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陰雨

 八月も半ばを過ぎると、ルシィナの体調も少しずつ安定し、ギボールや内廷で仕える女官長たちを安心させた。

 一方で、初夏の頃からサンダルフォン王国内で続く天候不順、特に長雨はラーディガストが誇る穀倉地帯の収穫にも少なからず影響を与えていた。公主として各地の長官や民からの訴えには随時、対応しつつも、公国内の民を数年間は食べさせられるだけの食糧は備蓄してあった。むしろ、ギボールの頭を悩ませていたのは、公国の外からの援助の申し出だった。国民を飢えさせないという、もっとも基本的な政治の「常道」を外す施政者は珍しくないが、それでいて常に困窮するのは生産者である民のほうである。

 トシュラータとも親書を通して度々相談はしていたが、食糧、つまりは民の命を危険にさらしてまで他国を助けることに、頑強に反対する者も少なくなかった。それは正論ではあるのだが、ギボールの性格上、誰かが飢えるのを黙って見逃すこともできず、外廷が混迷を深めるなか、いったんは落ち着きを見せていた内廷にもまた新たな嵐が起きようとしていた。

 誰もが納得する解決策も見つからないまま九月を迎え、その日も陰鬱な雨が続いていた夜のこと、政務を終え、カドーシュが淹れた熱い紅茶でひと息ついていたギボールのもとを訪れる者があった。

「閣下、このような時間にご無礼をお許しください。内々にお耳に入れたきことがございます」

「どうした。ルシィナに何かあったのか?」

 現れたのは長年、宮廷の筆頭医師を務める老齢の男で、懐妊がわかってから、ひそかにルシィナを診察していた。

「ルシィナさまからは、閣下にはご内密にと念を押されてはいたのですが……」

「どういうことだ」

「実はお体にご不調がございます。具体的に申し上げますと、腹部の張りや少量の出血も見られ──」

「この際、詳細は結構です。結論と、どのように対処すべきかを申し上げてください」

 カドーシュが口を挟む。ギボールが徐々に苛ついてきているのが見てとれたからである。

「月を待たず、お生まれになる可能性がございます。ルシィナさまのお体にとっては、むしろそのほうがよろしいかとも思われますが、ただ、その際、難しい点が……」

「難しい? どういう意味だ」

「母子ともにお命の危険があるということでございます」

「なんだと?!」

 ギボールが思わず立ち上がる。医師が続けて何かを言おうとするのを待たず、部屋を飛び出し、内廷へ走った。

「ルシィナは!」

「閣下、ルシィナさまはもうお休みでございます」

 寝室の扉の前で出迎えたオルディネが冷徹に立ちはだかる。

「かまわん。急ぎだ」

「なりません。ルシィナさまのお体に障ります」

「どうしても話したいことがあるんだ」

「なりません」

「わたくしならかまいません」

 外の騒ぎを聞きつけた女主人が、寝着にショールを羽織った姿で部屋から現れた。政務のごたごたでしばらく顔を合わすこともできぬうち、もとより華奢な肢体はさらにか細くなったようだった。

「閣下、オルディネの行為はわたくしの体を慮ってのことにございます。どうかご寛恕いただきますよう」

 ルシィナが膝を折ろうとするのを、ギボールより先にオルディネが走り寄ってとどめ、直後、公主に対して射るような視線を向ける。そのとき、医師とともに駆けつけたカドーシュが「閣下」とひと言、小さな声で主人を諫めた。

「すまん。無理を言った」

「このような姿ではございますが、どうぞ中へ」

 ギボールとルシィナはともに部屋へ入り、人払いをしたうえで、ソファに並んで座った。

「わたくしの体のことをお聞きになったのですね」

 ルシィナが微苦笑を浮かべ、膝に置かれたギボールの手に自分のそれを重ねる。

「なぜ言わなかったんだ」

「今、外廷のみならず、ラーディガストの国内外がどのような状況かは存じております。閣下のご心労をこれ以上、重ねることはできませんでした」

「何を言う。おまえとおれの子のことだ。知らないままで済むはずがないだろう」

「閣下はトシュラータでのあの夜、おっしゃいました。公主となる道を選んだ以上、まず守らなければならないのは民だと」

「だが、こうも言ったはずだ。おまえのこともかならず守る、と」

「はい。嬉しゅうございました」

 ルシィナが優しく微笑む。その美しい微笑みさえ以前より弱々しく見え、ギボールの不安を増大させた。

「閣下」

「なんだ?」

「わたくしとこの子の存在が、もし閣下の、公主としてのお立場の差し障りになることがあるならば、どうかわたくしたちを放逐なさってください。そして、ご両親さまの喪が明け次第、新たな──」

「ばかなことを言うな!」

 ギボールが思わず立ち上がる。顔はこれまでになく険しく、その拳は小刻みに震えていた。だが、ルシィナは穏やかな表情のまま、続けた。

「閣下のご温情を賜ったうえ、お子まで身ごもり、わたくしは幸せでございました。閣下は悲しい思いはさせないとおっしゃってくださった。それはわたくしも同じ思いなのでございます」

「悲しい思いをさせたくないと言うなら、なおさらどこへも行くな。もうおれに、おまえを手放すことなどできるはずがないだろう!」

 ギボールが腰を落としてルシィナを抱きしめる。両親を失ったあの夜と同じであったが、ひとつ違ったのは、ルシィナはギボールの背に手を回さなかった。

「おまえも子も、かならず守る。たとえ──」

「閣下」

 ルシィナがギボールから体を離し、その口にそっと手を当てる。続く言葉──国を捨てても──それは、いったん覚悟と責任を負った人間がけっして言ってはならない「禁句」であった。

「わたくしは大丈夫です。かならず無事にお子をご覧いただきます」

「ルシィナ、おれは──」

「さあ、もうお戻りください。明日からもお忙しい御身です」

 静かな言葉と微笑みのなかにも抗えないものを感じ、ギボールは何も言えなかった。見送るというルシィナをその場に押しとどめ、カドーシュとともに内廷をあとにした。

 執務室の奥にある寝室に入ると、ギボールは体を投げ出すようにソファに腰を落とした。ややあって、顔を下に向けたまま、無表情で立つカドーシュに対して口を開いた。

「カドーシュ」

「はい」

「ルシィナに言われた。自分たちを捨てろ、と」

「はい」

「できないと言った。そんなことをするくらいなら、国を、と言いかけて止められた」

「はい」

「おまえの言うとおり、おれは欲張りだったのか。公主として生きる道を選びながら、同時に愛する者と生きたいと思った」

「閣下」

 カドーシュはギボールの問いには答えず、別のことを口にした。

「かつて、わたしはあなたに『決断の時です』と申し上げました。しかし、生きるとは常に『選択』の連続です」

「あのときの『選択』を後悔したことはない。ルシィナのこともそうだ。だが、おれの『選択』により、誰かが苦しむのは、もう──」

 ギボールの脳裏に、みずから命を絶ったふたりの男のことがよみがえった。

「わたしはこうも申し上げたことがあります。物事には常に表と裏がある、片方から見れば善でも、別の側から見れば悪にもなる。むしろ、それを恐れて、何もしないことこそが最悪の『選択』だ、と」

「そうだったな」

「もうひとつ、申し上げたことを覚えておいでですか?」

「ああ」

 ギボールがようやく顔を上げた。

「誤りに気づいたときは改めればいい。取り返しのつかないことなど、そうはない、と」

「はい」

 カドーシュが微笑みかけ、ギボールの表情もわずかながらほころんだ。

「そうでした。トゥルス卿から謁見のお申し出がございました。明朝、お越しになります」

「わかった」

「それから、差し出がましいかとは存じますが、これからはもっと内廷に足をお運びください。時間はお作りいたします」

「ああ、そうしよう」

「それから──」

「まだあるのか」

「あなたのお子はかならずお守りいたします」

 カドーシュの緑瞳に揺るぎない決意と力がこもった。かつての「決断」の直前、自分に対し生涯の忠誠を誓ったときと同じだと、ギボールは思った。

「ああ、信じている」

 小さく笑い、ギボールもまた全幅の信頼を置いて、それに応えるのだった。

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