38.子供のサイン
少しでも楽しんで頂けますと幸いです
久しぶりに邸宅へと戻って食事を共にできたと、エバはクロノスの顔を見ながらニコニコと話した。
昼食だけではあるが、忙しい母が自分のために何とか時間を作り、食事を共にしようとしてくれることはクロノスの心にも淡い光を灯す。
それは朝から「今日は昼には一旦帰れそうだ」と母が出掛けしなに告げた時から、昼までずっと楽しみにしていた。
ご機嫌で笑いながら母の帰りを待つクロノスの姿に、邸宅内の使用人たちも微笑ましげに眺めていたのだ。
午後からであるはずの家庭教師が、予定よりも随分と早く訪れるまでは。
「少し時間が空いたので、クロノス様のテーブルマナーも拝見できるかと思いまして」
そんなことを言いながら昼食の場に同席させて頂きたいと希望されれば、誘わないわけにもいかない。
急遽ダンダル卿の分まで昼食を用意させると、エバの座る最上座の左右に向かい合うように、クロノスとダンダル卿が座り食事が始まった。
その時点で、楽しみで仕方なかったはずの母との食事の場が、クロノスにとっては苦痛と恐怖でしかなくなってしまった。
「クロノス? どうしたの? あまり食べてないじゃない。食欲がないの?」
「あ…いや、大丈夫だよ」
「もしかしてまた具合が悪いの? どこか苦しいところでも?」
「大丈夫! ホントに大丈夫だから……」
以前、毒によって生死の境をさ迷ったからか、エバは特にクロノスの食事には敏感だった。
いくら毒が怖いからと言っても、食事を取らなければ人は死んでしまう。
そのため、クロノスの食事は信用出来るこの邸宅の執事がセッティングまで行い、クロノスの目の前に並べられた時点で毒味役2人によって毒味をしてからようやくクロノスが食べられるという徹底ぶり。
しかもクロノスは必ず食事の席には、以前レンシィに貰った精霊珠を身につけるよう、エバに強く言われていた。
レンシィの言葉が確かなら、これほど警戒していても毒を混ぜられてしまった場合、もしくは遅効性の毒で、毒味役が異変に気づくのが相当遅くなってしまった場合だとしても、1度はクロノスが助かるはずなのだ。
そのうえで、クロノスの食事量が減ったり、顔色が優れなかった場合には、再び体調が悪化したのかと過剰に心配する。
そういう母の姿を見るからこそ、クロノスは余計な心配を掛けたくないと強く思うようになったのだ。
何より、やっと最近よく笑うようになってきたエバのその表情を、再び悲しみの色に染められてしまうのは嫌だった。
だから、何もかも上手くいっているかのようなフリをする。
エバが心配することなど、何も無いのだと言いたくて。
「…さっきちょっとおやつをつまみ食いしちゃったんだ。だからあんまりお腹が空いてなくて……ごめんなさい……」
「まぁ! そうだったのね! お腹がすいていたのね、食いしん坊さんね! いいのよ、無理しないで。食べられるだけ食べなさいね。でも今度からご飯の前におやつはダメよ?」
「はい……お母様……」
ふと顔を上げれば、自身の家庭教師がニッコリと笑ってこちらを見据えているのが分かった。
クロノスの肩がビクリと小さく震え、持っていたフォークが皿の端にカチンと当たって音を立てた。
途端に、ダンダル卿は笑みを深くし、エバへと問いかける。
「昼食が進まないのであれば、ディナーに回してはいかがでしょうか。ちょうどそろそろテーブルマナーの講義の時間も取らなければと思っておりましたので、この機会にディナーの時間を使わせて頂き、指導しようと思うのですがよろしいでしょうか」
「まぁ! それはいい考えだわ! 問題ないわ、使ってちょうだい。残念ながら私はまた地方へと向かわなければいけないから、席を一緒にするのは難しいのだけれど」
テーブルマナーは貴族社会において、何よりも基礎中の基礎だ。
そのため家庭教師が指導する項目としては当然入ってくる。
実際のテーブルの席で、どのように振る舞うのかを教えていくもので、そのため食事の席を何度か授業に変えることはよくある。
今回の提案は、家庭教師としてはおかしくは無いものだ。
クロノスがダンダル卿の言葉を聞いて、怯えた様子を見せなければ。
「…クロノス? どうしたの? 顔色が悪いわ、まさかまた具合が?」
明らかに先程よりも俯いて小さく肩を竦めた姿に、さすがのエバも気付いて声を掛ける。
そんな母を見上げはしたものの、何を口にしてよいか分からず、クロノスは数回口をハクハクと動かしただけで、再び俯いてしまった。
頭の中を巡るのは、あの時にダンダル卿から言われた言葉だ。
(……もしもバレたら……お母様の迷惑に……?)
ダンダル卿の授業で課題をクリア出来ない自分を知られたら、どうなるのか。
家門の恥だと思われるのか。
どこかで「もしかしてそんなことはないのではないか」と疑いの心は残っているものの、万が一本当にエバから侮蔑の目でも向けられたらと思うと、なかなか自分の辛さを口に出せない。
「大丈夫……全然大丈夫……元気だよ……」
「貴方のその様子のどこが元気だと言うの!? さっきの食事にまさかなにか混ざって」
「本当に大丈夫だから! なんにも無かったよ! 美味しかったよ!」
すぐに料理長とメイド長を呼んで来させようと、控えていたメイドへと視線を向けたエバを、クロノスが立ち上がって慌てて止める。
本当に、料理には罪は無いのだ。
だがエバが納得するわけが無い。
確かに具合が悪そうには見えないのだが、やはりどこかおかしい。
エバは席を立ってクロノスの側へと寄ると、視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「それなら一体何があったの? 貴方のさっきの様子は普通ではないわ」
「……あ…………僕……」
「何か、それほどまでに動揺することがあったんでしょう? お母様に話してみてちょうだい」
息子の様子がおかしいのは体調ではないと分かったのだろう。
そっとクロノスの顔を覗き込んだエバは、別の何かがあるのだろうと問い方を変えた。
それに、僅かにクロノスが反応する。
視線をウロ、とさ迷わせたのは、迷っている反応だ。
クロノスの様子に口を出さず、しばらくエバはじっと耐えて待った。
母親の真剣に心配してくれる様子に、迷いを見せつつもクロノスが口を開こうとした時だった。
「クロノス様は、以前グロウレン公爵家にいらっしゃった際に、テーブルマナーで失敗したことを思い出してしまったんですよね? そうでしょう?」
静まり返っていた室内に、ダンダル卿のゆっくりとした言葉が突然転がり込んだ。
その声に、今度こそクロノスの肩がビクリと反応する。
自分のその反応にすぐさま慌ててエバを見たが、エバの視線はダンダル卿へと向けられており、その瞳には不快を表すかのような色が帯びていた。
「どういうことです? ダンダル卿。うちの子が何か公爵家で粗相を?」
訝しげに、だが若干焦る様な色も交えた問いかけに、ダンダル卿は大様に頷いて見せた。
「先日、授業をした際にクロノス様が教えてくださったんですよ。グロウレン公爵家でとても恥ずかしい思いをしたと。だからしっかりテーブルマナーを学び直したいのだと。それが若干トラウマなのでしょう。子供の心は傷つきやすいものです。ユースベル夫人からの引き継ぎの書類にも書いてありましたので」
声音は穏やかで、言葉はゆっくりであるはずだと言うのに、ダンダル卿の説明する声は、なぜかヒヤリと背筋を何かがなぞり落ちるかのような感覚を覚える。
クロノスは口を軽く開いてはいたが、そこから先の声が出なくなってしまった。
「ではグロウレン公爵家の皆様にご迷惑をお掛けしたのではないのですね?」
胸を撫で下ろすエバに、ダンダル卿は笑みを深くして頷いて見せた。
「クロノス様がそのようなことをするはずもございません。私の授業でも特別優秀ですのに、浅慮な行いはなさるはずもありませんよ」
「そう! そうよね、私ったら……そんなことを気にしていたのねクロノス。大丈夫よ、貴方は今からお勉強するのだから、すぐに覚えてしまうわ! 失敗することくらい誰でもあるの。気にしなくていいのよ」
エバはクロノスが初めての失敗に躓いてしまったと思い、思いつく限りのフォローを口にする。
だがクロノスは俯いたまま黙り込んでしまった。
その様子に再度問いかけようとしたエバへ、ダンダル卿はすかさず話しかける。
「すみません、お母様に知られたくなかったのかもしれません。男の子のプライドもありますからね。勝手に話すべきではなかった」
「あぁ、そうね……ごめんなさい。とにかく今日のディナーできちんと学べればと思っているわ。ダンダル卿、お願いするわね」
プライド、と言われて思い至ったのだろう。
子供とはいえ、矜恃は大切にしなければいけないと貴族位を預かるものとしては理解している。
エバはそれ以上触れることなく、すぐさま自身の席へと戻った。
その母の背を、微かに「……あ」と声を漏らして名残惜しそうに見送ったクロノスは、しかし自分を見つめる鋭い目にすぐに気づき、再び俯いた。
楽しそうに笑っているダンダル卿の、その内心を敏感に感じ取りながら。
読んで下さってありがとうございました