9.令嬢のお父様がやってきた
日の出と同時に騎士の集う訓練場を出発したエドウィンが、避難民が集うキャンプ地のある森の入口付近へ着いたのは、太陽が真上に届く前だった。
この世界では花の息吹を誘う風の精霊の月、暑さが厳しくなる火の精霊の月、森が豊かさを増す地の精霊の月、冷たく静けさに染め上げる水の精霊の月がある。
火の精霊の時期を粗方過ぎ、もうしばらくすれば実り豊かな地の精霊の月となる今、暑さは少し和らいでいたとはいえまだまだ厳しい時期。
愛馬を適度に休ませつつ走り続けた一行は、通りすがる道に青々と広がる草花に励まされ続け、目的地を目指した。
途中過ぎた村には、今年も豊作だと思われる米のまだ青い稲穂が広がっていた。
また去年の水の精霊の月に植えられた麦は豊作だったと聞く。
今年も順調に植え替えられるのだろう。
水を管理するために田を見て回る領民達は笑顔で手を振り、その周りを子供らが笑いながら虫取りなどをして遊んでいた。
その様子に、エドウィンの斜め後ろを追従していた栗毛の馬に乗る騎士が声を掛ける。
グロウレン家直属騎士団の副師団長だ。
「このような光景を見ていると、他領の不作が信じられませんね。今年も本当に豊作に見えます。実際このまま順調にいけば今年も更に我が領は潤うでしょう」
「他領と言っても全てではない。キシュルナ領は昨年と同じ程度に作物は育っていると聞く。アウシュテッツ領もだ」
「それにしても……ねぇ……?」
彼らを乗せた馬は軽快に走り、その蹄の音であまり声が聞こえない。
それでも僅かに聞こえた言葉は、苦笑を多分に含んでいた。
「……あぁ……」
言いたいことは伝わったのか、エドウィンは僅かに応える。
それきり黙ってしまった主に、だがそれ以上何かを告げることも無く副師団長、マルクスは馬を走らせた。
このグロウレン領に生まれ、育ち、騎士団を志してその夢を叶えてからもうすぐ20年になろうか。
決して短くはないその年月の中で、これ程までに例年安定していることなど無かった。
もちろん豊作の年もあり、その恵みを領民たちと喜び祝った事もあるが、毎年それが続くなど、自然を相手にしていればあるはずもなく。
雨が降らず、また火の精霊の月があまりにも厳しい暑さの時には植物が負け、不作に苦労した年もあった。
ある程度それは定期的に交代でやってくるように思えていたので、グロウレン領は不作の年に備えて余裕を持って作物の保存、備蓄にも力を入れていたのだ。
もしもの時に、領民が最低でも食べることに困らないように。
それが一体どうしたことか、ここ7~8年ほど、全く凶作の年が来なくなったのだ。
しかも年を重ねる事に田畑は潤い、山は実を着け、草原には柔らかい山菜まで次々と顔を出す。
余裕があるために次々と貿易品として外へ出せば、飛ぶように売れて更に領地を潤沢にしていた。
周囲の領地は不作の年に当たったとしても、グロウレン領だけは免れている、といったこともある程に。
2年ほど前には、あまりにも豊作の続くこの領地の秘密を探ろうと、王都から研究者が数名視察したほど。
しかしどんなに領地内を這いまわろうと、果ては公爵家にまで調査の手を伸ばそうとも詳しいことは分からず。
何かの魔法を使って、他領の豊作をグロウレン領に吸い取っているのではなどと、凡そ狂言めいた疑惑まで掛けられたこともある。
だが調査団が調査に訪れる度に口を揃えて言うのだ。
「この地に入ると、精霊力が満たされる」と。
加護を受けている精霊の力が、不思議と満ちてくるのだそうだ。
それはこの領地に住まう者全ても、薄々は感じていたこと。
豊作の年が続くようになってからというもの、身体が軽く、また病にも掛からなくなり、怪我をしても傷の治りが早いのだと。
それは加護を受けている精霊が力に満ち溢れているからだと。
つまりこのグロウレン領は、他の土地よりも遥かに精霊達が集まり、力に満ち溢れている。
そのせいで豊作となるのか、と調査団も報告書に上げたほどに。
だがなぜ突然、精霊に恵まれる土地になったのかは分からない。
重なる時期と言えば、エドウィンの妻であるグローリアが妊娠した頃からだろうか。
「エドウィン様は時折冗談のように言われますが、レンシィ様がまるで我らに精霊の恵を運んできてくれたかのようですね」
マルクスの言葉は、エドウィンがかつてより幾度となく考えていた言葉そのものだった。
きっかけがあったとすれば、グローリアの妊娠が分かった時期。
その前の時期が酷い凶作で、その次の年は大抵が不作となり、前年の不作を多少なりとも引きずるのが常だった。
それなのに、グローリアが妊娠した年はかつてないほど大収穫となったのだ。
それだけではなく、風の精霊の月には穏やかな風が吹き、花すら満開に咲き誇り、火の精霊の月は程よい暑さで、毎年雨が集中する雨季ですら被害が出ない程度の雨量だった。
暑さも雲がかかり、また適度に降る夕立を受けて気温を下げてくれるせいか酷い猛暑と言うことも無く、雨不足になることもなかった。
結果、地の精霊の月には畑だけでなく森の恵も豊富となり、そのお陰で獣も増え、狩りも盛んになり、作物だけでなく肉も潤うという。
それからも同じような年が続いている。
レンシィが生まれてからは、年々満たされていく領民の幸福感。
それはもう無視できないほどになっていた。
「……もしも本当にレンシィが我が領地にそのような恵をもたらせてくれているのならば、10歳の年に王都で受ける加護の儀は、とんでもない事になるかもしれないな」
「うちの娘は凄い精霊の加護を受けるかもしれないってですか?」
もうしばらくすればキャンプ地と言うところで馬の速度を落とし、体力を温存させる。
場合によっては気が立っている難民と化した村人へ出来る限り刺激しないようにという配慮に加え、争いになった場合には馬を先に逃がすこともあるからだ。
「親バカですねぇ」なんてからかってくる部下に笑いながらも、エドウィンの意識は前方へと向いていた。
徐々に見えてくる白い天幕。
見えるだけでも数箇所に張られた天幕の周りには、こちらに気づいた数人の民がじっとこちらを見ていた。
誰かが呼びにでも行ったのか、奥から男らがまとまって出てくるのが見える。
やがてその地まで十数メートルという所まで近づいた所で、エドウィンらはふと気がついた。
遠目からでは分からなかったが、目の前に集まった避難民たちがやけに小綺麗なのだ。
汚れた様子のない服に身を包み、サラリとした髪を靡かせ、肌は白く土すら着いていない。
長く辛い徒歩での移動だったであろうにも関わらず、皆血色が良く目に力がある。
何よりその表情が、エドウィンたちが想像していたものと全く違ったのだ。
おそらく全ての避難してきた民が集まったのであろうキャンプ地の前、騎士団を迎えた人々は、誰も彼もが穏やかに微笑んでいた。
それだけでなく、大人たちの間から覗き見ていた子供らが数人「領主さまだ!お話どおりだぁ!」とはしゃいでいるのだ。
それを親が苦笑しながら窘めている。
母親に抱かれている赤ん坊はキョトンとした顔で、指を吸いながらこちらを見ているのだ。
一体どういうことか分からない。
昨日の部下からの報告では、遠い地から歩き続け食料も不足し、途中で魔獣に襲われたため怪我人も多く、村人たちは栄養不良で今にも死にそうな顔をしている者ばかりだったと聞いていた。
行く先々で受け入れを拒否され、助けを求めて伸ばした手を振り払われ、この次はもう命懸けで奪うしかないと覚悟しているだろうほどに追い詰められている様子だったと。
子供や老人など、弱い者から犠牲になったようで、キャンプ地にはほとんど姿を見かけなかったと聞いていた筈なのに。
目の前では随分と元気そうな老婆や老翁がニコニコと出迎え、子供たちが大人の間からわらわらとこちらの様子を見ている。
エドウィンは困惑しつつも馬から下りると、マルクスにその手綱を預け、人々の中心に立ち前に歩み出ていた壮年の男へと話しかけた。
「私はこの公爵領地一体を管理する役目を賜るエドウィン・レイ・グロウレン。そなたがこの民らの長だろうか?」
出来る限り威圧的にならないよう気を使いつつ、エドウィンは問いかける。
すると目の前の男はエドウィンの言葉に畏怖するでもなく、また警戒心など欠片も見当たらない破顔で応えた。
「はい、私はこの者たちが暮らしておりました村の小領主を務めておりましたグリム・マントルと申します。爵位は子爵位。クロウ領より彼の地を捨てて参りました」
その声は力強く、生気に満ちていた。
貴族社会において、下位の者から上位の者へ声をかけることは出来ない。
そのためエドウィンより問われるのを待っていたのだろう。
しかしそんな社交の常識など、一民らには分からない。特に子供たちには。
「わぁ!すっげー!ホントに公爵さまだ!」
「エドウィンさまって言ったよ!かぁちゃん!あのお姉ちゃんの言ったことホントだったんだね!」
「エドウィンさまだ!エドウィンさまー!」
「んん?」
どうやら自分のことを知っているらしい。
エドウィンは自分の名を無礼にも呼ばれることに腹を立てるでもなく、子供らへ軽くてを振り返した。
だが内心は軽く混乱している。
ケルトレイ国は決して小国では無い。
伯爵以上の上位貴族らが複数の領地を統治し、更にその中に子爵、男爵位の貴族らが小領主として土地を治めていることが多い。
自領のことであれば小領主だけでなく領主の名前や顔も領民は知っていることは多いだろうが、他領までとなるとそれは難しい。
王都に住まう城下の民なら確かに様々な貴族らが王都に専用の別邸を持ち、王城に上がる際にその別邸を利用するために話題に上がったり、顔を見たりすることはあるだろう。
だがそんな王都から遥か離れた地方の領地の民が、他領の領主の名前を知る機会はあまり無い。
ましてや好意的に対応されるなんて理由があるはずもない。
ふと子供たちの言葉の中に気になる単語を聞きつける。
「私のことを誰かから聞いたのかい?……お姉ちゃんとは?」
「こらお前たち!領主様に失礼な態度を取るんじゃないよ!」
「はぁい!」
「わぁ!逃げろー!」
しかし子供らの態度を見かねた母親が注意をし、それに首をすくめた子供たちはきゃあきゃあと笑いながら踵を返して大人たちの後ろへと逃げてしまった。
思わず引き留めようと片手を上げたが、それよりも早く見えなくなってしまい、行先を失った伸ばされた手はそろそろと下げるしかなかった。
そんなエドウィンの様子を見ていたグリムが、思わず苦笑混じりに謝罪をした。
「申し訳ありません、グロウレン公爵。なにぶん礼儀知らずの下民の子供らですので、御容赦頂けますと」
「…あぁ、そこは気にしない……んだが……」
気になるのはそこではなく。
そう告げたいのだが、では何が気になるのかと言うとひとつふたつでは到底収まらず。
エドウィンはしばらく口を引き結び逡巡すると、グリムへ問うた。
「そうだな、まずは話がしたい。これまでのことを聞き、これからの事を決める。それには時間が必要だ。改める場が欲しいがどこかあるだろうか」
エドウィンの言葉にグリムは深く頷き、その身を避けるように半身引くと、手を奥へと差して案内を取った。
どうやらキャンプ地の奥へと通してくれるようだ。
「少し先に開けた場があります。どうぞそちらへ。騎士様方も」
「……馬を預ける場はあるか?それと荷を5台ほど運んでいる」
「そのままお連れください。天幕の合間に繋いでくだされば、馬も騎士様たちと離れずに済んで安心するでしょう」
馬は繊細だ。
慣れない場で、見知らぬ人間に囲まれればストレスを感じ、時に暴れたりすることもある。
その事を知っているのだろう。
エドウィンは後ろに従っていたマルクスに視線を向けると、彼も軽く頷く。
「ありがたい。馬を繋ぐものはあるだろうか」
「問題は無いと思います。どうぞ」
そうして案内されたのは、天幕が集まる真ん中程に開かれた、真ん中に焚き火を起こせるよう丸太を切って向かい合わせに置かれている広場だった。
椅子替わりの丸太と丸太の間には、火を起こした後なのだろう填めた跡がある。
調理もここでしているのかもしれない。
だが何より驚くべきは、その広場になっている至る所に、人の背よりやや高い程度の若々しい木がいくつも立っていることだった。
ランダムに見えて、しかし決して邪魔になる位置にはない。
そしてその木々らには全て、薄紅色に熟れた果物が成っているのだ。
唖然としていると、エドウィンの目の前で1本の木に近づいた子供がその果物をちぎり、そのまま口へと運んでいた。
ニコニコと美味しそうに咀嚼をしている。
子供は更にもう1つちぎると、あとから寄ってきた弟らしいもう少し幼い子供へとそれを手渡している。
とても飢えて食べ物の取り合いをするような状態ではない。
「どうぞ、公爵様。このようなみすぼらしいところで申し訳ございませんが」
「……いや、気にしなくていい。それよりも」
勧められた丸太の椅子に腰を下ろすと、エドウィンは前に座ったグリムへと真っ直ぐに向かい合った。
「分かっております。お話しましょう。我々がなぜこのような事になり、そして今に至るのか。詳細に、全てを」
その言葉に、エドウィンは頷いたのだった。