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慟哭

 五月に入り、公府の城内は俄然、慌ただしくなった。

 それというのも、「旅立ちの門」の離城に滞在する太公夫妻から返信が届いたからである。そこには五月十五日に公府を訪れるとだけ記してあった。

 ルシィナの提案や女官長の指示のもと、内廷では迎え入れの準備に忙しい一方で、ギボールは平静を装いつつ、その件にはいっさい関わろうとしなかった。

 しかし日は経ち、十三日には早馬により、一行が三日前に離城を出立したとの報せがもたらされた。

 太公夫妻の訪問を控えた前夜、ギボールはなかなか寝付けなかった。日が変わり、東の空が薄く白み始めたころになって、ようやくまどろみかけたところを突然の雷鳴によって目を覚まされた。寝台を離れ、窓に近寄ってみたが、叩きつける雨で何も見えなかった。と、そのとき、不意に小さな震えが体を包んだ。

「………」

 なんとも表現しがたい、居心地の悪い気分をなだめるかのように、水を少しずつ口に含みながらソファにすわって過ごしていると、いつもの時間にカドーシュが姿を現した。

「閣下、お目覚めでしたか」

「ああ、雷の音で目が覚めた」

 ふたりが同時に窓に目をやる。雨はやむ気配を見せてはいなかった。

「なあ」

「はい」

「大丈夫なのか?」

「はい?」

「だから、今日、着くはずの──」

「太公ご夫妻ですか。そうですね、このまま雨が続くようでしたら、日程を変えていただいたほうが良いでしょうね」

「伝令を出すか」

「この状況では、こちらから早馬を出すのも危険かもしれません。あちらも出立のご判断はできるでしょうから、しばらく様子を見ることといたしましょう」

「……そうだな」

 普段なら、カドーシュの言葉には無条件に納得できるはずなのに、今回に限って、ギボールは先ほどから感じる一抹の不安を拭うことができなかった。

 太陽が東の地平に昇りきったころには、雨は小降りになっていた。到着予定の正午をまえに、緊張の度を増すギボールと笑顔のルシィナは、それぞれ馬と馬車で公府の城門まで赴き、太公夫妻の到着を待った。

 だが、正午を過ぎ、さらに二時間が過ぎても、一行の姿は見えなかった。何事かあったのか、こちらから人を遣るべきかとも話が出始めたなか、突如として彼らの前に現れたのは華やかな行列ではなく、一頭の早馬だった。

「閣下! ネツァー閣下に火急のお報せを!」

 転げ落ちるように下馬した騎士は泥だらけで、尋常ではないことは誰の目にも明らかだった。ギボールと馬車から降りたルシィナが、彼の前にすぐに姿を現した。

「閣下、このような姿で御前に拝しますこと──」

「挨拶はいい。何があった?!」

「太公さまのご一行が──」

 泣きながら話す伝令の騎士の言葉は聞こえたはずであった。しかし、ギボールにそれからの記憶はなかった。気づいたとき、彼は馬に飛び乗り、駆け出していた。

 公府から一、二時間ほどの場所に、「旅立ちの門」とつながる山間の街道がある。一行がそこを通ったとき、雨はほぼやんでいた。が、雨水を含んだ山肌は、いくつもの岩とともに轟音をあげて襲いかかったのだ。

 夕刻までに、ギボールと、彼を追ったカドーシュや近衛兵たちは、そこから近くの街にある領主の館に着いた。それは太公夫妻が前日に一夜を過ごした場所であった。迎え出た執事が急ぎ部屋に案内し、扉を開けたギボールが見たものは──

「閣下!」

 中に入ろうとしたギボールにひとりの初老の女性が駆け寄り、足元にひれ伏した。フィランジェリが幼少のころから仕える侍女頭である。ギボールが彼女から視線を移すと、寝台に横たわる女性の姿が目に入った。

「今少し、遅うございました……つい先ほど、息を──」

「………」

「同乗なさっていたフィールさまが太公さまを庇われたおかげで、助け出されたとき、太公さまはまだ息がおありでした。でも、フィールさまはそのとき、すでに……」

「………」

「最後に、太公さまは最後に、あなたのご幼名と、それから、『ごめんなさい』と……」

 そこまで言って、侍女頭は泣き崩れた。室内では、この地で隠居する老齢の前領主が平伏し、出立をお止めすべきだったと泣いていた。それらの傍らをギボールはゆっくりと通り過ぎ、寝台に歩み寄った。

 初めて直視する「母親」の顔だった。拭き清められ、傷もほとんどなく、恐る恐る手を伸ばして触れてみても、まだぬくもりが残っていた。眠っているようにしか見えなかったが、二度とその目を開き、自分を見てくれることはないのだという「事実」が、彼の心を少しずつ侵食していった。

 突然、踵を返すと、ギボールは周囲の者を押しのけ、部屋を飛び出した。

 館の門近くで、馬で走り出ていくギボールと、ルシィナを乗せた馬車がすれ違った。

「閣下!」

 ルシィナが急ぎ馬車から降りたとき、ギボールをみずからも馬で追うカドーシュと居合わせた。

「カドーシュ卿、閣下は──」

「ルシィナさまは館でお待ちください。閣下はわたしにお任せを」

 馬上でそう告げ、カドーシュはふたたび馬を走らせた。その後ろ姿を見送るしかないルシィナの頭上に、ふたたび雨が落ちてきた。

 ギボールはあてどなく馬を走らせ、誰もいない森の開けた場所で馬を降りた。闇の度を増していく天を仰ぎ、顔に雨を受けながら、そして慟哭した。

「………」

 それをやや離れた場所から見守っていたカドーシュは、やがてギボールが声を枯らしたのを見届けたのち、音もなく歩み寄った。

「ギボールさま」

「カドーシュ……おれの、おれのせいだ。また、大切なものを、おれが──」

 ギボールがカドーシュにすがりつき、かすれた声でふたたび泣き叫んだ。その背をそっと抱きながら、カドーシュが呟く。

「わたしがおります。わたしが、わたしだけがずっと、あなたのなかに──」

 ふたりがびしょ濡れで館に戻ったのち、ギボールはカドーシュやまわりの強い勧めで湯浴みをした。ひとりで湯に浸かっていると、また自然に涙が出てきた。声を殺して泣いたあと、浴場を出て着替えをし、ふたたび母親のもとへ赴いた。

 室内には、着替えを済ませたカドーシュやさきほどの侍女頭、前領主をはじめ館の者が幾人かおり、ギボールを認めて頭を下げたが、それらの中でルシィナは寝台の傍らでうつむいたまま動かなかった。カドーシュの目配せによりルシィナ以外の全員と、最後にカドーシュがその場を退いたのち、ギボールがルシィナの背後に立ったときである。

「閣下──!」

 突然、ルシィナがギボールの足元にひれ伏した。

「閣下、わたくしはもうおそばにはいられません!」

「ル、ルシィナ?」

 ギボールが驚いて腰を落とし、ルシィナの震える肩に手を置く。しかし、ルシィナは顔を上げようとはしなかった。

「わたくしが、わたくしが閣下からご両親を奪ったのです。かけがえのないおふたりを、わたくしが差し出がましい真似をしたばかりに──」

「ルシィナ、それは──」

「わたくしは取り返しのつかない罪を犯しました。もうおそばにはいられません。どうか──」

「バカなことを言うな!」

 ギボールの一喝に、ルシィナがようやく顔を上げた。美しい顔は涙で濡れていた。

「おまえのせいじゃない。誰のせいでもない。いや、もし、誰かに咎があると言うのなら、それはおれだ。おれがもっと早く自分に正直になっていれば、こんなかたちで大切なものを失うことはなかったんだ!」

「閣下、何をおっしゃいます」

「だから、おまえまでいなくなるなんて言うな。これ以上、大切なものを失いたくないんだ。そばにいてくれ、ずっと」

 ギボールがルシィナを強く抱きしめた。震える背に、ルシィナがそっと手を回す。

「……おそばにいます、ずっと」

 ややあって、ギボールがルシィナをゆっくりと押し倒し、ルシィナはギボールに静かに体を預けた。

 その夜、物言わぬ母のそばで、男と女は初めて結ばれた。

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