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悔悟

 ラーディガストの「旅立ちの門」は、公府から早馬でおよそ二日の場所にあった。

 「旅立ちの門」とは、各領内にある神殿の本山のことである。さらに言えば、各地の本山を統べる大本山は、サンダルフォン王国の建国にも関わる聖地でもあった。

 その本山の近郊には公主一族の代々の墓所と離城があり、山々と田園に囲まれ、喧騒から離れたその地は、しばしば一族の静養や隠居の場にもなっていた。

 そして今も、先代公主──太公夫妻は退位後、この地で亡き息子を弔いながら、世俗とは一線を画した暮らしを送っていた。

「神官さま、太公ご夫妻がお越しでございます」

 春のその日、太公であるフィランジェリとその夫フィールはいつものとおり本山を訪れた。月に一度、オルファニムが亡くなった日、ふたりは神殿に足を運び、特に信頼する神官に祈ってもらうことを常としていた。

「神官さま、本日は少し話をしたいのですが、お時間を頂けますか?」

「むろんです。どうぞこちらへ」

 祈祷が終わったのち、壮齢の神官、ホミニスが笑顔で応接室へ案内する。彼は、もとは天涯孤独の貧しい平民であったが、あることをきっかけに神官となり、今や本山を統べる大神官の信頼も厚い、将来を嘱望される人物だった。

 夫は別室で待ち、フィランジェリのみを部屋に迎え入れる。神官見習いの少年によって熱い紅茶が運ばれ、ふたりきりになってのち、フィランジェリは口を開いた。

「──あの子が逝って、もう九年になります」

「そうですね」

「よい子でした。優しくて、賢くて、いつも周囲の人間を慮って……そう、わたしくの『理想』どおりに育ってくれました」

「………」

「わたくしに初めて『愛』をくれたあの子に……あの日、わたくしは『絶望』を与えてしまったのです」

 あの日──オルファニムと王族の姫との婚約を成立させるべく、ラーディガストに王都から勅使が来た日、そしてギボールが公太子として初めて城に上がったあの日、母親が亡き息子に与えたのは、これまで信じていたものへの「絶望」だった。

 「公太子」との婚約を申し合わせていたはずの勅使は、ギボールの登場に驚くと同時に怒りにも似た目を公主に向け、いわば恥をかかされたフィランジェリは、およそ母親とは思えない目でギボールを見やった。廷臣や招待されていた貴族たちはおのれの利害でギボールとオルファニムを値踏みし、あからさまな態度でそれを示した。

 そんななか、オルファニムだけはギボールとの邂逅を喜び、歓迎した。そして当然のように兄への、公太子への礼を尽くした。それが、母親に対する「裏切り」になるとは夢にも思わずに。

 夜、フィランジェリを訪ねたオルファニムは、もっとも敬愛する母親が自分に向けた視線と、そして失望のため息を目の当たりにした。彼の中で、揺るぎないはずのものが崩れた瞬間だった。

「わたくしはあの子を愛しているつもりでした。でも、今思えば、『あの子』自身ではなく、あの子の中にある自分の『理想』を愛していただけなのです。そして、それは、けっしてわたくしを顧みてはくれなかった『あの人』への復讐だったのかもしれません。わたくしはあなたとは違う。子供を愛し、立派に育ててみせる、と」

 フィランジェリの顔に自嘲の笑みが浮かんだ。「母」と呼ぶことさえためらいながら、もはや何も望むことはできないとわかっていながら、それでもいまだ、その呪縛から離れられない自分に対してである。

「王都から婚約破棄の通告が届き、側近たちの態度が変わり、あの子は笑わなくなりました。一見、それまでどおりの日常を送りながら、けっして心を開いてはくれなくなった。そして──」

 ある朝、オルファニムの体は露台の下の地に冷たく横たわっていた。部屋に残された紙片に、たったひと言、書き残して。

 母上、ごめんなさい

「わたくしが殺したのです」

 凍りついた笑顔に、一筋の涙が伝った。しかし、ホミニスは何も言わなかった。

「罵ってくれれば、まだ心は軽かったかもしれない。あとを追えれば、いっそ楽だったかもしれない。でも、それは許されないと思ったのです。生きて、苦しむことが、あの子への……あの子たちへの償いだと──」

 ふと、フィランジェリは窓からの景色に目を移した。それは公府の方角だった。

「わたくしは息子を失いました、ふたりともに──オルファニムの葬儀の日、ギボールを見ることができなかった。あの子は何もかも見通していて、わたくしを責めているようでした……弟を殺したのはおまえだ、と」

「ギボールさまを恨んでおいでですか?」

 ホミニスが初めて口を開き、ややあって、フィランジェリは静かにかぶりを振った。

「むしろ、すまないと思っております。生まれたばかりのあの子を抱くこともできぬまま、あの人に奪われたとき、取り戻すべきだった……いえ、どんなことをしても取り戻さなければならなかったのです。母として、わたくしの息子を」

 これまでにない力強い言葉と表情に、神官が微笑む。フィランジェリもまた小さく笑みを見せ、頬の涙をぬぐった。

「今日はこのような詮無き話を聞かせてしまい、神官さまにはお恥ずかしい限りです」

「いいえ、太公さま、この世界に大切なものを失った悲しみや後悔を持たぬ者は、およそおりません」

「神官さまも、ですか?」

 問われて、神官はふと、冷めきった紅茶に目をやった。

「わたしも大切な人を失ったことがございます。あの人は、そう、美しい髪をしていた。まるで──」

 そのとき、扉を叩く音がした。太公が腰を上げたのを見て、神官はとっさに立ち上がり、彼女の手を取った。

「不思議です。これまで誰にも話せなかったみずからの『罪』を、今になって」

 フィランジェリが呟く。しかし、その表情はどこか晴れやかだった。ホミニスはそれを微笑ましく思いながら、先に立って扉を開けると、部屋の外には夫と、もうひとり、見知らぬ若い使者が膝を折って待っていた。

「太公さま、初めて御意を得ます」

 使者は頭を下げたあと、手紙が載った銀の盆を両手で恭しく差し出した。

「ネツァー閣下よりの親書でございます」

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