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双顔

 ヴェニスティが目覚めたとき、すでに「夫」の姿はなかった。横になったまま、東の窓から差し込む朝日に眩しそうに目を向けると、アディールがカーテンを開けているのが見えた。

「お嬢さま、お目覚めでございますか」

 扉のそばに控えていた年若い侍女から、湯気の立つカップを載せた銀の盆を受け取ると、いつもと変わらぬ笑顔で近づき、差し出した。

「………」

 上体を起こし、無表情でカップを手にしたヴェニスティは、しかし突然、その中身をアディールの顔に向けてぶちまけた。

「きゃ──」

 思わず悲鳴を漏らしたのは、侍女である。アディールは笑みも崩さず、盆を持ったまま微動だにしなかった。その姿を冷たい目で一瞥し、ヴェニスティはカップを床に放り投げると、侍女に向かって叫ぶように告げた。

「湯浴みするわ。準備はできているでしょうね」

「は、はい!」

 ふたりが部屋を出たあと、残されたアディールは顔を拭うこともせず、口元に小さく笑みを浮かべていた。

 一方、城内では廷臣や、特に近衛兵たちがキディエルの結婚、しかも相手はプラキデの娘──彼女がカドーシュにご執心なのは誰もが知るところであり、それを承知で婿に入った心中を、興味本位と悪意を込めて噂していた。

「隊長?!」

 朝、近衛隊長の執務室の扉を開けて、思わず声を上げたのはトゥームである。

「なんだ。おれがここにいて不満か?」

 執務机で、相変わらず葡萄酒のグラスを片手に書類に目を通していたキディエルが、上目遣いに視線を送る。

「い、いえ。昨日、結婚なさったとお聞きしたので、しばらくはお休みになるのかと」

「そんな必要がどこにある。念のために伝えておくが、今までどおり近衛兵舎で寝泊まりする。これからも『隣同士』だ」

 不敵な笑みを見せられ、トゥームはそれ以上、何も言わなかった──つもりだったが、ふと思いつき、口を開いた。

「隊長、来週の非番に外出してもよろしいでしょうか。先日、部屋に来ていた友人の──」

「かまわん、好きにしろ」

 部下の言葉を遮り、キディエルが書類から目も離さず、無表情で応える。かたや、トゥームは素直に笑顔で礼を述べ、補佐官の机についた。

 その夜、勤務を終えたあと、トゥームの姿は内廷の入り口にあった。

「恐れ入りますが、これを姉──いえ、オルディネさんに渡していただけますか」

 通りかかった年配の女官に、おずおずと手紙を差し出す。

「あなた、オルディネさんの弟? ということは、女官長さまの息子さんね。待っていらっしゃい、すぐに呼んできてあげるわ」

 笑顔で手紙を受け取り、女官が足早に去ってからしばらく、母と姉はふたりで現れた。途端、トゥームの顔がほころぶ。

「母上、姉上、ご無沙汰しています」

「トゥーム、元気でしたか。補佐官に任じられたと聞きましたが、お役目はきちんと果たせていますか」

「はい、母上」

 母と息子が笑顔で語らうかたわら、オルディネは無表情で手紙の内容を確認していた。

「トゥーム」

「はい!」

 姉の冷たい視線と口調に、トゥームがとっさに背筋を正す。

「わたしは行きません」

「姉上、ジェシェウも姉上にお会いできるのを楽しみにしています。ぜひ──」

「今、ルシィナさまがどのようなお体か、知らぬわけではないでしょう。おそばを離れるわけにはいきません」

「オルディネ」

 背を向けようとしたオルディネを止めたのは、母であった。

「ルシィナさまを心配する気持ちはわかります。でも、お仕えしているのはあなたひとりではありません。まわりの人を信頼して、少し任せることも大切ですよ」

 オルディネの仕事ぶりや優秀さは誰もが認めるところではあったが、同時に単独行動が目立ち、他人に頼らない・任せないことでも有名だった。

「しかし……」

「では、女官長として命じます。休みを頂いて、たまには城の外の空気を吸っていらっしゃい」

「……わかりました」

 本気とも冗談ともつかぬ母の「命令」に、渋々という様子ではあったが、オルディネはやはり無表情で承諾し、トゥームはようやく安堵の表情を見せた。

 翌週の昼前、オルディネとトゥームは城の馬を借り、ジェシェウの待つ邸に赴いた。

「ここは……」

「姉上、トゥルスさまをご存じなのですか」

「以前──」

「オルディネさん、トゥーム!」

 門の前で、ふたりの姿を認めたジェシェウが腕を大きく振る。先に馬を降りたトゥームが友人のもとに駆けつけ、抱き合った。

「ふたりとも、よく来てくれたね。オルディネさん、ご無沙汰しています」

「ジェシェウ、背が伸びましたね」

 弟には見せないような微笑みを、オルディネがジェシェウに向けた。その言葉に、ジェシェウが少し照れたような表情を見せる。きょうだいのいない彼にとって、オルディネははじめて接した年上の「女性」だったのだ。

 館に入り、食堂に向かった三人が入室すると、主人夫妻、そして母に促された娘が、わざわざ扉まで足を運び、出迎えた。

「本日はお招きいただき、まことにありがとうございます」

 トゥームが言い、オルディネとともに深く頭を下げる。対して、主人は笑顔で両手を広げて歓迎した。

「トゥームくん、いや、トゥームでよいかな。ジェシェウの友人なら、我々にとっても大事な客人だ。くつろいでくれたまえ。おや、きみは──」

 ふたりが頭を上げると、トゥルスと妻のフィリアが目を見張った。

「きみがジェシェウの友人の姉君とは。クレアの承認式では世話になったね」

「恐れ多いことです」

 オルディネが目礼する。そのとき、自分を見つめる少女に気づき、優しく微笑みかけた。途端、クレアの頬が薄く染まり、母親の陰に隠れてしまい、フィリアを苦笑させていた。

 その後、昼食の卓に着き、歓談はなごやかに進んだ。トゥームとジェシェウがたがいの子供時代の逸話を披露し、主人夫妻はときおり笑い声を上げながら楽しそうに聞いていた。一方で、オルディネは自分から語りかけることはなく、フィリアの問いかけなどには礼節をもって応じていたが、あるとき、トゥルスがふと思い出したように話しかけた。

「そういえば、きみたちのお父上はあのイリューム卿だそうだね」

 瞬時にして、オルディネの表情が強張る。気づいたトゥームが取り繕うように、慌てて口を挟んだ。

「姉もぼくも、父のことはあまり覚えていないんです」

「そうか。それは失礼なことを訊いてしまったね」

「いえ、どうかお気になさらず」

 トゥームが言い、ちらりと姉に目を向ける。しかし、オルディネはすでに「よそ行きの顔」に戻っていた。

 やがて、食事も終わり、最初にオルディネが立ち上がろうとしたとき、それまで「はい」か「いいえ」しか答えなかったクレアが、唐突に口を開いた。

「お父さま、お母さま、オルディネさまをお庭にご案内してもよろしいでしょうか」

 驚いたのは両親である。娘が自分から何かを求めることなど、これまでついぞなかったのだ。承認式のときと同様に、トゥルスとフィリアが顔を見合わせる。

「え、えぇ、オルディネさんさえよろしければ」

「奥方さま、わたくしはかまいません」

「オルディネさま、参りましょう」

 クレアがうれしそうに席を立ち、オルディネがそのあとに続く。その後ろ姿を、両親は複雑な表情で見つめていた。

 庭園では、侍女たちを遠ざけ、クレアとオルディネはふたりで散策した。特に語らうこともなく、オルディネは花々を、クレアはややうつむきながら、そのオルディネをちらちらと見ていた。晴天のもと、しかし秋の風はときおり冷たく、あるときクレアの体が小さく身震いした。それに気づいたオルディネが、クレアの肩をそっと抱き寄せた。

「オルディネさま……」

 クレアがオルディネの顔をじっと見上げる。

「はい? クレアさま」

「どうか、クレアとお呼びください。わたくし……」

「では、わたくしのこともオルディネと」

「それはいけませんわ。それでは、あの……『お姉さま』とお呼びしてもよろしいでしょうか」

 顔をかすかに背け、照れたようにささやくクレアに、オルディネはその頬にそっと手を添えた。

「もちろん、かまいませんよ。クレア」

 オルディネに間近で微笑みかけられ、クレアが、花が咲いたような笑顔を見せる。これまで、すべてが満ち足りていたはずの少女が、初めて「喜び」を感じた瞬間だった。その「想い」が、のちにみずからの人生を思わぬ方向に導くとは知る由もなく。

 日暮れ前、主人一家とジェシェウに館の玄関まで見送られ、オルディネとトゥームは帰路についた。帰城し、ふたりで廊下を歩いていたときである。

「あ、隊長」

 向こうから歩いてくるキディエルの姿を認め、トゥームは足を止めた。

「ただいま戻りました。外出許可をありがとうございました」

 頭を下げるトゥームではなく、キディエルはその隣に立つオルディネを見つめていた。

「姉です」

「では、公妃さまの女官をなさっているという。近衛隊長のキディエルです。お見知りおきを」

 女性にしか見せない微笑みを浮かべ、キディエルがオルディネの手を取ろうとする。が、その直前、オルディネは差し伸ばされた手を払いのけ、あからさまな嫌悪と侮蔑の目を向けた。

「トゥーム、お役目に励みなさい」

「は、はい!」

 そう言って、オルディネは男ふたりを残し、足早にその場をあとにした。その背を見つめるキディエルに、トゥームがさっきよりも深く頭を下げる。

「も、申し訳ありません、隊長。姉は──」

「なるほど。不埒な男どもを焼き殺すという『炎の女神』の異名は伊達ではないようだな」

 キディエルはむしろ楽しそうに言い、笑いながら去っていった。左右に遠ざかるふたりの後ろ姿を交互に見やりながら、トゥームは困惑した表情でしばし立ち尽くしていた。

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