暗流
およそひと月をかけ、服喪法は改変された。ただし、トシュラータとの相談や兼ね合いもあり、一年限りの特例法として成立することとなった。
そして、そのことで思わぬ影響を受ける者もあった。
「お父さま、どういうことですの。来月にも婚礼だなんて!」
ヴェニスティが厳しい表情で食ってかかる。お茶会で取り巻きたちから自身の婚礼の招待状が来たことを告げられ、すぐさま父親の部屋に駆け込んだのである。しかしプラキデは悠然と笑みを浮かべ、応えた。
「閣下がせっかく服喪期間を短縮してくださったのだ。早くわたしを安心させておくれ」
「わたくしにも心の準備がありますわ!」
「結婚しても何も変わらぬから安心するといい。キディエルどのは我が家の婿に入るゆえ、おまえは今のままこの邸で暮らすのだ」
「で、でも……」
自分が望むことはほぼ何でも叶えてくれたが、一方で父親が決めたことにはけっして逆らえないことを、ヴェニスティは昔から知っていた。
「最高の婚礼を催してやろう。おまえは自分の婚礼衣装でも決めるといい。金はいくらかかってもかまわぬ」
「………」
もはや抵抗のすべはないと悟ったヴェニスティは、無言で父親の前を退いた。
「お嬢さま、いかがでした。お館さまはなんと?」
廊下で待っていたアディールの問いかけに、ヴェニスティが無言で頭を振る。
「で、でも、お嬢さま、貴族にとって結婚と恋愛は別物だと言うではありませんか。あの方への想いをお諦めになる必要はありませんわ」
別館に戻りながら、アディールが主人の背後から慰めの言葉をかける。しかし、ヴェニスティは突然に足を止め、振り向いて睨みつけた。
「おまえは、わたくしがあの方以外の男に汚されてもいいというの?!」
「い、いえ、それは──」
「想像しただけでもおぞましいわ! ましてや、おまえの報告では、キディエルという男は宮廷でも有名な女好きの遊び人で、しかも母親は商人の娘だと言うじゃない。なぜ、わたくしがそんな卑しい男と──」
ヴェニスティはその場にしゃがみこんで、泣き崩れた。アディールが困惑していると、こちらに駆けてくる靴音が聞こえた。
「ヴェニスティさま、どうなさいました!」
「クイエテさま」
アディールが微かに表情をほころばせたのには目もくれず、クイエテはヴェニスティに手を伸ばし、その指先が紅い髪に触れた瞬間である。
「さわらないで、汚らわしい!」
その手は主人によって冷たくはじかれ、呆然とする「飼い犬」を睨みつけた。
「は、申し訳ありません!」
クイエテがとっさに膝を折り、頭を深く下げる。一方、ヴェニスティはそれには一瞥すらせず、何事もなかったように澄ました顔で立ち上がると、足早にその場を去っていった。
その夜、庭の草むらから別館を見上げるクイエテの背後に近づく者があった。その気配に、クイエテが素早く腰の剣を抜きはらい、向き直る。
「おまえは──」
「クイエテさま、あなたのお望みを叶えたくはございませんか」
アディールがいつになく真剣な表情で、唐突に語りかける。しかし、クイエテは小さく鼻で笑った。
「おまえがおれの何を知っているというのだ。よしんば知っていたとしても、何ができる」
「存じていますとも。あなたはお嬢さまを愛していらっしゃるのでしょう。でも、お嬢さまはもうすぐ結婚なさいます。愛しても、愛されてもいない男のものになるのです」
「きさま──」
クイエテが顔をゆがめる。アディールの挑発するような言葉も腹立たしかったが、それよりもおのれの立場もわきまえず、あるじの掌中の珠に恋慕していることが知られれば、「飼い犬」の命などその瞬間にもこの世から消え去るだろう。いや、むしろ「瞬間」に死ねれば幸運かもしれない──クイエテの剣を握る手に力がこもる。が、続いてアディールの口から発せられた言葉は、彼の想像の上を行くものだった。
「お嬢さまを抱かせてさしあげます」
「なんだと?」
今にも斬りかかりかねなかったクイエテの険しい表情が、途端、怪訝なものになる。口車に乗せて、自分を陥れるつもりではとも思った。ここでこの女の口を封じるのは簡単だが、同時にその意図を確かめたいという思いも浮かんでいた。
「で、きさまの見返りはなんだ」
「え?」
「見返りのない善意なぞ、おれは信じん。きさまもヴェニスティさまを裏切るのだ。命がけの見返りが要るのだろう?」
「わたしを抱いてください」
「なに?」
「お嬢さまより先に、わたしを」
「………」
アディールの顔が紅潮し、体が小さく震えるのを見て、クイエテの口元に冷たい笑みが浮かぶ。おもむろに剣を納め、腰から外して投げ落とすと、その手を差し伸ばした。
「きゃ──」
「声を出すな。きさまが望んだことだ」
アディールは腕をつかまれ、強引に地面に押し倒された。すぐに衣装を開かれ、体をまさぐられる。愛情の欠片はもちろん、優しさもまるでない行為だったが、それでもアディールは満足だった。「あの女」より先に、しかも好きな人に抱かれている、と。
行為を終えると、クイエテはアディールに手を貸すこともなく立ち上がり、みずからの衣装を整えて去っていった。残されたアディールは横たわったまま、夜空に浮かぶ月を見つめながら、声を殺して笑い続けた。
それからのヴェニスティはやけになっていた。ふたたび公府中の仕立て屋や宝石商を呼びつけると、最上の婚礼衣装を何着も作らせ、宝飾品を買いあさった。顔も見たことのない、しかも平民の血が混ざった男に対し、「格」の違いを見せつけてやろうという一種の意地でもあった。
かたや、周囲の人間にとっては、普段からわがままを絵に描いたような、けっして仕えやすい主人ではないが、いつにもまして荒れているヴェニスティに、侍女たちは腫れ物に触るようにしながら、早く「その日」が来ることを待ちわびていた。
いよいよ「その日」──婚礼の儀式が翌日に迫った夜、ヴェニスティは寝室の暖炉で燃える火をソファから睨みつけながら、なかなか床に就こうとしなかった。壁の時計が、日付が変わる鐘を鳴らすと同時に、アディールが控室から入ってきた。
「お嬢さま、そろそろお休みになりませんと、明日に差し支えます」
「眠りたくないのよ。目が覚めたら、その忌々しい明日になってしまうわ」
「それではお顔やご体調に良くありません。公国一の美しさと気高さを、卑賎な男に見せつけてやるのではないのですか」
そう言って、アディールが微笑みながら湯気の立つカップを差し出した。
「お気持ちも少しは和らぎますでしょう」
甘い匂いにも誘われ、ヴェニスティは無言で受け取り、何度か口に含んだ。それからややあってのことである。その体が微かに揺らぎ、ゆっくりと倒れ込んだ。
「………」
小さく寝息を立てる主人を、アディールはしばらく無表情で見つめていたが、やがて部屋を出た。そして彼女が戻ってきたときにはひとりではなかった。
館のあるじ以外、男子禁制の別館に現れたクイエテは、高鳴る鼓動を抑えながらヴェニスティに近づき、抱き上げて寝台に運んだ。ふたりの体が重さなるのを見届けたあと、アディールはやはり無表情で寝室を出た。そして、控室の床に仰向けになると、ふたたび声を殺して笑い続けた。
翌朝、アディールに声をかけられて目を覚ましたヴェニスティは不思議な痛みを感じていた。
「お嬢さま、よくお休みになれましたか?」
「いつのまにか眠ってしまったのね。なんだか、体が重いわ」
「湯浴みの支度ができております。ご気分も変わりますわ」
促され、寝台から離れたヴェニスティは、ふと自分の脚を見て、小さな悲鳴を上げた。
「アディール、血だわ。月のものには早いはずなのに、どうしたのかしら」
「お嬢さま、ご心配には及びません。ここのところお疲れでしたから、それが影響してのことでしょう。不定期な出血は、特に若い女性にはたまにあることです」
「そ、そうなのかしら。いやだわ、すぐに体を洗いたいわ」
「かしこまりました」
別館内の専用の浴室で体を清めたヴェニスティは、本館に渡り、不機嫌な表情のまま父親と朝食の卓についた。プラキデからは機嫌を取るかのように何某かを話しかけられたが、それが耳に届くこともなければ、また応えることもなく、砂を嚙むような食事を済ませた。その後、別館へ戻ってから、念入りに化粧を施されるときも、贅を極めた豪奢な婚礼衣装をまとわされるときも、無表情のままいっさい口を開かなかった。侍女たちにとってはそれが逆に不気味で、気に入らないことがあれば、即、周囲に当たり散らすいつもの主人のほうがまだ扱いやすいとささやいていた。
「天空の女神も顔負けの美しさですわ、お嬢さま」
ただひとり、アディールだけが笑顔で話しかけたが、ヴェニスティは一瞥しただけで、やはり何も応えなかった。
アディールを筆頭に多くの侍女を従えながら婚儀の場である広間へと向かい、扉の外で待っていた父親とともに入ると、あふれんばかりの客人たちから一斉に視線を浴びた。しかし彼女にとっては、その視線は祝賀のものではなく、主役の不幸を見物にきた好奇の目のように思えた。だが、この「女王」は自分の不幸を認めることも、他人に弱みを見せることもみずからに許すわけにはいかなかった──なぜなら、「わたくし」は常に誰よりも美しく、誇り高く、そして高みに居なければならないのだから。
胸を張り、背筋を伸ばし、口元には笑みさえ浮かべて客たちの中を進んだ。そして、初めて顔を合わせた「夫」に対して彼女がしたことは、ベールの下から侮蔑と憎悪をもって睨みつけることだった。
儀礼どおり、神官の前で結婚承諾書にそれぞれが署名し、たがいの左手の薬指に指輪をはめた。途端、拍手と歓声が沸き起こる。その後、「夫」が「妻」のベールをめくり、口づけを交わすはずであった。が、ヴェニスティは「夫」から顔を背けるように観衆に向き直ると、みずからベールをめくり、放り投げた。そして優雅に微笑みながら、ひとりで客人たちの中へと分け入っていったのである。
盛大な祝賀の宴は夕方まで続き、その間、「妻」は「夫」とはいっさい顔を合わせることも、口を利くこともなく、美しく気高く主役の座をやり遂げた。
「汚らわしい!」
宴が終わり、別館の自室に戻るやいなや、ヴェニスティは結婚指輪を床に投げ捨て、忌々しそうに叫んだ。それを侍女のひとりが慌てて拾い、侍女頭のアディールに渡す。
「すぐに入浴するわ。体中にお酒の匂いが染みついているようだわ。ああもう、早く脱がしてちょうだい」
婚礼衣装や宝飾品を侍女たちが急いで外し、ヴェニスティは肌着にガウンを羽織っただけで足早に浴室に向かった。
髪の先から手足の指先まで体中を念入りに洗わせ、温かい湯に浸かり、やや落ち着いた心持ちで寝室へ入ったものの、その途端、ふたたび叫んだ。
「なぜ、この男がここにいるの!」
ヴェニスティが見たものは、自分の寝台に腰かけ、不敵に笑うキディエルの姿だった。
「なぜ、とはご挨拶だな。婚礼の夜に夫が妻の寝室にいて、なんら不思議ではないだろう」
「誰がこの男を通したの!」
キディエルの軽口には耳を貸さず、ヴェニスティは侍女たちを睨みつけた。
「わたくしです」
「アディール、どういうこと?! とにかく、早く追い出して!」
「できません。お館さまのご命令です」
「なんですって、お父さまの?」
アディールが小さく頷き、侍女たちに退室するよう片手で合図した。そしてみずからも一礼したのち出ていった。
「待ちなさい、アディール。鍵をかけたのね、ここを開けなさい!」
扉に駆け寄り、激しく叩くヴェニスティが不意に背後に気配を感じ、振り向くと、キディエルが立っていた。
「きゃ──」
突然、ヴェニスティの体は担ぎ上げられ、荷物のように運ばれると、寝台に放り投げられた。すぐに上体を起こそうとしたが、それより早くキディエルに組み敷かれる。
「放しなさい、汚らわしい! お父さまに言いつけるわよ!」
「姦しい女だな。その『お父さま』のご命令だよ。嫌がる女を抱くのは趣味ではないが、おれも命が惜しいんでね」
「お父さまが?! う、嘘よ!」
「明日にでも自分で確かめてみるといい。とにかく、あんたはもうおれの妻だ。覚悟を決めるんだな」
「いやよ! 放しなさい、放して!」
「………」
キディエルはもう何も応えなかった。無表情というより、むしろ憐れむような目で見下ろしていた。それを見て、ヴェニスティもようやく逃れるすべがないことを悟った。
「……いいわ、抱きなさい。でも、これだけは覚えておくのね。体はおまえに汚されても、わたくしの心は永遠にあの方のもの。おまえのような卑賎な男、けっして夫となぞ認めない!」
「いいだろう」
小さく笑い、キディエルは無言で覆いかぶさった。




