまでの現実観を併せ持つ彼こそ、あまりに人間らしい主君のそばにいなくてはならない。それは国事に関わる者すべてが、あの元老でさえも認めるところであった。
「アエテルネ夫人」
「はい、ルシィナさま」
「わたくしはまだまだおふたりのことを存じません。これからもご教授くださいね」
「もったいないお言葉でございます」
ルシィナの優しい微笑みに、アエテルネ夫人も快諾するのであった。
ふと窓の外に目をやると、月光に照らされた幾おびもの雲がゆるやかに流れていた。
「カドーシュ」
同じ夜空を眺めながら、明日の予定の報告を終えて下がろうとするカドーシュを、ギボールが呼び止めた。
「まだ何か?」
「いや、その……」
「何ですか」
「……茶が飲みたいんだが」
「かしこまりました」
カドーシュは、それは侍従の仕事だとは言わなかった。なぜなら、それはふたりだけの合図であった。
もともとギボールはあまり茶を飲まない。放っておいたら、圧倒的に酒のほうを口にする。しかし、カドーシュの入れた茶だけは口に合うようであった。数多の種類の中から、その時々の気分や体調に合ったものを選ぶことができるのは、主君を知り尽くした彼だからこそできることらしい。もっとも、ギボールにその微妙な違いがわかるかどうかは疑問であり、このことには別の意味があった。つまり、その気性ゆえ、「そばにいてくれ」などとは口が裂けても言えない主君の、ひとりになりたくないとき、もうしばらく喋りたいとき、カドーシュにのみ送り、そして彼だけが知りえる昔からの「合図」であった。
しばらくのち、銀の盆に紅茶と軽食を載せて、カドーシュは戻ってきた。ソファで待つ主君の前に、小気味よい音を立てながら並べていく。ほどなく支度を整えると、許しを待たずに向かいの椅子に腰を下ろした。
「ルシィナは内廷暮らしに馴染んでくれるといいが」
「そうですね」
「女官たちとうまくやっていけるかな」
「ご心配には及ばぬでしょう。アエテルネ夫人もいらっしゃいますし──そういえば、オルディネどのがいらっしゃったと、内廷の女官が申しておりました」
「なんだ、来てたのか」
「はい、お母上に呼ばれたそうです」
「それなら、おれのところにも顔を出せば良かったのに。ちょうど、ルシィナにも会わせようと思っていたんだ。いくつになるんだったかな」
「オルディネどのは十九に、弟のトゥームは十六です」
「もうそんなになるのか。夫人もそうだが、あのふたりにも要らぬ苦労をかけたものな。おれのせいで」
「また、そのようなことを」
ギボールが珍しく神妙な面持ちをし、カドーシュが微苦笑を見せる。
ふたりの少年時代の教師であり、アエテルネ夫人の夫であったイリュームは、すでにこの世の人ではないが、その見識は今でも広く語られていた。
もともと学者一門の出身で、自身もまた学生時代、首席の座を譲ったことはなかった。学界でもその才能は遺憾なく発揮され、やがては最高学府の長でも、政治上の出世でも思いのままと言われていた。ところが、もともと出世や権力争いには興味がなく、長い間、学問と研究一筋であった彼が、突然、親子ほども歳が離れた女性と結婚し、周囲を驚かせた。と同時に、それがひとつの転機となった。世間体にこだわり、やたらと騒ぐ身内や部下、この機に追い落としを狙い、あることないこと囃し立てる仲間たち──つまり、何もかもいやになったのである。すべての立場を捨て、しばらくのち、カドーシュの父親との縁をもって、ギボールとカドーシュの教師となったのだ。
ふたりの教え子は同じではなかったが、それは当然のことで、公主の息子だからとか、習得が異常に速いからだとかで差別するような人間ではなかった。教師としては厳しかったが、いったん机を離れれば、公私ともに良き相談相手でもあった。その妻や幼い子供たちもよく遊びに来たものである。
そんなある日、イリュームの自邸を城からの遣いが訪れる。それはギボールの弟、オルファニムの首席教師への誘いであった。むろん、条件や待遇は今までとは比べられないほど良く、息子の将来までも保証しようというものだった。
が、彼はそれを一蹴したのである。
それからも何度も遣いは訪れた。イリューム自身も城に召し出され、説得された。それでも、彼は首を縦に振ることはなかった。
結局は宮廷側の敗北に終わったものの、この件で彼の名は世間から消えることとなった。それまでは、公の立場を捨てたとはいえ、その才は広く惜しまれ、独自の発言や見解は注目を集めていたのだが、そこはむろん、宮廷側の圧力と学界の忖度である。その後、他界したのちも、前公主の在位中は、遺された妻子の不遇は続いたのだった。
「おれがもっと早く気づいていれば……」
「ご自分の決断を後悔なさるような方ではなかったと思います。まして、それを誰かの責になさるようなことなど」
カドーシュはそう言ったが、たいして慰めにはならないだろうとも思っていた。ギボールの性分だから仕方がない。それよりも、父が言っていたイリュームの言葉が頭に浮かんだ。
「どんなに立派でも、箱庭に人は住めぬよ」
父が、宮廷からの事実上の命令を拒み続けた理由を訊いたとき、それがイリュームの「答」だったという。
「閣下」
「ん?」
「ひとつお訊きいたします。アエテルネ夫人を女官長に任命なさったのは、償いのおつもりですか」
「それは──」
ギボールはとっさに言葉に詰まった。カドーシュの目がどこか冷たかったからである。だが、取り繕って通用する相手ではないことはわかっていた。
「違うと言えば嘘になるかもしれないな。だが、それだけじゃないのも確かだ。彼女なら立派に役目を果たせるとも思ったし、なにより──」
「わかりました」
カドーシュが言葉を遮った。その目はすでに穏やかだった。
「詮無きことを伺いました。さあ、そろそろおやすみください。きちんとお口を漱いで、それから寝酒などなさいませんように。明日に残りますからね」
「わかってるよ」
侍従を呼んで、やすむ支度をさせたあと、カドーシュは退室した。寝台にもぐりこんだギボールは、しかしなかなか寝付けなかった。
あのとき、最後に言おうとした言葉──なにより、おまえが賛成してくれたから。
それを言っていたら、あいつはどんな顔をしただろう。楽しみなようでもあり、怖いようでもあった。