骨肉
キディエルはその夜のうちに公府内の自邸に向かった。十二歳のときに近衛隊の見習いとして兵舎に入って以来、十一年ぶりの帰宅であった。
「キ、キディエルさま?!」
主人の息子の顔を知らない使用人も多いなか、家令がその成長した姿を辛うじて確認し、館の門を開いて招き入れた。
「何事でございますか。あ、お館さまは今──」
しかしキディエルは何も答えず、まっすぐ父親の部屋へ赴いた。入室の許可も得ずに扉を開けて見たものは、いくつもの酒瓶を転がし、泥酔している老人の姿であった。
「お元気そうですね」
扉を閉め、ふたりきりになってしばらくして、「息子」が口を開いた。
「ほお、まだ生きておったか」
またややあって、「父親」が目も向けずに応える。
「何をしに来た」
「お伝えしたいことがあります。このたび、近衛隊を任せられることになりました」
「はっは、あの若造公主、やはり愚昧とみえる。平民出のあばずれ女のガキをとは」
キディエルの亡き母親は自治都市の商人の娘だった。自治都市とは、王国に対する忠誠と納税を条件に、市民による自治を認められた都市である。商人のほうは名門公国への伝手を、貴族のほうは多額の持参金を目当てにした、典型的な政略結婚であった。しかも、母親には将来を誓った恋人と、腹には子供までいたにもかかわらず、どちらも奪われたあげくのものだった。夫婦仲は当然のごとく最悪で、生まれた息子は両親の罵倒と打擲の中で育ったのである。
「もうひとつあります。あなたがなさった浅薄で愚かな行為は、すでに露呈しています」
「!」
「では、これで。もうお会いすることもないでしょう」
向き直ったキディエルの背後からグラスが投げつけられ、彼の顔をかすめて壁にぶつかり、激しく砕け散った。
「待て! 誰に知られているというのだ。公主か、それとも──」
「………」
「答えろ!」
キディエルがふたたび向き直る。その目には哀れみすら漂っていた。
「ふん、答えぬか。まあ、今さらよいわ。あのお方はわしのしたことをすべてご存じだった。しかも、けっして失敗を許される方ではない」
シュラーブの拳がわなわなと震える。
「だが、最後にひとつ情けを頂いた。『咎人』を差し出せばよい、と。そうだ。そやつをわしが成敗したことにすればよいのだ。『父親』として、な!」
シュラーブが酒瓶をつかみ、テーブルに叩きつけて割ると、キディエルに襲いかかってきた。
「………」
しかし、キディエルは表情を変えることもなく、顔面に向けて突き出された切っ先を軽く避けると、瓶を持ったシュラーブの手首をつかみ、素早くその背後に回った。もう片方の手で肩を抑え込み、その場に膝を着かせ、つかんだ手首を背中で締め上げる。
「今さら、驚きませんよ。あなたに殺されかけてもね」
「こ、この、生まれ損ないが……」
「なにしろ、わたしは昔からいつも、いつも……」
締め上げる手に、我知らず力がこもった。
「おれはいつも殺されていた、あんたに!」
「ぐわっ!」
腕が折れる鈍い音が響き、口から泡を吹いたシュラーブの体が力なく床に倒れる。キディエルは足元に転がるそれをしばらく眺めていたが、やがて一歩を踏み出し、去っていった。馬にまたがり、天を仰いだそのとき、東の空が白み始めていた。
五日後、エティーシャの回復を待って、トシュラータ公主夫妻はラーディガストを出立した。その際、ギボールとルシィナは公府の城門まで見送り、深く頭を下げたが、ラツィエルも、エティーシャさえも、むしろふたりを気遣いつつ、帰国の途に就いたのである。
そして、その間に、公主からキディエルに対し近衛隊長就任の辞令が下った一方、父親であるシュラーブの急死の報が届いた。また、賊の捜索は、おそらく民衆に紛れて逃げたのだろうという筆頭書記官の進言もあり、事実上、打ち切られていた。
そんなある夜、公主の執務室から出てきたカドーシュを、オルディネが控えの間で待っていた。
「カドーシュさま、ルシィナさまがお召しでございます」
ふたりで内廷に向かいながら、カドーシュがオルディネに言葉をかける。
「夜会での件、賊を捕縛できたのはあなたの功績です。閣下もご心配ながら、お喜びでした」
「もったいなきことです」
「そういえば、お父上が亡くなられて、もう何年になりますか。閣下も一度、墓参にと──」
「あの男のことは忘れました。閣下の墓参など、恐れ多いだけです」
女性なら、およそ平静ではいられないカドーシュの微笑みに、しかしオルディネはまっすぐ前を向いたまま目も向けず、冷たく言い放った。カドーシュが何か言おうとしたとき、内廷と外廷を隔てる扉が近衛兵によって開かれた。
「ルシィナさま、お召しにより参上いたしました」
「カドーシュ卿」
オルディネは部屋には入らず、室内にはルシィナひとりであった。
「実は、閣下にはご内密にお伺いしたいことがあるのです」
「かしこまりました」
ふたりはソファに向かい合って座り、しばしの沈黙のあと、ルシィナがふたたび口を開いた。
「お伺いしたいのは、閣下のご両親のことです」
「太公ご夫妻でございますか?」
「はい。閣下とご両親のことは、閣下ご自身からお話しいただきました。そのあいだにある、悲しい経緯も──」
ギボールの双子の弟であるオルファニムが死に、その直後、ギボールに譲位し、離城に隠棲した両親は、それ以来一度も公府を訪れることもなく、連絡すら取っていなかった。
「お会いしたいのです、ご両親に。そして、閣下にもお会いしていただきたいのです」
「ルシィナさま」
「差し出がましいことは承知しております。でも、このまま、お顔を合わせることも、語り合うこともないままでは、悲しい歴史は終わらないと思うのです」
ルシィナの熱心な言葉に、カドーシュはやがて小さく微笑んだ。
「よくおっしゃってくださいました」
「カドーシュ卿──」
「閣下は、実はご夫妻のことを気にかけていらっしゃいます。口にこそ出されませんが、わたしにはわかります。ただ、あのご性格と、オルファニムさまの死についてのわだかまりで、これまで一歩を踏み出せずにおられるのです」
「では、閣下はご両親を憎んではいらっしゃらないのですね」
「わたくしはそう思っております」
「よかった……」
ルシィナは心からの安堵の表情を浮かべた。ギボールが実の親を憎むような人間でないとわかった安堵であった。
「明日の夜、閣下にはこちらで夕餐をお取りいただきます。その際、ルシィナさまからお話しいただけますか」
「かしこまりました」
もっとも近しいふたりがそんな「密談」を交わしていたとは知る由もなく、ギボールは翌晩、何の疑いも持たず、内廷でルシィナと食事の卓を囲んだ。
ひさしぶりの楽しい会話と、けっして豪奢ではないが、季節の素材を取り入れた、ほどよい量の滋味あふれる料理とともに、和やかな雰囲気で食事は進んだ。給仕係の侍従と侍女が食後の紅茶を出したのち、オルディネだけを残し、不意に退室した。ギボールは不審にも思わなかったが、それを合図のように、ルシィナの柔らかな表情が真剣になった。
「ギボールさま、お願いがございます」
「なんだ?」
「太公ご夫妻にお会いしとうございます」
「………」
途端、ギボールの表情が明らかに不機嫌になった。ややあって、ルシィナから目を逸らし、小さく口を開いた。
「カドーシュか」
「ギボールさま、それは──」
「あいつが、おまえに頼んだのか。おれとあいつらを会わせろと」
「違います。確かに、カドーシュ卿には事前にお話しいたしました。でも、これはわたくしの──」
「会いたければ、好きにしろ。早馬なら二日とかからん。だが、おれは──」
「ギボールさま、なぜ逃げられるのです!」
「逃げる?!」
ギボールがルシィナを鋭く見据える。しかし、ルシィナも負けてはいない。
「逃げておいでです。ご両親とお会いすることからも、ご心中を明かし合うことからも。ギボールさまをお産みくださった方たちではありませんか」
「産むだけなら、路傍の犬や猫にだってできるさ。いや、あいつらのほうがむしろ──」
「ギボールさま!」
ちゃかしたような態度に、ルシィナがいつになく大きな、非難の声を上げる。対して、ギボールはばつが悪そうに顔を背け、低く呟いた。
「──わからないんだ」
「え?」
ギボールが顔を向け、ルシィナをまっすぐに睨み、そして叫ぶように言った。だが、その目はどこか寂しそうだった。
「おまえにはわからないんだ。親が子を慈しみ、子が親を慕うのが当たり前だったおまえには、そうではない世界もあるということが! 現に、おれは──」
「たとえそうであったとしても、それでも申し上げます。何もなさらないで、傷つくかもしれないと、ただ逃げていらっしゃる。わたくしに過去に向き合えとおっしゃったあなたが、なぜ、その恐怖に立ち向かおうとなさらないのです!」
「なに?!」
ギボールが思わず立ち上がる。この場にオルディネだけを残したのは、カドーシュの判断だった。ほかの若い侍女たちなら、怯えて泣き出していたかもしれない。
「もし、傷つかれることがあっても、わたくしがおそばにおります」
「………」
ルシィナの言葉と、そして優しい微笑みに、ギボールはそれ以上、何も言えなかった。引っ込みがつかないまま、不意に踵を返した。
「ギボールさま!」
「勝手にしろ!」
ギボールは扉の外にいた侍従たちを押しのけるように、足を踏み鳴らして外廷に戻っていった。
「カドーシュを呼べ!」
「カ、カドーシュさまなら、すでに──」
控えの間で侍従が怯えながら、執務室の扉を見つめる。ギボールはみずからそれを激しく開き、振り向きもせず、また激しく閉めてから叫んだ。
「カドーシュ!」
「これは、閣下。ずいぶんお早く──」
「おまえがルシィナに言ったのか。おれとあいつらを会わせろと!」
「そうではないと、ルシィナさまがおっしゃったはずですが」
「だが──」
「ルシィナさまのご意志です。それで、あなたはどうお応えになったのですか」
カドーシュの瞳が主君をまっすぐに見据え、ギボールは思わず一歩、後退ると、その冷たい緑瞳から目を逸らした。
「閣下」
「勝手にしろと言っただけだ」
「勝手にしてよろしいのですね。それでは早速、太公さまへのお手紙をお書きください」
「おまえが書いとけ」
「親書です」
「………」
ギボールが執務机の椅子に音を立てて腰を落とす。ペンを握ったものの、その手はそれからまったく動かなかった。
「……おい」
「はい」
「おれは、本当にあいつらと会うのか」
「そうですね」
「断ったら……」
「そうなりますと、ルシィナさまは悲しまれるでしょうね。それから、もう『ギボールさま』とはお呼びくださらないかもしれませんね。あくまで、わたしの勝手な推測ですが」
こいつの「推測」が、ただの「推測」で終わったためしがないことを、ギボールは誰よりもよく知っていた。




