暁霞
湖に通じる小径の入り口までカドーシュに付き添われ、ルシィナが宿舎である館に戻ったのは、太陽が頂点を過ぎたばかりの頃だった。彼女が戸口に姿を現すと、芸団の仲間たちは我先にと駆け寄った。
「どこに行っていたの。心配したのよ」
「子供たちだけ帰ってきたから、また何かあったんじゃないかと」
矢継ぎ早にかけられる言葉にも、しかしルシィナは答えず、その視線はどこか定まっていなかった。
「ルシィナ、本当に大丈夫?」
子供たちに腕を引っ張られ、ようやく我に返ると、精いっぱいの笑顔を見せた。
「心配をかけてごめんなさい。少し歩いていたら、遠くまで行ってしまって。本当にごめんなさい」
それだけ言って、足早にその場を離れるルシィナを、仲間たちの輪の外から誰よりも心配そうに見つめる初老の男があった。
夜、みなで夕食を取り、子供たちを寝かしつけたあと、ルシィナは部屋でひとり、両親の形見を手にして見つめていた。
「ルシィナ、少しいいかい」
あるとき、訪れたのはくだんの初老の男──芸団の団長であり、養父でもあるセオスであった。
「団長さん。もちろんです、どうぞ」
ルシィナは慌てて石を首にかけると、笑顔で迎えた。だが、それが帰ってきたときと同じように、どこか無理があるのは明らかだった。
「何があったのですか、グラティアスさま」
ふたりきりになると、セオスは口調を改めた。あの故国の夜以来、ずっとである。
「団長さん、わたし……」
「もしや、また誰かに絡まれたり、まさか何かされたりしたのですか。やはり、あなたを舞台に立たせるべきではなかった。わたしの責任です」
ルシィナの美しさは声だけではなく、むろん、類いまれな容貌にもある。実際、これまでにも彼女に目を留めた貴族や大商人たちから、強引に「身請け」を迫られたことも一度や二度ではなかった。団長は舞台に上げることを嫌っていたが、その歌声が芸団の看板でもあるのは事実であり、ルシィナがみずから望んだことでもあった。結果、せめてもの対策として、舞台ではその顔を隠していたのだ。
「違うのです。実は、ネツァー閣下に……」
「ラーディガストの公主でいらっしゃる、あなたを助けてくださったという方ですか?」
「はい。その閣下に、わたし……妻にと、望まれたのです」
「───」
途端、セオスの頭の中は真っ白になり、自分を取り戻すのにしばしの時間がかかった。
「そ、それは『正妃』に、ですか? 失礼ながら『愛妾』ではなく──」
「はい。そうおっしゃいました」
「………」
当惑するのも無理はなかった。血筋やら伝統やらをなにより重んじる大国の主であり、また、セオスは噂を鵜呑みにするような人間ではないが、ギボールのこと性格に関しては、その身分によってかなり評判が分かれるのも事実であった。彼は「娘」に妃になるよう言い含めるような「父親」ではない。ただ望むのは、彼女の幸せだけである。嫁いでも、本人の人間性や生き様にはなんら関係のない身分とやらにこだわるばかりの連中にいじめられるのではないか。そもそも「妃」と言っておきながら、「妾」として囲い、いずれ捨てられ──など、どう想像しても、ルシィナが幸せになれるとは思えなかったのだ。
だが一方で、セオスはあるとき、妙なことに気づいた。聡明な彼女なら、相手が本気かどうか、また生涯を捧げるべき人間かどうかは容易にわかるはずである。現に、これまではそうだった。なのに、懊悩しているように見えるということは、その「閣下」という男に、なにか感じるものがあるということなのだろうか。
「グラティアスさま、単刀直入にお伺いします。『閣下』のことを、どう思っていらっしゃるのですか?」
「……正直、よくわからないのです。ただ、ご自身のお立場に『覚悟』をお持ちの方だとは思っています。同時に、それゆえでしょうか。どこか寂しさを抱えていらっしゃるようにも感じました。もし、わたしで少しでもお支えすることができるなら……それに、あの方には『恩』もございます。でも──」
伏し目がちだったルシィナがセオスをまっすぐに見た。
「『恩』ならば、あなたにこそあります。何もお返しできぬまま、わたし──」
「何をおっしゃるのです、グラティアスさま」
ルシィナの言葉を遮ったあと、セオスは小さく息をつき、意を決したように口を開いた。
「あなたにお話するのは初めてでしたね。『ルシィナ』というのは、わたしの娘の名前だったのですよ」
「娘さんのお名前……『だった』?」
「優しい娘でした。その頃はほんの小さな芸団だったのですが、亡くなった妻の代わりに、みんなの母親のように陰日向なく働いてくれました。いつか団を大きくして、わたしにも楽をさせてやりたいと。でも、もう二十年前──」
冬の寒い日、買い物に行ったまま、娘は何日も帰ってこなかった。不慣れな街を手分けして捜したものの、埒が明かず、不安な時間だけが続いていたある日の夕暮れ、団の幕を訪れる者があった。
「ルシィナという娘御をご存じか!」
それは見知らぬ男だった。身なりは立派だが、表情にはなぜか悲愴感が漂っていた。
「は、はい。ルシィナは確かにわたしの娘でございます。あなたは──」
「わたしはお館さまのご命令により、ルシィナどのの所縁の者を捜していたのだ。それより、急ぎ、来ていただきたい」
男は馬上にセオスを引き上げると、馬を飛ばし、やがて広大な邸宅に入っていった。
足早にある部屋に案内され、そこでセオスが見たものは、力なく寝台に横たわる娘の姿だった。
「ル、ルシィナ?!」
室内にいる他の人間には目もくれず、セオスは寝台に駆け寄った。近くで見ると、血の気の失せた顔には、いくつもの殴られたような痕があった。
「ルシィナ、ルシィナ!」
繰り返される呼びかけに、あるとき、少女のまぶたがかすかに動いた。
「とうさん……」
「ルシィナ! ここにいるよ。もう大丈夫だ」
「……みんなのところ、帰り、たい──」
涙が目じりからひとすじ流れ、その目がふたたび閉じられると、二度と開かれることはなかった。
「ルシィナ!」
父親の慟哭が室内に響く。娘の動かなくなった体に覆いかぶさるようにして号泣するセオスの背後に、静かに歩み寄る男があった。
「あなたが『ルシィナ』どのの父御ですか」
セオスが振り返ると、そこにはひときわ身なりの良い壮年の紳士が立っていた。
「あ、あなたは……」
「この館の主人とだけ申し上げておきましょう」
「あなたが、この子を……?」
「川岸に流れ着いていたところを発見しました。辛いことを申し上げなければならないが、どうやら、乱暴されたうえ、川に落とされたようです」
瞬間、セオスは時間が、世界が止まったような感覚に襲われた。この紳士が何を言っているのか理解できなかった。いや、理解したくなかった。ようやく「感覚」を取り戻したとき、思わず目の前の男の服をつかみ、わななきながら叫んでいた。
「なぜ、なぜ、この子がそんな──いや、誰がそんなことを!」
館の主人はその手を払うこともなく、これまでの経緯を説明した。彼が館へ帰る途上で馬車の中からルシィナを見つけたこと。わずかな意識の中、自分と、おそらく犯人の男の名前だけを告げたこと。館へ連れて帰り、縁者を捜しながら治療を続けたものの、暴力と凍てつく水に晒された体はもはや手遅れだったこと。
「そいつがルシィナを──どうか教えてください、そいつの名前を!」
「どうするつもりですか?」
「決まっています、かたきを討つのです!」
「そうだろうと思いました。だからこそ、あなたには申し上げられない」
「なぜです!」
「あなたにまで死んでほしくないからです」
静かだが、主人の揺るぎない言葉と態度に、セオスはもう望みはないと悟った。その場に膝をつき、顔を伏せてただ泣くことしかできなかった、そんなときである。
「お父さまぁ」
愛らしい声が耳に入り、顔を上げると、まだ三、四歳の少女が扉から駆けてきた。金色の髪と青い瞳を持つ、美しい少女だった。
「お嬢さま、お待ちください」
侍女が慌ててあとを追ってくる。
「お館さま、申し訳ございません。お帰りだとお聞きになり、久しぶりにお父さまにお会いしたいとおっしゃって──」
「いや、かまわぬ。しばらく顔を見せられなかったのは確かだ」
そう言って、主人は少女の体を抱き上げた。
「グラティアス、わたしは今、友人と大切な話をしている。わかってくれるね」
「はい、お父さま」
少女は素直に頷くと、母親だろう、迎えに来た同じ色の髪と瞳の女性と手をつないで戻っていった。扉のところで、自分を見つめるセオスの視線に気づき、輝くような微笑みを残して。
「セオスどの、わたしに任せてはもらえないだろうか」
向き直り、あらためて主人は話しかけた。
「娘さんに対する罪を贖わせることを」
「あなたが、なぜ……」
「ご覧になったでしょう、わたしにも娘がいる。あなたの気持ちは理解できる。なにより、これ以上、罪を重ねさせることはできない」
「………」
セオスは一度、ルシィナのほうを振り返り、やがて小さく頷いた。
ルシィナの遺体を預け、セオスはいったん仲間のところへ帰り、その後、団員のみなで手厚く葬った。むろん、館の主人の助力である。一方で、主人は約束を忘れてはいなかった。
国王が個人的にも信頼する側近の進言により、勅命によって、ルシィナに手を下した男たちは捕縛された。それは、以前より悪い噂の絶えない貴族の息子たち三人だった。当初はしらを切っていたものの、やがて認めたうえで、下級民の娘のひとりやふたり、などと親子そろって「豪語」する始末だった。
しかし、拘束されているあいだに禁断症状が出始めたことは、さすがにまずかった。法で厳しく禁じられている薬物の常用が明るみになり、ついに処断された。ルシィナの件が明るみにあったあと、過去の犯罪の告発が相次ぎ、それらと併せて本来なら死罪ではあるが、貴族の最後の特権としてそれは免れ、男たちは辺境の獄へ終生、繋がれることとなった。罪人の証として片目を潰され、逃亡できぬよう脚の腱を切られてのことである。
その知らせを受けたのち、セオスたちは国を離れた。館の主人が団員にひそかに託していた金子の助けもあり、各地で仲間を増やし、やがて名を知られる芸団にまでなることができた。ようやく娘の眠る地をふたたび訪れることができるまでに十年、そんなとき、あの夜の反乱が起きたのである。
「わたしはあなたのお父上に救われたのです。あのときの恩義に比べれば……いえ、あなたがいてくださるおかげで、わたしだけではない、団の仲間たちがどれほど幸せだったか。だから、わたしたちのことで気に病まれることはないのですよ。みんな、思いますよ。あなたがよければ、それでいいと」
「………」
「ご自分の本当の気持ちに、素直に耳を傾けてください。迷っておられるのは、新たな道に進むべき時だからかもしれません。『変わらない』ことに言い訳はなさらないで、どうか──」
「……お父さま」
ルシィナの不意の言葉に、セオスは思わず息を呑んだ。青い瞳には温かな涙が浮かび、そして溢れた。
「ありがとうございます……そして、ごめんなさい。わたし、もっと早く気づくべきでした。どれだけ愛され、どれだけ幸せだったか──」
「グラティアスさま……いや、ルシィナ」
父娘はどちらともなく体を寄せ、抱き合った。セオスの目からも止めどなく涙が流れていた。
「どうか、幸せになっておくれ、あの子のぶんも……」
父の腕の中で、ルシィナは何度も頷いた。
その後、ふたりは夜が明けるまで九年分の思いを語り合い、朝になれば、ルシィナはいつもの笑顔で、いつもと同じように仲間たちと過ごした。誰もが安心し、ふたたび夜になってみなが寝静まったあと、ルシィナは仲間たちひとりひとりに手紙をしたためた。
そして闇が白み始めたころ、館の戸口にはふたつの人影があった。
「お父さま……」
「ルシィナ、最後のお願いだ。どうか振り向かないでおくれ。おまえを手放せなくなってしまうかもしれない。わたしはそんなに強くないのだよ」
「はい……」
ルシィナは前を向いて歩き出し、やがて朝靄に包まれ、消えていった。
サンダルフォン王国歴634年3月24日、人知れず、新しい時代が始まろうとしていた。