月下
永きにわたる戦乱の世は、ふたりの王子とひとりの巫女姫によって終わりを告げた。
その年をもって、サンダルフォン王国暦元年となる。
立ち込めた香気は焔の熱と心地よい夜風に乗り、天空の月にまで届くかのようだった。
所狭しと設けられた灯火が夜の闇を照らし、春に咲き競う花々を神秘的なまでに美しく浮かび上がらせていた。鮮烈な色と艶やかな形を誇る貴婦人や淡い色と清楚な姿を見せる乙女たちの競演は、世俗に疲れた心にも浮世を忘れさせるほどの魔力があった。
トシュラータの南東、公府からは早馬でおよそ半日、近隣諸国に広く知られる「月光のしずく」城である。なだらかな山の中腹で緑の森に囲まれたそこでは、比べないほどに美しい月を見ることができる地として、春と秋の年に二度、トシュラータ公主の主催により観月の宴が催されていた。
公主とは爵位を持つ王国貴族とは一線を画する存在で、世襲の領地と独自の政府を持つ領主のようなものである。彼らが治める地は公国と呼ばれるが、それは国王や王都の中央政権でさえ介入できない、言わば独立国家に等しい治外法権域だった。六百有余年前までの戦乱の時代、ここサンダルフォン王国にいち早く恭順の意を示したかつての小国や、功績のあった貴族や軍人に与えられた地が起源であり、王国内に大小あわせて六十余りを数えた。その中でも名門中の名門と言われ、広大で肥沃な領地と活発な商業で郡を抜いた繁栄を誇るのがこのトシュラータであった。
幾多の貴族や公主がこの宴に招待されることを名誉とし、数多の詩人が幾万言の美辞麗句をもっても表現しきれなかったこの幻想の世界を、しかし彼はたったひと言で言い切っていた。
「つまらん」
「閣下」
「まったくつまらん。なにが観月だ。こんなに明るく照らして月が見えるか。結局は貴族どもの世辞と自慢大会じゃないか」
「もとよりお覚悟のうえでしょう」
まだ始まったばかりだと言うのに、広場を目の前に、ギボールは一番目立つ貴賓席でいかにもつまらなそうに頬杖をつき、傍らのテーブルから葡萄酒ばかりあおっている。主催者の立場など知ったことではなかった。背後に控えるカドーシュも口では諌めているが、誰よりも主君の性格を知る者として本気でやめさせるつもりはない。
「ご招待をお受けになったのは閣下です。こちらの方々もお越しいただけるとお喜びでしたのに」
「ふん、年寄りどもの下心が見え見えだったからな。行っても行かなくてもうるさいだけなら、連中から逃げられるだけ、まだましかと思ったが……そもそもこのおれが、ああゆうものに刺激されると本気で思ったのか」
ギボールは少し離れた隣席にいるふたりを横目で見やった。先ごろ、結婚したばかりのトシュラータの若き公主と妃である。従兄妹同士で、幼い頃から同じ宮廷で育ったふたりは、一緒にいることが当然のようでもあった。ギボールも婚礼の式には参列したが、その際から彼らのあからさまな仲睦まじさには、熱さどころか寒気を感じるだけだった。
「は~ぁ、退屈だ。こんな夜は本物の月明かりだけを頼りに馬を跳ばすのが一番なんだがな」
「お供いたします」
カドーシュがいかにも主君らしい言葉に微笑んで応える。が、ギボールが振り返り、自分の顔をじっと見ていることに気づき、小さく首を傾げた。
「なにか?」
「いや、おまえが女だったら面倒がないのにと思ってな」
「わたくしも二十年以上前から同じ思いでした」
ギボールとしては慣れない冗談のつもりだったのに、それを真顔で返され、困惑したように視線を広場へと逃がした。ちょうど異国の舞踏団が姿を現したところだった。
地を響かす歌曲にあわせ、色鮮やかな布を幾重にも巻きつけた娘たちが風に舞い散る花のように踊り、若く健康的な肢体が舞台狭しと躍動する。大抵の技芸には飽きてしまっている貴族たちにも珍しく関心を示す者もいた。ギボールも目を向けてはいるが、その表情と酒のあおり方から大して興味を持っていないことがわかる。ただカドーシュとしては、お目付けの相手がおとなしくしてくれているだけで安心していたのだが、あるとき、ふとその様子が変化したことに気づいた。
それは会場すべてに共通していた。つい先ほどまで貴族たちが花を咲かせていたおしゃべりはやみ、いい加減、酒に酔った者さえも我を忘れたように一点を見つめている。彼らの視線を一身に集めるもの、それは舞踏団の最後を飾るひとりの歌姫だった。
顔はベールで隠されていたが、その下から覗く黄金色の髪はゆるやかに波うち、ふわりとした純白の衣装の上からも艶やかな曲線に縁取られた体形はわかる。なにより、その声は美しく澄みわたり、別次元の音色がその空間も人もすべてを包み込んでいた。
あるとき、一陣の風かベールをまくり上げた。それは一瞬のことではあったが、同時に、これから先、幾多の人間の運命を彩ることになる「始まり」でもあった。
あらわになったその貌は、歌声以上に人々の目を引いた。白く透き通るような肌に、上品な深紅の唇、そして長い睫毛の下からのぞく瞳は極上の青玉のごとく輝き、天与の美貌を引き立たせた。神々しいまでに美しいながら、どこか母性にも似た慈愛すら感じさせる容貌と声音は、およそ人の心を引きつけずにはおかなかった。
月──カドーシュの脳裏に一瞬、そのひと言が浮かんで消えた。
昨夜、ギボールとともに森の中をあてどなく散策していたときである。鬱蒼とした木々に囲まれた湖畔に出たとき、その水面が妖しく輝くのを目撃した。誘われるように顔を上げると、あまたの星の中にひときわ浮かび上がる蒼い光があった。
もし、あの光が人の姿を借りたとすれば、このような「形」を持つことになるのだろうか。
彼女が退場してもなお会場にはしばらく余韻が漂っていたが、やがて貴族たちは彼らの本来の目的である社交に勤しみ始めた。
「閣下」
「………」
「閣下!」
「な、なんだ?!」
心身ともに囚われていたかのようなギボールはその瞬間、解放された。振り向くと、カドーシュが怪訝な表情で立っている。
「こちらの閣下が広場にお誘いです」
「悪いが遠慮する。適当に断ってくれ」
そう言ってギボールは席を立ち、どちらかへと足を向けた。
「庭で風に当たってくる。他の者は来なくていい」
「かしこまりました」
カドーシュはまずトシュラータ公主に丁重に断りを入れ、主君とともに喧騒の中から姿を消した。
やがて彼らが行き着いたのは、灯火もまばらな庭園のはずれだった。ここまで来る途上でも、貴族や近隣の公主たちによる挨拶攻勢という「障壁」をいくつも乗り越えねばならなかった。いや、本来ならこのような社交の場で自由勝手に、まして護衛も付けず出歩ける身分ではない。
ふたりのうち、わずかに先を歩くギボールもれっきとした公主である。しかも、王国内でトシュラータと並び称され、現に三百年前まではひとつの公国として、現在以上の栄華を誇っていた片割れである隣国ラーディガストの正真正銘の統治者なのだ。だが、短い黒髪と野生の獣のように精悍な黒瞳と容貌は、名門公国のあるじどころか市井の街角を走りぬける「やんちゃ坊主」という形容がぴったりで、性格もまた見事にそのとおりだった。
本人も窮屈この上ないが、そうゆう主君を戴く周囲こそ苦労と気疲れの連続である。そして、その最たる者が宮廷書記官のカドーシュであった。
主君が「やんちゃ坊主」なら、「貴公子」という形容はカドーシュのために存在した。ギボールに比べれば華奢にも見えるが、男という性別はおろか、人間という「枠」をも逸するほどの彼の美貌と知性は、なかば伝説化されて広く知られていた。女性たちは身分や年齢にかかわらず、肩にかかる琥珀色の髪が風に揺れるたびに陶酔し、その緑瞳が向けられるものには物言わぬ花にさえ嫉妬した。
そういう主君とそういう側近が無言のまま歩いていたとき、唐突に口を開いたのはカドーシュだった。
「美しい女性でしたね」
その途端、ギボールの足が止まる。だが振り向くこともできないのは、一瞬で顔が紅潮してしまったのがわかっているからだろう。カドーシュのほうもそれを見越してか、唯一の趣味とも言うべき主君いじめをしばし楽しむことにした。
「即位なされてのち、数多の貴婦人や姫君にお逢いになりましたが、まるで関心を示されなかった」
「………」
「なるほど、確かに宮廷ではあのような女性はお見かけしませんでした。あぁ、そういえば、あの方にも似ていらっしゃるような……」
「おいっ!」
さすがに黙っていられなくなったギボールが向き直る。対してカドーシュといえば涼しい顔で平然と受け止めたが、すぐに真剣な表情となって言葉を続けた。
「それで、どこまでお考えですか?」
「どこまで?」
「ご自分が市井の人間ではないことは、いい加減、ご理解いただけているでしょう。まして、公主にとって結婚がどのような意味を持つのかも」
「いや、まだそこまでは……」
「目的地が決まらねば、道程も決められません」
「………」
名前も素性も知らない歌姫に対し、その姿と声に思わず心を奪われたのは確かだった。だが、我に返って己を振り返ればカドーシュの言うとおりで、ギボールが口をつぐんだそのときである。
そう遠くない薄闇の中に、争う複数の人影が見えた。それは、ひとりの人間にふたりがしつこく絡んでいるようで、その中心にいるのが女性らしいことを認めると、ギボールは反射的に駆け出していた。
「ですから、お断りいたしますと何度も申し上げております」
女性がふたりの男に行く手を阻まれながら、困惑した表情で繰り返す。
「若君はそなたの歌をたいそう気に入られたのだ。むしろ名誉と思い、お相手するべきではないか」
「報酬は思うままに払うと言っている。そんなに嫌がることはなかろう」
ふたりのうち、酔っているらしい若い男がへらへら笑いながら、その女性──先に広場で最後の演者となった歌姫の肩を抱こうと、腕を回したときである。
「おやめください」
とっさに振り払おうとすると、酔いの回った男の足がもつれ、勝手にその場に転倒した。
「うわっ!」
「わ…若! おのれ、貴族に対して無礼な真似を……衛兵に突き出してくれる」
もうひとりの初老の男が女性の腕をつかもうと、右手を伸ばした瞬間、背後からの強い力でその腕をねじり上げられた。
「うっ! な、なにを──」
男が顔を歪めて振り返る。が、途端にその表情が凍りついた。かたや、腰を落としたままの若い男には優しく差し出される別の手があった。
「おけがはございませんか? ブルソンどの」
ブルソンと呼ばれた男がそのぬしを見上げる。と、そこには「優しい」微笑みを浮かべたカドーシュが立っていた。
「カ、カドーシュ卿! すると、まさか……」
ブルソンは立ち上がることも忘れ、従者の腕を締め上げている男に目を向けた。そして、彼もまた心身ともに凍りついた。
「閣下、その人の腕が折れてしまいますよ」
カドーシュに言われ、ギボールは思い出したように手を放した。途端、男はつぶれるように平伏した。
「お、お見苦しいところをお見せしました。ネツァー閣下には、な、なにとぞ、なにとぞご寛恕のほどを──」
彼がここまで怯えるのも無理はなかった。巷間、聞こえるギボールの性格と言えば、短気で気性は激しく、怒らせたら手が付けられない──間違いではないが、噂とはたいてい尾鰭が付くものである──機嫌を損ねて、その場で手討ちにされた者も少なくない、などのたぐいだったのだ。さらに、そのほとんど猛獣のような主君を唯一「調教」でき、同時にギボールとは別の意味で、敵に廻せばこれほど恐ろしい者はいないと言われるカドーシュが、氷のような微笑みを崩さぬまま口を開いた。
「トシュラータの名誉ある公国貴族のなさることとしては、あまり感心できませんね。お父上のヴァサー卿は厳格なお方と伺っております。宮廷でのお立場もあるでしょうし、お聞きになれば、なんとおっしゃるか……」
その言葉に、不肖の息子は大きくびくつき、従者はいっそう頭を地面にこすり付けた。
公国貴族とは、王都の宮廷から俸給や領地を賜る王国貴族に対し、公国において公主に仕える貴族のことである。爵位がないことを除けば、地位も実態も違いはない。
「さて閣下、どうなさいます?」
カドーシュの言葉を他人事のように聞いていたギボールは、いきなり結論だけ求められて当惑した。助けたのがくだんの歌姫だったことで彼の胸は否応なく高鳴り、また自業自得とは言え、あまりに相手が悪すぎた憐れな「バカ」ふたりに同情すら覚えかけていたのだ。
「せっかくの宴です。今回ばかりは不問になさいますか?」
「あ…あぁ、そうだな」
「それでは──」
カドーシュが腰を落としたままの男と、震えながら平伏したままの男に視線を向ける。
「不快なものは忘れたいとの仰せです。早々に消えていただけますか」
あくまで穏やかな声と微笑みに男たちは余計に戦慄を覚え、もつれた足であたふたと逃げ去っていった。それからのち、カドーシュはようやく他意がない優しい笑顔を、終始、立ち尽くしていた女性に向けた。
「おけがはございませんか?」
「は、はい。ありがとうございます」
彼女が膝を折ろうとするのをカドーシュが止める。
「どうかそのままで。それにしても、このような場所におひとりでどうなさったのです」
「お城の方々にご挨拶を済ませ、ひとりで風に当たっていたのですが……」
「彼らに出会ってしまったと言うわけですか」
カドーシュが苦笑する。そして、ずっと手持ち無沙汰のギボールに向き直った。
「閣下、しばらくお時間をいただけますか?」
「なに?」
「こちらの女性をお送りしたいのです」
「そ、そのような──」
驚いて口を挟もうとするのを、カドーシュはあえて無視した。しかし驚いたのはギボールも同じである。
「よろしいですね?」
カドーシュは主君の許しを待たず、ふたたび女性に顔を向けた。
「恐れ多いことでございます。閣下のご側近ほどのお方がわたくしのような者を──」
「あなたの声に魅せられたひとりの人間です。どうか随行をお許しください」
麻薬とまで言われるカドーシュの微笑みに抗することができる者はいなかった。
結果、春なお冷たい夜風が吹く地にラーディガストの公主をひとり残し、その第一の側近と芸団の歌姫は振り向きもせずに去っていったのである。