元老
贅を凝らした馬車が公主の城に並び立った。
「生きた化石」、「城の土台並みの石頭」──ギボールにそう形容される元老がしばらくぶりに姿を現し、城内は身分の上下を問わず緊張した。
元老とは公主の最高諮問機関である。すでに一線を退いた九人で構成されており、ときには法にすら縛られない公主の権力を、事と次第によっては、その暴走を制止できる最後の「防壁」でもあり、逆に新たな道筋を築こうとする際の「障壁」となることもあった。
そしてギボールにとっては間違いなく後者であり、犬猿の仲である彼らが顔を合わせて、何事もなく済むはずがないと誰もが感じていた。
「突然のお召しとは、なんだというのだ」
「どうせまた、お立場も考えぬ『駄々』でもこねておられるのだろう」
「まったく、なんのために『お守り』が付いているのだか」
「その『お守り』が暴走を煽ることもあるゆえ、手に負えぬわ」
彼らにとって「良き主君」とは、自分たちの「既得権益」を守ってくれる「都合の良い」公主である。政務や公務に無関心であった先々代の公主なぞがその好例だった。先代のように「能力もないくせに」、下手に精励されようものなら迷惑なだけなのだ。ましてや、ギボールのように前例をことごとく打破しようとする公主は、「主君」というよりまさに「仇敵」であった。
とにかく、どちらが「駄々」なのかわからないような詮無い不平不満を口々に唱えながら、長い廊下の突き当りにある重厚な扉の向こうへと消えていく。控えの間を挟んだ部屋には、奥に扉を正面に見据える公主の椅子と、その座と扉のあいだをまっすぐに九脚の元老のそれが向かい合わせに並べられている。公主と元老の密議にだけ使われ、これまで数多くの国家の軌道が作り出されてきた場所であった。
八人がそろい、相も変わらず現公主の悪口を叩きあっているとき、不意に扉が開いた。
「これはプラキデさま!」
最初に気づいたひとりが反射的に姿勢を正し、ほかの七人もいっせいに倣う。公主を迎えるときより、よほど機敏である。
「ご無沙汰をしております」
「病床に臥せっておいでとも伺いましたが、ご健勝のようで安心いたしました」
プラキデと呼ばれた初老の男は、にこやかに短い言葉を返しながら、公主の座にもっとも近い椅子に腰を下ろした。生え際の後退した灰色の髪に、年輪が刻まれた顔には落ち着きも備わり、それなりに好々爺のようにも見える。しかし、いまだその灰色の瞳は、百年千年を生きた狐のごとき妖しい輝きを宿していた。
ほかの元老の言葉とて、けっして口先だけのものではなかった。敬意というより、そこにはむしろ畏怖があった。そもそも元老に長は存在しないが、事実上、プラキデが仕切っていることは衆目の一致するところである。ラーディガストでも屈指の名門であり、本人もギボールの即位後ほどなくして副宰相を最後に一線は退いたものの、今でもその一挙手一投足に宮廷は注目し、けっして敵に回してはならぬとまで言われた存在であった。
「閣下はまだ出座なさらぬか」
「はい。急なお召しでありながら、何をしておられるのやら」
「そう言うでない。われらの主君ゆえ、それなりに身づくろいもあろう」
穏やかな口調のもとで冷たい笑みを浮かべ、プラキデはちらりと主君の椅子を一瞥した。
「ネツァー閣下、ご出座にございます」
その直後、突然にカドーシュの声が響き、扉が開かれた。九つの重い腰がゆっくりと上がる。
時を置かず、ギボールは現れた。公主としての装いに身を包み、さすがに神妙な面持ちである。明らかに好意的ではない視線を浴びながら進むと、自分の椅子を前に振り返り、腰を下ろすことなく告げた。
「今日はおぬしたちに会わせておくべき人物がいる」
その言葉が終わるや、ふたたび扉が開いた。姿を現したのは、眩いまでに見目うるわしいひとりの女性、ルシィナであった。美しく装った彼女もまた、老人たちの驚きと、幾分の感心のなかを優雅に歩を進め、ギボールの隣に控えた。それを待って、ギボールは腰を下ろし、元老たちも続く。そしてひと呼吸ほど置いたあと、ギボールがおもむろに口を開いた。
「ルシィナ・グラティアスだ。わたしの妃となる」
ルシィナが穏やかに微笑む。その表情は凛として悠然に、強張ったままの顔たちをまっすぐに見据えていた。
「以上だ。では、これで散会とする」
「か…閣下、お待ちください!」
腰を上げようとした主君を、最初に我に返った老人が慌てて止める。
「失礼ながら、どちらの姫君であらせられます」
当然、想定していた問いに、ギボールは真実をしごく当たり前のように答えた。そして、その後の反応もまた、想定されていたものだった。
「閣下、正気の沙汰とは思えませぬ!」
「そのような無謀が許されると、よもやお思いですか!」
「軽挙妄動はお慎みいただくよう、これまで、われらがどれだけ──」
「『お守り』は何をしておったのだ、カドーシュは!」
「お召しでございますか」
感情の一端も読み取れない、美しくも冷たい彫像のような無表情で、カドーシュが控えの間から現れる。
「カドーシュ、これはどういうことだ!」
「ただいま、閣下がおっしゃったとおりでございます」
「そうではない! そなたが付いていながら、なんという──」
「わたくしは書記官です。なにゆえ主君の行動まで支配できましょうか」
「主君の無謀を制するのは、そなたの役目であろう!」
「むろん、閣下の御身や国政に危機が生じかねるような場合においては、一命を賭してでも、お役目を果たす所存でございます」
「これが、そうではないと申すか!」
「つい先日まで、閣下にご結婚を勧めておられたのは──」
しばらく、元老たちとカドーシュの舌戦は続いた。とは言っても、老人の一方的な興奮状態を、カドーシュがただ受け流しているだけである。
そんなあるとき、床を踏み鳴らす音が一度、響き、室内に静寂が戻った。唯一、沈黙を守っていたプラキデである。
「プラキデさま、しかしこのようなこと、前代未聞でございます」
「我がラーディガストの公妃といえば、貴族はおろか、王族さえもその座を熱望するというのに」
「そもそも、異国とはいえ、貴族だったということとて、はたして真実かどうかわかりませぬ」
「まことに。確かなのは、この女が先日まで下賤な芸団なぞにいたということ。そこで客相手に何をしていたのやら」
「おぉ、そうじゃ。娼婦のような真似でもしておったかもしれぬ。まったく汚らわしい──」
「なんだと!」
突如として、今度は雷鳴のごとき声が響いた。ふたたび静寂が戻った室内では、ギボールが憤怒の形相で立ち上がっている。
「おまえたちがおれのことをどう言おうと、今さらかまわん。だが、ルシィナのことも、何も知らぬくせに娼婦と呼んで蔑む女性たちのことも、侮辱することは絶対に許さん!」
先ほどまで威勢の良かった老人たちが顔を青ざめ、視線を泳がしている。ルシィナはギボールに気遣わしげな目を向けているが、実のところ彼自身は、思わず感情を爆発させたものの、振り上げた拳の行き場に困っている状態だった。
張り詰めた空気のなか、しかし信じられないことが起こった。押し殺した、小さな笑い声が聞こえたのである。
「カドーシュ……」
ギボールの、そして元老たちの視線をいっせいに浴び、カドーシュは顔を上げた。
「これはご無礼いたしました、閣下」
口元にはまだ笑みが残っていた。だが、その緑瞳は──ひどく冷たく、見る者を引きずり込みそうな深淵をたたえていた。
「しかし閣下、現在の元老がたにはそろそろご退場いただき、ご領地にでも隠棲いただくのがよろしいかと存じます」
「何を申すか、書記官ごときが!」
思わず立ち上がった元老のひとりをカドーシュが見据える。途端、哀れな老人は糸の切れた操り人形のように、力なく椅子に腰を落とした。このときばかりは、ギボールも思わず同情の念を禁じ得なかった。
「確かにわたくしは一介の書記官です。しかし、その『書記官ごとき』にさえ明確な真実を元老たるあなた方がお忘れでは、そう申し上げあげるしかないではありませんか」
「なに、真実?」
「はい。元老であろうと一兵卒であろうと、閣下の御前ではいずれも等しく臣下であるということでございます」
「何を今さら──」
「ご存じでしたか?」
「われらを愚弄するつもりか!」
「よもやそのようなこと。ならば、あらためて申し上げます。われらに与えられた第一のお役目は閣下のお言葉に従うこと。不遜にも異を唱えるなど、不敬の極みにございます。まして、主君となられる公妃さまへの暴言の数々、『正気の沙汰』でないのは、はたしてどちらか」
単純な理屈ほど強いと、かつてカドーシュが言ったことがある。そして今、もはや反攻する力もない「敵」を目の前にどこか楽しそうだった。それは手中の虫を、何の感慨もなく握りつぶそうとする「悪意なき子供」のようでもあった。が、あるとき、不意にその視線が主君に向けられ、ギボールは思わず身構えた。
「閣下、次のご予定が控えております」
「あ…あぁ、わかった」
「そのまえに、さきほどの件、いかが処されますか?」
「さっき?」
「ルシィナさまへの侮蔑の言葉でございます。よくて不敬罪か、それとも──」
カドーシュの冷たい笑みに、件の元老の顔が蒼白となる。ギボールが即位して以来、仇をなそうとする者がいないわけではなかった。だが、その「ごくわずか」な人間がどうなったのか、公に裁かれることもないまま、少なくとも表の世界では誰も知らなかった。
「それとも、不問になさいますか?」
「そ、それでいい」
ルシィナを連れ、足早に退室する。廊下に控えていた侍女たちに彼女を託したあと、そっとカドーシュにささやいた。
「このままじゃ、すまないな」
「すまないでしょうね」
「どうするつもりだ」
「さぁ、どうしましょうか」
なんとも呑気な言い方に、ギボールはそれ以上、何も訊く気にはならなかった。
一方、取り残された元老たちは、我先にとプラキデに迫っていた。
「プラキデさま、どうなさるおつもりですか!」
「よもやこのまま、公妃としてお認めになることはございませんでしょう?」
「そうなっては悪夢です。王国創建以来の由緒正しきラーディガストの血筋が──」
しかしプラキデは何も応えず、ゆっくりと腰を上げた。
「わたしはこれで失礼しよう」
「プラキデさま!」
「明日は妻の命日なのでね。早く帰らねば、娘に怒られてしまうのだよ」
ちらりとプラキデに見据えられた元老が、思わず身を固くする。
「こ、これはご無礼を。そういえば、ヴェニスティさまは御年、いくつになられました」
「もうすぐ十七になるというのに、まだまだ子供でね。早く良い婿でも迎えてやらねば、妻にも顔向けできぬよ」
「何をおっしゃいます。ヴェニスティさまほどのご器量でしたら、名乗りを上げる者はいくらでもおりましょうに」
「むしろ、お父上が手放されたくないだけではございませんか?」
「ははは、そうかもしれぬ」
小さく笑って、プラキデは退室した。それを全員で見送ったあと、元老のひとりが大きく息を吐き、椅子に腰を落とした。
「プラキデさまもヴェニスティさまには勝てぬか」
「奥方の忘れ形見ゆえ、さもあらん」
「しかし、その奥方にしても、その前の方にしても──」
「やめぬか、その話は!」
途端、みなが口をつぐむ。
プラキデのふたりの妻については、ある巷説があった。つまり、先の妻とは政略結婚で、夫婦仲は良いとは言えず、子にも恵まれぬまま、二十年ほど前に死別。あまりに突然の死だったため、様々な憶測が陰で飛び交うなかでほどなく迎えた新しい妻、ヴェニスティの母親とは親子ほども年が離れており、そもそも身分の低い平民であったものを、その権力によって架空の生い立ちを偽造したという風聞もあったが、それを確かめる者はいなかった。
いや、確かめようもなかった。
妻との出会いの場であったという地方の友人の屋敷は、ある夜、主人ごと火に包まれた。その妻もまた、結婚後、公府の屋敷から一度も姿を現すことのないまま、数年後に幼い娘を残して他界していた。
そして、みずからにまつわる噂を知りながら、ただ悠然と笑っている──それがプラキデという男だった。