萌芽
太公夫妻の葬礼から、ひと月半が過ぎた。
ギボールは自室で倒れてから丸一日、眠ったのち、翌日の夕刻に目覚めると、まず内廷のルシィナのもとに赴いた。婚礼を延期することを告げたとき、ルシィナはただ微笑み、ギボールの手を両手で優しく包み込んだのだった。
その後も不意にあふれ出す悲しみを押し殺してか、元来、少年のように感情豊かな公主から消えていた表情も、七月に入るころには徐々に戻ってきていた。周囲の者もようやく安堵し始めた、そんなある夜、主君の執務室から出てきたカドーシュを、オルディネが控えの間で待っていた。
「カドーシュさま、ルシィナさまが内密にお話ししたいことがあるとのことです」
ふたたび、ひとりで内廷に呼ばれたカドーシュは、ルシィナと女官長が待つ部屋に通された。
「カドーシュさま、単刀直入に申し上げます」
口を開いたのは女官長のアエテルネ夫人だった。
「ルシィナさまがご懐妊と思われます」
カドーシュは何も言わなかった。続けて、母の言葉のあとをオルディネが継いだ。ルシィナのもっとも近くに仕える彼女によると、葬礼からひと月ほど経ったとき、主君の体に変調が始まったという。まずはここ三か月ほどの疲労を疑ったが、やがて月のものも遅れていると告げられ、内々に母に相談したのである。
「まず、間違いないでしょう」
事情をひととおり聞き、医薬の心得もあるカドーシュが断言する。しかし、その場の誰もが深刻な表情のまま、喜びや祝いの言葉が出ることはなかった。
「カドーシュ卿、この国の『掟』は伺っております。わたくしのことで、また閣下のお心を煩わせることになり、まことに申し訳なく──」
「ルシィナさまが気に病まれることではございません」
カドーシュがルシィナに微笑みかける。そして、その表情を崩さぬまま、おもむろに立ち上がった。
「閣下にはわたしからお伝えいたします。ご承知のこととは思いますが、この件はくれぐれも他言無用に願います」
女官長とオルディネが黙ってうなずく。その足でふたたび主君の部屋を訪ねたカドーシュは、寝台で横になろうとしていたギボールに、やはり単刀直入に告げた。
「懐妊?!」
寝台から跳び出したギボールが驚愕の声を上げる。当然の反応を前に、カドーシュは顔色ひとつ変えるどころか、むしろそれは冷淡ともいえるものだった。
「驚かれることはないでしょう。あなたがなさったことの『結果』なのですから」
「………」
「ただ、当然、ご存じですよね。この国というより、公主一族の『掟』は」
ギボールが肩を落とす。新たな命が宿ったという、本来なら欣喜雀躍すべき事柄に、誰も素直に喜べないのには理由があった──正式な婚姻前に誕生した子は、嫡子として認められず、公主一族としての一切の権利を有さないという「掟」ゆえに、である。
「太公ご夫妻のご逝去により、こののち一年は婚礼ができません」
「………」
「閣下、どうなさいます?」
「どうもこうも、おれとルシィナの子だ。かならず無事に産めるように、あらゆる手を尽くすだけだ」
「そのあとは?」
「そのあと?」
「あなたにおできになりますか? お子を望まれぬ存在として、否定することが」
「できるわけないだろ!」
決まりきった答に、カドーシュはやはり無表情で主君を見つめる。しばしの沈黙のあと、ふたたび口を開いた。
「閣下、この件をトゥルス卿のお耳に入れることをお許しいただけますか」
「トゥルスに?」
「トゥルス卿は忠誠心も厚く、信頼できる御仁です。法務大臣として、ご助言いただけるかもしれません」
トゥルスは平民出身ではあったが、貴族の娘と結婚し、婿に入ることで貴族となった四十代の男である。その岳父もまた法務大臣を任され、法だけでなく社会全般に対する博識さや公正な判断により「法聖」とまで呼ばれた人物であった。
「わかった。明日にでも呼んでくれ」
「かしこまりました。ですが、そのまえに──」
「わかっている」
ギボールは急ぎ寝着から着替え、カドーシュとともに内廷に向かった。幸い、ルシィナはまだ床には就いていなかったが、突然の来訪に慌てて身支度を整えようとするのをギボールがとどめ、ひと言だけ告げた。
「けっして悲しい思いはさせない」
決意ある表情と言葉に、ルシィナは穏やかに微笑み、小さく頷いたのである。
その翌朝、登城したトゥルスは、みずからの執務室に入るやいなや、公主に召し出された。すぐにギボールのもとに参上し、カドーシュを含めた三人でのごく短い話し合いのあと、ややこわばった表情で退室したトゥルスは、その日、いつもどおり執務をこなし、夕刻、帰路についた。
「お帰りなさいませ」
公府内の邸の玄関で、妻のフィリアと家令のラウデムが出迎える。
「ジェシェウさんが到着されましたよ。今、客間でお待ちいただいております」
フィリアの言葉に、トゥルスのかたい表情がほころぶ。外衣を脱ぎ、その足で客間に向かった。
「お館さま」
トゥルスの登場に、ジェシェウが立ち上がり、栗色の頭を深く下げた。
「ジェシェウ。この際、呼び捨てにさせてもらうよ。よく来てくれたね」
「このたびは、もったいなくも後見役をお引き受けいただき、幸甚の至りでございます。なにとぞ、ご指導ご鞭撻のほどを──」
「まあ、かたい挨拶は抜きにしよう。聞いているとは思うが、きみの父上とは旧知の仲なのだよ。それで、ご両親はお元気かな」
「はい。おかげをもちまして」
ジェシェウが顔を上げ、髪と同じ色の瞳でトゥルスをまっすぐに見る。端正なだけでなく、大切に育てられたであろう柔和な顔つきと、学舎で首席を譲ったことがないという、まだ十六歳ながら将来を嘱望されるに足る凛とした表情は、トゥルスに好感を抱かせるのに十分だった。
「それはなにより。旅の疲れもあるだろう。まずは夕食としよう。家族を紹介するよ」
「はい」
ジェシェウはトゥルスとともに食堂に入った。そこには何人もの使用人に囲まれた豪華な食卓と、その傍らに、ふたりともに銀色の髪と紫の瞳を持つ美しい貴婦人と少女が立っていた。
「妻のフィリアと娘のクレア、そして家令のラウデムだ」
「ジェシェウと申します。本日よりお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
「ジェシェウさん、ようこそ。これからはご自分の家と思って過ごしてくださいね」
フィリアが優しく微笑みかける。かたや、その隣に立つクレアは、礼儀だけは完璧に腰を折ったものの、その瞳からは何の感情も読み取れなかった。
食事が始まっても、ジェシェウの緊張をほぐそうと、絶えず話しかけてくれる主人夫妻とは対照的に、クレアは無表情・無言のまま、両親に話を振られたときだけ、小さく「はい」か「いいえ」と答えるだけ。また、食事も小鳥のように少食で、ついには途中で席を立つありさまだった。
「ジェシェウさん、ごめんなさいね」
フィリアが気遣わしげに言葉をかける。
「クレアは体が弱く、屋敷からもほとんど出たことがないため、人見知りのところがあるのです。不快な思いをさせてしまったかしら」
「いえ、そんなことはございません」
ジェシェウが微笑みで返す。クレアの様子にかすかな違和感を覚えたことも事実だが、主人夫妻に温かく迎え入れられたことには感謝しているし、ある日突然、見知らぬ男が家に来て、少女が動揺するのも仕方ないと思えるほどの寛容さは持ち合わせていた。
夕食後、ジェシェウは自分の部屋へ案内され、一方、主人夫妻は居間でくつろぎながら、語り合っていた。
「フィリア、どう思う?」
「いい子だと思います。わたくしは好きですよ」
「ラウデムは?」
「フィリアさまの仰せのとおりでございます」
フィリアのうしろに立つラウデムが表情も変えず、言葉を返す。トゥルスが「ふむ」と呟いて、その後、困惑の表情を浮かべた。
「それにしても、クレアのあの様子では……」
「まだ十二歳ですわ。社交界にも出れば、人付き合いにも少しずつ慣れていくでしょう」
「そうだな。まあ、結婚といっても、まだ先の話だし……」
大人たちが自分たちの将来を話しているとは夢にも思わず、子供たちは深い眠りについていた。




