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外伝・笑

 それは夏の、ある暑い日のことだった。

 晴れわたった蒼天に白い雲が流れ、草木はその枝葉を風の中に煌かせる。小川では魚が跳ね、動物は野を駆け、鳥が空を渡る──生きとし生けるもの、すべてが命の活気を輝かせているそんな日だった。

 そして、充実しきった体力と気力を兼ね備えるこの少年も、こんな日にじっとしていられるはずがなかった。夜が明けきるのを待ちかねたように、馬を跳ばして遠乗りに出かけたのである。

「今、帰ったぞー」

 ギボールが守役の屋敷に戻ったのはその日の夕刻、太陽が長い影を地上に写し、空では宵の明星が妖しい輝きを増すころだった。だが、気が乗れば何日も帰らないことも珍しくない彼にとって、それはけっして納得ずくの帰還ではなかった。

「まいった~、蜂に刺されちまった。おれは平気なんだが、カドーシュが治療しろってうるさくてさ」

「蜂の毒を甘く見られては困ります」

「心配性なんだよ、おまえは」

 相変わらずの会話をしながらも手当ては済ませたが、ギボールとしては志半ばの帰宅である。欲求不満がたまるとばかり、早速に庭へ出て、灯火のもとでカドーシュ相手に剣の稽古を始める始末だった。

「ご精が出ますね、ギボールさま」

 不意にテラスから声がかかった。ふたりが手を止めて目を向けると、そこには初老の紳士が笑顔で立っていた。彼らの師匠であるイリュームである。

「どうしたんだ、今日の講義は休み……だったよな?」

 ギボールが遠慮がちに尋ねる。悪気はないのだが、つい陽気にあがないきれず、講義をすっぽかした前歴を複数回持つ彼らしい。対してイリュームは穏やかに頭を縦に振った。

「今日はカドーシュどののお父上に用がありましてね」

「じゃあ、用が済んだらおれのところに来てくれないか。また話が聞きたい」

「かしこまりました」

 ちょうどそのとき、屋敷の女主人が夕餐の知らせに姿を現した。彼女が毎食、整える食卓はけっして豪奢でも華やかでもないが、季節のものや素材の味を存分に活かした滋味あふれる料理は、育ち盛りの少年たちにとってこれ以上のものはなかった。

 温かい食事と楽しい会話のあと、少年ふたりは先に席を立ち、湯浴みと着替えを済ませた。そのしばらくのち、約束どおりイリュームが訪れると、ギボールとソファに向かい合って座っていたカドーシュが立ち上がり、扉まで師匠を出迎えた。

「イリューム、待っていたぞ。カドーシュと話してると、説教されてるみたいで疲れるんだ」

「それはあなたにやましいことがおありだからでしょう」

「おまえな……」

「まあまあ、おふたりとも。それにしても今夜は蒸しますね、風がやんでしまった」

 イリュームがギボールの前に座りながら、窓の外を見やる。確かに窓越しに見える木々は、枝先の小さな葉さえ揺らしていなかった。

「そうだな、夜になって急に……そうだ、イリューム、何か涼しくなるような話はないか?」

「涼しく、ですか」

 あまりに漠然とした注文に、さすがのイリュームもしばし思いを巡らせたが、すぐに顔を上げた。

「ございます。ご希望にどこまで添えられるかはわかりませぬが、おそらく」

「お、いいな。早く話してくれ」

 ギボールは五、六歳の子供のように目を輝かせ、身を乗り出した。その隣に腰を降ろしたカドーシュもまた、年齢らしい期待の表情を見せる。

「それでは……これはそう遠くない昔、本当にあったことです」


 ある国にひとりの女君主がいました。彼女は恋も知らぬまま年頃となり、国家が定めた貴族と結婚し、ほどなく期待どおり跡継ぎを産みました。まことに理想的な君主だと褒め称えられはしたものの、そこには安らぎも幸せもありませんでした。やがて女主君は政務からも夫からも離れ、王子とお気に入りの貴族たちとともに、連日連夜、饗宴や夜会に明け暮れたのです。

 何年か経ったころ、ある噂が女君主の耳に入りました。「夫」が城下に愛妾をかこい、しかも子供までもうけているというのです。彼女は怒りました。「妻」としての嫉妬ではありません。自分のプライドを傷つけた「夫」と、自分の「所有物」を盗んだ女への憎しみです。彼女はすぐに調査させ、事実を確認すると、ある命令を出しました。

 それから幾日か経ったある日、突然「夫」が倒れました。過労と診断されましたが、陰では毒が盛られたのではと噂する者もいました。しかし「夫」にはどちらでも構わないことでした。彼もまた国家の命令で宮廷に入り、心通う者もいないまま政務に追われる日々に疲れていたのです。城下のふたりのことだけが心残りではありましたが、市井の中で幸せに生きてくれればと、ただ祈るだけでした。

 信じられないことが起こったのはこのときです。病床の彼のもとに「妻」みずからが誂えた食膳が運ばれたのです。本人は姿を現しませんでしたが、滋養に良いというある特別な「食材」を手に入れたというのです。「夫」も当初はさすがに気味悪く思ったものの、拒むことはできません。覚悟して口に運んだそれは、しかし不思議な、しかもなかなかの美味でした。それから毎日毎度、それは料理に使用され、半月も経つころには彼はすっかりその虜になっていました。

 そのおかげもあってか、床を離れることができるようになった「夫」に、「妻」はふたりだけの食宴を申し出ました。その気持ちに涙を流して喜ぶ彼の前に運ばれたのは、無論、あの料理です。しかし同じテーブルの端で彼女はただ笑っているだけ、けっして食事に手を付けようとはしませんでした。

 そして食事が終わり、彼は「食材」を尋ねました。彼女はそれを待っていたかのように、すぐに銀色の半球の蓋に覆われた大きな皿を持ってこさせました。勧められ、彼がその蓋を取り去ったとき──彼のすべては止まったのです。

 気づいたとき、彼は腰を抜かし、溢れんばかりの涙とともに嘔吐を繰り返していました。皿に載っていたのは、自分が愛した女と子供の首だったのです。

 その変わり果てた姿から目を逸らすこともできない「夫」の耳に、「妻」の勝ち誇ったような高笑いが響きました。

「さぞ美味でございましたでしょう。ご自分の血を分けた肉のお味は」

 彼はとっさにナイフをつかみ、狂ったように女君主に襲いかかりました。しかし、すぐに何人もの衛兵に取り押さえられ、ただありったけの憎悪の視線と罵声を浴びせることしかできませんでした。対して、彼女はその惨めな姿を侮蔑の瞳で見下ろしながら、残った首さえも暖炉の炎の中に放り込ませたのです。

 そして彼は日も差さぬ暗い地下牢に繋がれ、女君主を呪いながら数年後に狂死しました。


 いつのまにか風が戻っていた。

「これでお話は終わりです。ご希望に添うことができましたか?」

「………」

「ギボールさま?」

「あ、す…すまない。ほんとうに……うん、涼しくなった……」

「それはようございました。それでは、わたしはこれで失礼いたします」

 イリュームと、同時にカドーシュが立ち上がったが、ギボールは腰を上げなかった。

「遅くまで引き止めて悪かったな。今度は、もっと……あ、いや、また異国の話をしてくれ」

「かしこまりました」

 イリュームが退室したのち、部屋の外まで見送ったカドーシュが戻ってくると、ギボールは珍しく物思いにふけっていた。

「それでは、わたしも失礼します」

「カ、カドーシュ、おまえもか?」

「何を驚いていらっしゃるのです。そろそろおやすみになる時間ですよ」

「そのまえに、そ、その……茶を淹れてくれないか」

「わかりました」

 ふたりだけの「合図」にカドーシュが微笑とともに応える。

「あ、そのまえに……」

「また、まえですか」

「窓を閉めてくれ。風が出てきた」

「それくらいご自分でなさってください」

「動きたくない……」

 ギボールは呟くように言うと、ソファの上で膝を抱いて背中を丸めた。カドーシュはやれやれと言いたそうにそれを見やりながら、窓を閉めたのち出て行った。ほんのわずかな時間のはずなのに、部屋でひとり待つギボールにとって、それはやけに長く感じられていた。

「お待たせしました」

 カドーシュが戻ってきたとき、ギボールは留守番の子供のように思わず顔を上げた。用意されたお茶を無言ですする主君を、ふたたび目の前に座ったカドーシュがやはり無言で見つめていると、あるとき、うつむいた顔からくぐもった声が漏れた。

「なんで笑ったんだ……」

「は?」

「なんで笑えたんだろ……」

「誰のことです?」

「さっきの、話の中の女……」

「ああ、最後の食宴ですね。それは目的を果たしたからでしょう」

「目的って言うけどな、どうせ愛してなかったんだろ。なんであそこまでする必要があるんだ。放っておけばいいじゃないか!」

 ギボールが突然、顔を上げてまくし立てる。が、カドーシュは冷めた瞳のままである。

「独りごちたり、いきなり興奮したり、なんなんですか。わたしに言われても知りませんよ。そもそも目的なんて、人それぞれ違って当然でしょう」

「だがな、目的っていうのは、他人はともかく自分を幸せにするためのものじゃないのか」

「普通はそうでしょうね。それで、さっきから何がおっしゃりたいんです」

「あの女は……幸せだったのかな。笑顔っていうのは幸せなときのものだろ。だが、あんなこと……愛してもいない夫を苦しめるために、罪もない女と子供を殺して、しかも……」

「彼女にとっては夫も、女も子供も罪があったのでしょう。だから苦しめる権利がある。少なくとも彼女はそう思っていたはずです。まして、君主の権威は絶対無比、法にすら縛られないのだから」

「だから、何やってもいいって言うのか?!」

「わたしに怒らないでください。わたしはただ客観的事実を申し上げているだけです。それもあなたがせがまれるから。何をしてもいいかどうか、どこまでが許されるのか、それは人それぞれ、立場で違うでしょうね。ただ、すべてに等しく言えることは、最終的に自分が許せるかどうかです」

「自分が……?」

「そう、偽らない自分自身──良心とも言いますね。それがどう感じるかです。だから件の女君主について言わせてもらえば、彼女はそのとき、自分にはそうする権利があると思っていた。だから自分を許していた。それなら幸せだったんじゃないですか。先のことは知りませんがね」

「そうか……」

 少しずつすすっているうちに、いつのまにかギボールのカップは空になっていた。飲んだという実感はないのだが。

「ん」

「はいはい」

 ぶっきらぼうに突き出されたカップにカドーシュがお茶を注ぐ。

「そういえば、さっきカドーシュ、先のことは知らないって言ったよな」

「ええ、わたしは予言者でも占者でもありませんから」

「そうじゃない。今は許せても、いつか許せなくなるかもしれないってことか」

「可能性はあるでしょう。人の心ほどうつろいやすいものはありませんから。他人に対して昔は許せなかったことが、時とともに許せるようになっていく──ならば、自分に対しても、またその逆もあるでしょう」

「じゃ…じゃあ、そのときはどうするんだ」

「そのとき? あ、ギボールさま、カップを持ったまま身を乗り出さないでください。ほら、こぼれてる」

 カドーシュがテーブルの上を拭いているあいだも、ギボールの詰問は止まらなかった。

「夫も女も子供も殺してるんだぞ。今さらどうしようもないじゃないか」

「そう言われればそうですが……方法はいくつかあるでしょうね」

「なんだ?」

「手っ取り早いのは目を背けることです、事実からも本心からも。そして一生、自分は悪くないと言い聞かせるのです。それだって結構、大変かもしれませんが。もうひとつはその逆、直視することです。そして自分にできる償いをする。もちろん三人を殺したことは取り返しがつかない。けれど、探せば何かできることがあるかもしれない──そう信じて始めるんです。まあ、苦しいのは保証しますけどね」

「そんなもの、保証しなくたっていい。でも、それなら……おれたちだって、ありうるわけだよな。そのときは何も感じていないことでも、いつか──」

「人間は過ちを犯すために生まれてきた、そう聞いたことがあります」

 ギボールの不安に満ちた声に、突然、カドーシュの厳然たる声が割り込んできた。そして、こう続けた。

「同時に、それを改めるために。何にだって表があれば裏があります。ひとつのことをこっちから見れば善だけど、もう一方から見れば悪の面もある。その逆もしかり。世の中なんて、そんなことだらけです。これも保証します。だから、信じるだけです。何が本当の幸せに繋がるのか。どうすれば心から笑えるのか。大切なのは過ちに気づいたとき、すぐに改めることなのですから」

「………」

 ギボールは呆然とカドーシュを見つめた。昔からそうなのだが、こんなときの同い年の乳兄弟は、神話の中で迷える人々を導く、光り輝く神の使者のようにも思えた。

「ま、大抵はそんな大げさなものじゃありませんよ。それに、取り返しのつかないことなんて滅多にありませんし」

 カドーシュの表情はいつのまにか明るい人間のそれに戻っていた。近隣の少女を残らず魅了せずにはいられない、あの微笑である。

「そうか……そうだよな。ま、いいや、おれには──」

「はい?」

「い、いや、なんでもない。すまなかったな、こんなに遅くまで」

「かまいませんよ。そのかわり、明日は一度で起きてくださいね」

「努力するよ……」

 それからほどなく、ギボールは床に就いた。その中で何度も寝返りを打ちながら、自然に笑みが漏れた。たとえ目の前にどんな道が現れようと、あの灯明が輝いてくれる限り、進んでいける気がする──と。


 このとき、ギボールとカドーシュ、ともに十三歳。

 この五年後、ギボールはラーディガスト公主・ネツァーとして宮廷に上り、カドーシュとともに幾多の改革に乗り出すことになる。


 そして、ギボールが闇の中で灯明を見失うのは、それからさらに数年後のことである。

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