繚乱
日が昇った。
清々しい朝日に照らされ、城の白壁も庭園の緑も眩しく輝いていた。
「おはようございます。ルシィナさま」
女官長が寝室の扉を開けると、途端、涼やかな風が吹き抜けた。窓辺では新鮮な光と風を受けた金色の髪が揺れている。
「おはようございます、アエテルネ夫人」
ルシィナが笑顔を返す。そのとき、夫人の背後に立つ見慣れぬ女性に目を留めた。
「ルシィナさま、女官のお目通りをお許しください。オルディネ、ご挨拶を」
夫人の横から進み出た黒髪の女性は、静かに腰を折り、深く頭を下げた。
「御意を得まして、光栄に存じます。オルディネと申します。恐れ多き儀ではございますが、これよりおそばに侍することをお許しください」
夫人とどこか似ている、凛とした気持ちの良い声である。姿勢を正して見えた容貌は美しいと言っても過言ではないが、それよりもまっすぐに向けられた深緑の瞳は強い意志を感じさせ、なにより印象的だった。
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
盛夏に枝葉を張る樹木のような、堂々たる生命力を眩しく思いながら、ルシィナはふたたび優しい笑顔を向けた。
「それでは、ルシィナさま、お召し替えを」
「はい」
数人の侍女が入室し、部屋の扉が閉められた。
同じ時刻、同じ内廷にある別の扉が恐る恐る開かれた。
「あの……閣下、お目覚めでございますか?」
昨晩、外廷の寝室に戻ってこなかった主君を心配し、年若い侍従がそっと声をかける。しかし、室内のよどんだ空気の中にいたのは、ひとりではなかった。
「閣下?! カドーシュさまも──」
侍従が思わず声を上げる。そこに見たものは、力なくソファに座り、目を閉じたまま天を仰いでいる主君と、それを冷ややかに見つめる筆頭書記官であった。
「カドーシュさま、もしや、ひと晩中……」
問われ、カドーシュがやはり冷たい目を向け、侍従はとっさに緊張した。
「早速だが、湯浴みの準備を。今日は大事な日だ。心配はいらぬ」
「は、はい!」
侍従が慌ただしく去ったあと、カドーシュはふたたびソファに目をやった。
「お聞きになりましたか。まずは湯浴みを。朝食のあとは、昼食を挟んで各地の長官からの定例謁見。その後──」
「……るな」
「ルシィナさまとともにトシュラータ公主ご夫妻をお出迎えし、それから──」
「……話しかけるな。台詞、忘れちまう」
そのままの態勢で、ギボールが呟く。しかし、カドーシュはどうにも冷たかった。
「一日中、台詞を頭の中で繰り返すおつもりですか。いったんお忘れください。今日、あなたがなされるべきことは夜会だけではないのですよ。さあ、早く起きてください」
実際、その後のギボールは、多少の疲労感はにじみ出ていたものの、普段どおりに執務をこなしていた。緊急時にはいつでも謁見を許しているため、月初めのそれは、農作物の生育具合など定型的な報告を受け、ときに意見したりするくらいである。それでも、自分の何気ないひと言に多くの民の生活がかかっていることは自覚しており、カドーシュに言われるまでもなく、けっして疎かにすることはなかった。
そして太陽が西の地に沈むころ、城内の大広間には国中の高位高官の貴族や官吏たちが集結していた。ルシィナの出自やこれまでの経緯は、公主の婚約の報とともにすでに公布しており、彼らは型どおりの挨拶や大好きな噂話もそっちのけで、まだ見ぬ新たな主君の品定めにいそしんだ。そんなとき、公主入場の知らせの声が響き、みなの視線が扉に集まる。ゆっくりと開かれた扉から現れたのはギボールとルシィナ、続いてトシュラータ公主夫妻であった。
途端、場内の数多の人間たちからどよめきが起こった。公妃となる女性の姿に、好奇の視線は感嘆のそれに変わっていた。生来の気品や美貌に最上の装飾を加えたその様は、まさに神と人との最高傑作とも言うべき眩いばかりの美しさだった。
「急な召喚にもかかわらず──」
一週間をかけて考え、推敲し、一晩をかけて覚え、訓練した公主の挨拶は、ほぼ誰の耳にも届いていなかった。それはそれでまったく構わず、ギボールは口を動かし終えると、ルシィナとともに背後に立つトシュラータ公主に歩み寄った。出会いの場となった宴のあるじへの感謝を述べ、ふたりで頭を下げたのである。途端、会場から別の意味のざわめきが起きた。そこここの公主や王国貴族はおろか、内心、王族すら侮る「誇り高き」ラーディガストの公主が、同格であるはずのトシュラータの公主に辞儀したからである。静寂のなか、対するラツィエルも一瞬、驚いたような表情は見せたものの、しかしすぐに穏やかな笑みと温かな言葉で祝福したのだった。
その直後、高らかにラッパか吹き鳴らされ、それに煽られるように拍手がどこからか、そして広間中に鳴り響いた。ここに、ふたりの婚約は「すべての人間」に認められることとなったのである。
主役たちとはやや離れた場所で、カドーシュはその様子を見つめていた。この双子公国が、たがいの即位や結婚の儀に相手方を同席させるのは慣例であるが、婚約までもというのは異例だった。それをあえて行ったのは、国内の人間に対する一種の「拍付け」である。ギボールは他者の名を利用するそういうことをあまり好まないが、「権威」に執着し、同時に弱い連中の口を塞ぐには、ある意味、有益だった。むろん、トシュラータからの「同意」は事前に確認していた。「観月の宴」から帰国する際、見送りに出たラツィエルはルシィナを見ているし、ギボールはそのときに手渡した親書で事情を打ち明け、今回のお披露目への出席を懇請していたのだ。トシュラータもご多分に漏れず、伝統やら格式やら血筋やらになかなかうるさいことは確かだったが、そんな中でもラツィエルは以前からギボールに好意的だった。そしてギボールが帰城した翌日、トシュラータから早馬で届けられた承諾によって、この夜会の決行が動き出したのである。
とりあえずの務めを果たしたカドーシュは静かにその場を離れた。が、彼のまわりは「静か」とはいかなかった。
「見て、カドーシュさまよ」
「ああ、ひさしぶりにお姿を拝見できたわ」
「どうしてあんなに美しい方がいらっしゃるの……」
どこをどう行っても、女性たちの熱い視線や黄色い声を集めてしまうのだ。その一方で、彼女たちはたがいに牽制しているのか、はたまた「ある人物」の目を恐れているのか、誰もが遠巻きに眺めるばかりで、直接に声をかけることはしなかった。が、あるとき、その一歩を躊躇なく踏み出すものがあった。
「おひさしぶりです、カドーシュさま」
件の「ある人物」である。艶やかな最上の衣装と宝石で身を飾り、多勢の中でもひときわ目立つことを意図したその煌びやかさには、この機会──ひいては、この男のためにかけた並々ならぬ意気込みが感じられた。
「これは、フィナ・ヴェニスティ姫」
対してカドーシュは、完璧な礼をもって応えた。フィナとは、社交界に出入りを許された女性の称号である──ちなみに男の場合はフィンの称号が用いられる。ただし、それは多分に形式的なもので、初対面か、儀式などでのみ使われるものだったが、カドーシュはほぼすべての女性にこの呼称を使っていた。礼儀正しいと言えば聞こえはいいが、それはよそよそしさを感じさせるものだった。
「おひとりかしら?」
「ええ、ご覧のとおりです」
「では、お相手願えません? 次の音楽が始まりますわ」
「光栄に存じます」
微笑み、カドーシュはかすかに震えるヴェニスティの手を取った。周囲の羨望の眼差しのなか、ふたりが見事なダンスを披露しているころ、城の片隅ではある事態が起きようとしていた。
城に仕える人間が、外廷・内廷をとわず、夜会や客人の対応に慌ただしく動き回っているとき、オルディネはふと、窓から見えた景色に違和感を覚えた。内廷の庭園は公主一族の私的なもので、外廷のそれと違い、客人が出入りできるものではない。そして今、誰もいないはずの庭園を素早く動く「影」に目を留めたのだ。
決断は早かった。ほかの女官たちを適当に言いくるめ、ひとり、その場を離れた。
結果、彼女の予感は正しかった。森のなか、木々に隠れてうごめいていたのは、ひとりの若い男だった。衣装は衛兵のそれに似ているが、ここでは招かれざる人間であることには違いない。
「止まりなさい!」
オルディネは背後に回り、一喝した。瞬間、硬直した男は、しかしその声が女性であることに気づき、ゆっくりと腰のものに手を伸ばした。
振り向きざま、剣を抜き、斬りかかろうとした。が、彼女とて、それを予見していたのだろう。愛用の長槍で男の手を勢いよく薙ぎ払った。
「うわっ!」
剣を落とした男に対し、オルディネはその顔面に長槍の穂先を差し向けた。言葉を発しようとしたそのとき、背後に別の気配を感じ、とっさに振り向いた。
「!」
一瞬、同じ衣装の男が見えた。長槍を振り向けようとした直前、首に腕を回され、剣の刃を顔に当てられた。
「形勢逆転だな」
先の男が剣を拾い、薄ら笑いを浮かべて近づいてくる。
「まず、その物騒なものを捨ててもらおうか」
無言・無表情のまま、オルディネの手から長槍が放され、地に落ちる。
「顔を見られた。殺るか」
「いや、あの女の部屋に案内させる手もある」
「そうだな。だが、そのまえに……なかなかいい女じゃないか」
前に立つ男が片手を伸ばしてきた。とっさにオルディネがその手を払ったとき、男はかすかな痛みを感じた。
「ん?」
何気なくみずからの手を見ると、小さな引っ掻き傷から血が滲み出していた。その数瞬後である。男は膝から崩れ、その場に倒れ込んだ。
「おい?!」
背後の男が驚き、その剣がオルディネから離れた。直後、腰に差していた細長い針のようなものを抜き、男の太腿に思い切り突き刺すと、すぐさま距離を取った。
「ぐわっ!」
脚を押さえ、転げる男に対し、オルディネは素早く長槍を拾い上げ、もう一方の太腿にも躊躇なく突き立てた。
「ぎゃあっ!」
のたうち回る男を目の前に、オルディネの表情はあくまで冷たかった。いや、むしろ、どこか満足気でもあった。
「殺しはしない。どうやら、目的あってのこと。少なくとも、それを吐いてもらうまでは」
その整った口元には小さな笑みさえ浮かんでいた。男の背後に回り、後頭部を槍の柄で殴って気絶させたあと、口と腕を細綱で縛り上げると、急ぎその場を離れた。
そのころ、広間ではいくつめかの音楽が終わろうとしていた。
「フィナ・ヴェニスティ姫、お飲み物でもお持ちいたしましょうか?」
「ええ、お願いしますわ」
カドーシュはようやく解放されていた。ひとつの音楽はそう長くないのだが、ヴェニスティが放してくれず、何曲も踊る羽目になったのである。
ヴェニスティを近くのソファにいざなったあと、その場を離れようとしたカドーシュに近づくものがあった。
「カドーシュさま」
「オルディネどの、どうなさいました」
「どうぞ、こちらを」
オルディネが小さな紙片を手渡す。それに目を落とすカドーシュの背後では、ヴェニスティが突然現れた見知らぬ女を睨みつけていた。
「すぐに参りましょう」
そう言ってから、カドーシュは向き直った。
「フィナ・ヴェニスティ姫、しばしお時間を頂けますか?」
「……わかりました、お待ちします」
「ご厚情に感謝いたします」
カドーシュは頭を下げ、不機嫌を隠そうともしないヴェニスティを残し、オルディネとともに足早に去っていった。ヴェニスティはその後ろ姿を射るような視線で見送りながら、集まってきた取り巻きたちに対し、誰に問うでもなく尋ねた。
「あれは誰?」
「オルディネさまですわ。イリューム卿のご息女です」
「イリューム卿?」
「ご即位前の閣下とカドーシュさまの師をなさっていた方です」
「あのお衣装、内廷の女官になられたようですわね」
「それって、お母さまが女官長をなさっているおかげでしょう」
「──たかが女官が、カドーシュさまにずいぶんなれなれしいこと」
ふたりが去った先をまだ睨んでいたヴェニスティがふんと鼻を鳴らし、刺々しく言った。
「やはり、ご幼少時、一緒に過ごされたからではないですか?」
ヴェニスティの鋭い視線が、途端、その言葉を発した少女に向けられた。ヴェニスティにとって、自分よりカドーシュに近しい人間がいることは許せないことだったのだ。まわりの少女たちの表情も固まっていた。
「のどが渇いたわ」
「は、はい!」
その言葉に救われたように、取り巻きたちはいっせいにその場を離れた。
一方、カドーシュはオルディネとともに庭園に向かっていた。途中、公主一族と内廷を護る近衛隊の兵舎に立ち寄り、最低限の指示を出したのち、件の場所に至った。そこにはふたりの男が倒れており、カドーシュはすぐに縛られていないほうの男に駆け寄った。
「死んでいますね。毒ですか」
「やむを得ませんでした」
オルディネがみずからの左手にはめている指輪に目を落とす。それには毒針が仕込まれていた。
「むろんです。あなたがご無事でよかった」
カドーシュは微笑みを向けたが、オルディネの表情は硬いままだった。
「それより、気になることを言っていました。『あの女』の部屋へ案内させる、と」
「『あの女』?」
「カドーシュさま、よもや、こやつら……」
オルディネの目が見る見るうちに険しくなる。しかし、カドーシュは涼しい顔で唐突に言った。
「もうひとりの男には、仲間がここで死んだことは黙っていましょう」
オルディネが怪訝な表情を向けたとき、複数の足音が近づいてきた。
「カドーシュさま、姉上!」
ふたりの近衛兵がそれぞれ馬を曳いて走ってきた。そのうちのひとり、オルディネと同じ黒髪と緑瞳の少年がその場の状況を見て、目を見張った。彼らは馬を連れて来るようにのみ命じられていた。
「カドーシュさま、これはいったい……まさか、内廷に賊が入ったのですか?!」
「トゥーム、落ち着きなさい。お役目中です」
動揺を隠せない弟に対し、姉はあくまで冷静だった。一方で、カドーシュは新たな指示を出した。
「ふたりともご苦労だった。まずはこの男たちを馬に載せ、牢に運んでほしい。それから、この件は近衛隊長にのみご報告を。閣下にはわたしからお伝えする」
「はい」
「オルディネどのも、どうかご内密に」
「心得ております」
彼らと彼女を見送ったのち、カドーシュもその場を離れ、広間に戻った。すると、早々に背後から呼び止められた。
「これはこれは、プラキデさまにはご機嫌うるわしく」
カドーシュはにっこり笑って、深く一礼した。プラキデも好々爺然とした穏やかな表情を返す。しかし、どちらもその瞳の奥には、友好や善意とはほど遠いものが渦巻いていた。
「こたびのこと、まずはおぬしを祝するべきかな」
「何のことでございますか。寿がれるべきは閣下とルシィナさまにございましょう」
たがいに「笑顔」を崩さず、他愛ない話に興じているようにも見える。だが、その雰囲気には、やはりただならぬものを感じるのだろう。誰もがふたりの立つ一帯を避け、直視すらしないようにしていた。
「大切になさるがよい。おふたりのこれから、とくと見せていただこう」
「心得ております」
プラキデが人込みに紛れるまで、カドーシュは頭を下げていた。琥珀色の髪に隠されたその口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
「フィナ・ヴェニスティ姫、ただいま戻りました」
「カドーシュさま!」
ヴェニスティは思わず立ち上がったが、すぐさま顔を背け、腰を落とした。
「待ちくたびれましてよ、カドーシュさま」
「姫のご厚情を賜りながら、お詫びのしようもございません。償うことをお許しいただけるなら、なんなりとおっしゃってください」
カドーシュは恭しく膝を折り、ヴェニスティをまっすぐに見つめた。対して、ヴェニスティは顔を背けたまま、それを横目でちらりと見た。
「なんでも、とおっしゃいまして?」
「はい」
「それでは──」
顔はカドーシュに向けたものの、あえて素っ気ない態度は崩さないまま、しかし高鳴る胸を必死で抑えながら、ヴェニスティは言った。
「もうすぐ、わたくしの誕生日ですの。お越しいただけるかしら」
「それは──」
カドーシュは跪いたまま、不意にヴェニスティの手を取った。途端、白い頬が朱に染まり、周囲からは黄色い声が漏れた。
「身に余る光栄です。ご招待、喜んでお受けいたします」
これまで、欲しいものはすべて、当たり前のように与えられていたヴェニスティは、天にも昇る心地というのを生まれて初めて味わっていた。カドーシュが一礼し、去ったあともなお、しばし恍惚感に浸ったままだった。
やがて、夜会は終わりを告げた。ギボールは主催者として最後に礼を述べ、退場した。そのまま、ルシィナとトシュラータ公主夫妻を内廷に送り、みずからは外廷の寝室に戻った。衣装を正装から部屋着に着替えさせられたのち、侍従たちを下がらせると、まっすぐに寝台に突っ伏した。
カドーシュが訪れたのは、それからややあってからだった。手には湯気の立つカップを載せた盆を持っている。
「閣下」
「………」
「本日はお疲れさまでございました」
「………」
「そのままで結構ですので、お耳だけ拝借できますか」
カドーシュは内廷に賊が入ったことと、その顛末を淡々と告げた。
「では、わたしも失礼させていただき──」
「なに?!」
少しの間のあと、ギボールが跳ね起きた。
「オルディネや内廷の人間は無事だったのか?!」
「今、お伝えしたとおりです」
「そうか、よかった……よし!」
「閣下、どちらへ?」
ギボールが扉へ向かうのを見て、カドーシュがあえて問う。
「決まっている、牢に捕えてあるんだろう。おれみずから、尋問してやる」
「お勇ましいですね。では、気つけ代わりに、どうぞこちらを」
カドーシュが差し出した盆から、ギボールはかすかに酒の香りがする紅茶を手に取ると、一気に飲み干した。カップを盆に戻し、数歩歩いたときである。不意に視界が揺らいだ。
「カドーシュ、まさか……」
「お止めしても無駄なことはわかっております。でも、本日はゆっくりお休みください」
薄れゆく意識のなかで、カドーシュがにっこり笑っているのが見えた。冗談ではない。主君に一服盛るなど、不敬どころか立派な大逆である。
「おまえな~……」
そして、ギボールの意識は途絶えた。




