落花
ギボールは寝衣のまま、裸足で内廷へと走った。それを、ガウンと履物を抱えた侍従が追いかける。途中、同じく知らせを受けた平服姿のカドーシュと出くわしたが、足を止めることはなかった。
「ルシィナは?!」
険しい形相の公主に、公妃の寝室の前でうろたえていた女官たちがとっさに道を開ける。部屋に入ろうとしたが、扉の前にはふたたびオルディネが立ちふさがっていた。
「公妃さまはにわかに産気づかれ、ただいま医師団と女官長が対応されております」
「それは聞いた。いいから、そこをどけ」
「お入りいただくことはできません」
「オルディネ!」
ギボールが叫び、今にも力づくで排除しそうな剣幕である。周囲の女官たちは怯えて震えていたが、オルディネは一歩も動かず、主君と睨みあった。
「閣下、落ち着いてください。今、あなたが入られても、邪魔になるだけです」
ふたりのあいだにカドーシュが割って入る。この場を取り納めることができる唯一の人物の登場に、オルディネを除く女性たちは安堵の吐息を漏らしながら、頬を染めていた。
「隣室でお待ちしましょう。今こそ、あなたの臣下をお信じください」
「………」
ギボールはこぶしを握り締め、黙って扉の前から踵を返した。
隣室は公主の本来の寝室で、妃のそれとは扉で繋がっていた。即位し、城に入ったときに足を踏み入れて以来の部屋で、ギボールは食事もとらず、室内をむやみに歩き回ったり、ソファに座ったまま動かなかったり、時々、思い余って部屋を出ようとしてカドーシュにたしなめられたり──それを何度、繰り返したことか、昇った日が沈んで逢魔が時の闇が広がり、宵の明星が妖しい光を放つころ、隣室への扉が突然、開かれた。
「閣下、お生まれになりました! 公子さまでございます!」
「ルシィナは?!」
ギボールは伝えに来た助手を押しのけるようにして、隣室へと駆け込んだ。しかし、そこで目にしたのは、産声を上げる生まれたばかりの我が子と、目を閉じたままのその母だった。
「ルシィナ! 目を開けろ、ルシィナ!」
まっすぐに寝台へ走り寄り、動かない蒼白の妃の顔を覗き込んで叫ぶ。
「閣下、公妃さまのお手当をいたします。どうか、お退きください」
「医長、ルシィナは!」
「はっきり申し上げて、かなり危険な状態でございます。すべての手は尽しますが、最終的にはご本人のお力としか──」
「かならず助けろ! いや、助けてくれ、頼む……」
「むろん、心得ております」
「閣下」
カドーシュが背後から静かに声をかける。女官長から絹布に包まれた、金色の髪をした赤子を受け取ると、ギボールに差し出した。
「閣下と公妃さまのお子でございます。どうか、お手に抱いて──」
「いらぬ!」
「閣下! 公妃さまがお命を賭して──」
「ルシィナの命に代えられるものなどない! 『それ』を抱くのはルシィナが最初だ!」
ギボールは我が子から顔を背けたまま、ふたたび医長に向き合った。
「ルシィナが目を覚ますまで、おれはここにいる。今度ばかりは誰がなんと言おうと、けっして動かん!」
「……かしこまりました」
医長はカドーシュに目を向け、小さくうなずくのを確認してから答えた。そのカドーシュは公子をふたたび女官長に託すと、ともに部屋を出ていった。
それから半日──朝を迎えるとともに、公子誕生の一報は城内から公府に、そして国内に早馬で布告された。各地で鐘が鳴らされ、多くの国民は後嗣誕生に沸き立つ一方で、同時に報じられた公妃の重篤な状態に心を痛めていた。
カドーシュが女官長とオルディネとともに戻ってきたのは、日が天頂を過ぎたころだった。寝台のまわりでは医師たちが忙しなく動いており、ギボールはやや離れた場所に座って、その様子を真剣な表情で見守っていた。
「閣下、お飲み物をお持ちしました。お口に入れてください」
「………」
オルディネの持つ盆から湯気の立つカップを取って差し出すが、ギボールは身じろぎもせず、寝台へと向けた視線を外そうとはしなかった。その姿はまばたきすら惜しむほどで、どんな小さな変化も見落とさないようにしているようだった。
「閣下」
もう一度、声をかけ、カドーシュはカップを下げさせた。それからギボールのとなりに立つと、彼もまた無言で寝台を見つめ続けた。
寝台の周囲で聞こえる医師たちの忙しない声と息遣いが響くだけ、室内が重い空気に包まれたまま、日が沈み、月が高く上ったころ、止まったままの空間にかすかな動きが起こった。
「公妃さま!?」
その言葉に、ギボールが思わず立ち上がる。寝台に走り寄ると、それを囲む医師たちを押しのけて、妃の顔を覗き込んだ。
「ルシィナ!」
「………」
わずかに目を開け、ギボールを確認したルシィナが力なく微笑む。かすかに口を動かしたが、声にはならなかった。
「ルシィナ、よかった……」
ギボールが目を潤ませ、呟く。手を差し伸ばそうとした途端、その膝が崩れた。
「閣下!」
カドーシュが背後から主君の体を抱きとめる。支えられながら、ギボールは立ち上がろうとしたが、脚に力が入らないのか、その場にしゃがみこんだ。
「閣下、どうかお休みください」
「大丈夫だ……」
そう言いつつも立ち上がれないギボールに、助手のひとりが背後から椅子を差し出す。
「ああ、すまんな」
そう言って、カドーシュに助けられながら椅子に腰を落とし、ギボールは改めてルシィナの顔を見た。その目はふたたび閉じられていたが、苦しそうだった表情は幾分やわらいでいるようだった。大きく安堵の息をつく主君に、医師たちが口々に言う。
「閣下、公妃さまはわたしたちにお任せください」
「意識が戻られたのです。もう大丈夫です」
「閣下がお倒れになっては、公妃さまがお目覚めになったとき、悲しまれます」
「ありがとう。だが、もう少し、ここにいさせてくれ」
ギボールはその後、少し離れた椅子に戻り、見守り続けた。朝を迎えたとき、いつしか座ったまま意識を失っている主君を、数人がかりでソファに横たわらせる。ルシィナはふたたび眠りについたままだったが、カドーシュの指示で、医師たちも交代で休息を取ることとなった。
張り詰めた時間と空間が人心地つき、それぞれの表情にも安堵の感が浮かんできたときである。
ギボール──
「──っ!」
あるとき、ギボールが弾けるように跳ね起きた。すでに日は沈み、窓の外には月が高く浮かんでいた。
「閣下、どうなさいました」
かたわらの椅子にすわって書類に目を走らせていたカドーシュが語りかける。その表情は相変わらず沈着で、疲労の色ひとつ見えなかった。
「今、誰かに……いや、何でもない」
ギボールは窓の外が暗いのを確認し、自身が眠っていたことを悟った。
「おれは眠っていたのか」
「ほぼ一日、お休みでした」
「ルシィナは?」
「お眠りになったままです」
「そうか……」
ギボールが立ち上がろうとしたとき、その腹が派手に鳴り響いた。途端、赤面する主君に対し、室内にいた人間たちはカドーシュ以外、みなが視線を外し、聞こえないふりをした。
「まずはお食事をお持ちします。そのあとはどうか、きちんとお体を休めてください」
「だが……」
「公妃さまのご容態は随時、お知らせいたします。外廷のお部屋が遠いようでしたら、隣室をお使いください」
「わかった」
ほどなく女官が運んできた食事を平らげ、ギボールは名残惜しそうにルシィナの寝室をあとにした。その後、カドーシュの勧めで湯浴みをし、隣室で体を横たえた。
それからのギボールは内廷のみずからの寝室で執務をこなしながら、ルシィナの容態を見守った。その間、カドーシュは何度も「我が子」との対面を諭したが、「父親」はけっして首を縦に振らなかった。
かたや、ルシィナはほぼ昏睡状態が続いていた。たまにかすかに目を開け、不明瞭ながら意識が戻ったときは、ギボールは隣室からすぐに駆けつけ、何度もその名を呼びかけた。
そして公子誕生から一週間、サンダルフォン王国暦634年が終わるという朝、ギボールは目覚めると、いつものように、まずルシィナのもとを訪れた。顔を見つめていたあるとき、不意にその目が開いた。
「ルシィナ?!」
ギボールが思わず声を上げる。寝台のそばに侍っていた女官が、誰かを呼びに行ったのだろう、急ぎ部屋を出ていった。
「……閣下」
ルシィナが弱弱しくも微笑みながら差し出した手を、ギボールが両手で握りしめる。
「……お子は」
「あ、ああ、すぐに連れてこさせよう」
ギボールが振り向くと、さきほどの女官が女官長を連れて戻ってきた。そのあと、ギボールが指示すより早く、オルディネが絹布に包まれた赤子を抱いて現れた。そのまま寝台まで歩み寄ると、ルシィナの隣にそっと寝かせた。
「男の子だ。おまえが命がけで産んでくれたんだ。ありがとう」
ルシィナはふたたび微笑んで、我が子の顔にそっと触れた。
「閣下」
「どうした?」
「どうか、この子をお願いいたします」
「わかっている。だが、おれたちふたりの子だ。ふたりで見守るんだ」
「………」
その言葉に、ルシィナは微笑んだが、何も応えなかった。
「閣下、お願いがございます」
「なんだ? なんでも言ってくれ」
「風に当たりとうございます」
「わかった」
ギボールがルシィナを掛布ごと優しく抱き上げる。その軽さを痛々しく思いながら、露台へと足を運んだ。そこからは内廷の庭園と、遠くに城下が一望できた。ふたりのうしろからは、オルディネが公子を抱いて従っていた。
籐で編まれた、ゆったりとした椅子にルシィナを座らせると、ギボールはオルディネから我が子を初めて受け取り、膝を折ってルシィナの目線に差し出した。かたや、オルディネは静かに室内に退き、母たちと遠目にふたりを見守った。
「そうだ。名前を付けてやらないとな」
「ラディート……」
「ラディート?」
「わたくしの故国に伝わる神の名です。人々を導き、そして──」
言いかけて、ルシィナが小さく咳き込んだ。ギボールが我が子を隣の椅子に置き、慌ててルシィナの背をさする。
「大丈夫か? 寒くないか?」
「ありがとうございます」
「ラディート──いい名だ。おまえが望むなら、そうしよう」
見つめ合い、微笑みを交わす。そのとき、冬の風がふたりのあいだを吹き抜け、ルシィナの体がかすかに震えた。
「風が出てきた。もう戻ろう」
「もう少し、このまま」
「だが……」
「もう少しだけ、見ておきたいのです。あなたが愛された、この国を」
ルシィナが遠くに目をやる。その姿を見つめていたギボールが不意にもよおした。
「すまん、しばらく外させてくれ。そうだ、温かい飲み物も持ってこよう」
「ギボールさま」
ギボールが踵を返したとき、背後からささやくような声で呼び止められた。振り向くと、ルシィナが穏やかに微笑んでいる。その容貌は朝日に照らされ、共に過ごしたこの九か月間でもっとも美しく、そしてどこか寂しそうだった。
「待っています」
「ああ、すぐに戻る」
ギボールが退室するのを目で追ったあと、ルシィナは我が子に視線を移した。
「ラディート……ごめんなさい」
その目からひとすじの涙が流れ落ちる。
「あなたを抱いてあげることも、見守っていくこともできない母さまを、どうか赦してちょうだい」
ルシィナが手を伸ばそうとしたとき、不意にラディートが目を開き、母をじっと見つめた。涙に濡れた蒼瞳と、「同じ」色の瞳の視線が交差する。
「あの方を……お父さまを、お願い──」
ひとつ息が吐かれ、伸ばした手が落ち、静かに目が閉じられ、そしてゆっくりと頭が傾いた。
ややあって、ギボールが、みずからカップが載った盆を持って戻り、扉を開けた瞬間、露台から一陣の風が吹き抜けた。思わず目を細め、しばし立ちすくむ。ふたたび目を開くと、ルシィナが椅子の背にもたれかかって「眠っている」姿が見えた。
「ルシィナ、こんなところで寝ては体が冷えるぞ」
ギボールが歩み寄る。盆をかたわらの卓上に置き、ルシィナの体に掛布を掛けなおそうと、その顔を見た。
「ルシィナ」
ギボールがふたたび呼びかける。そのとき、彼女の頬にある涙のあとに気づいた。
「ルシィナ……?」
ギボールの表情が一瞬で強張り、全身に冷たいものが走る。もう一度呼びかけ、ルシィナの肩をゆすった。途端、その体が力なくギボールの胸にもたれかかった。
「……こんな、こんなこと……ルシィナ、目を開けろ、ルシィナ、ルシィナ──!」
動かない妃を抱きしめたまま、ギボールの慟哭が部屋中に、そして内廷中に響く。室内にいた女官長やオルディネたちも露台に駆けつけ、驚愕と悲痛の表情を浮かべる。そのとき、椅子に置かれていたラディートが、突然、火がついたように泣き出した。
「おまえが──」
ギボールの瞳が怒りとも憎しみともつかぬ色に染められ、我が子に向けられる。ルシィナの体を椅子の背にもたせかけると、ラディートの小さな体を両手で荒々しくつかみ、勢いよく振り上げた。
「おまえさえ、生まれなければ──」
「閣下!」
ちょうど医師たちと入ってきたカドーシュがギボールを羽交い絞めにし、オルディネが前方からその腰に抱きつく。周囲では女官や助手たちが悲鳴を上げていた。
「ギボールさま、お気を確かに! 公妃さまの前ですぞ!」
「!」
カドーシュの叫びにギボールの動きが一瞬、止まる。振り上げていた両腕がゆっくりと降ろされ、その隙にオルディネが公子を奪い取ると、素早くその場から距離を取った。
「閣下、公妃さまは──」
「………」
カドーシュがルシィナに目を向け、表情を曇らせる。かたやギボールは膝から崩れ落ちると、ルシィナの膝に顔をうずめ、いつまでも泣き続けた。




