37.主のことには敏感
少しでも楽しんで頂けますと幸いです
『家庭教師……なの……』
そう呟くように教えてくれた土の下位精霊は、レンシィの手のひらの上で俯いていた。
「貴方が加護を与えた子が、家庭教師だというの?」
レンシィの問いに、精霊はコクリと頷く。
部屋へと戻る道すがら、見かけたメイドに庭園のティーセットを下げるようお願いをすると、レンシィは自室へと急いだ。
途中で使用人たちから幾つも声をかけられるが、笑顔で答えるのみに徹する。
今はゆっくりと立ち止まって話すには都合が悪いのだ。
ようやく辿りついた自室のドアを開け、中へとはいると、ベッドメイキングされた整えられているベッドの上へ、手のひらをそっと乗せた。
そこから降ろされたのは、今まで大事に両手で包んでいた土の下位精霊だ。
下位精霊は上位精霊ほどに知能は高くない。
元々意志の伝達もたどたどしく、基本的には感じるまま、素直に反応する程度だ。
そんな下位精霊が、これほどまでに懸命にレンシィへ訴えているということは、それだけ辛い状況なのだろう。
「……でも家庭教師だと、夜に行っても不在ね」
授業は大抵昼間だからだ。
実践訓練としてパーティーへ共に参加し、直接マナーを教えるという方法を取る家庭教師もいるのはいるが稀である。
何より、虐待の現場を確かめるには、直接その教えてる場を見なければ話にならなかった。
しばらく悩むと、レンシィはベッドに立ち、こちらを見上げてくる土の下位精霊へと尋ねた。
「貴方の目を、貸してもらえるかしら?」
言葉の意味は精霊であるが故にすぐに分かったのだろう。
下位精霊がその授業の行われている場へと再び赴き、その視界をレンシィにも見せるというものだ。
アトラスの父親の時にもやった方法だ。
だが今回少し違うのは、その光景を見続けていたがために下位精霊は悲しみ、疲れ切っていたということだ。
見たくないものを再び見ることになる。
どんなに止めてと叫んでも、届くことはなく、無力さを思い知る。
そんな目にもう一度遭わなければいけないのだ。
それが出来るかと、レンシィは問うた。
下位精霊は眉を寄せたが、しっかりと頷くと空へと飛び上がる。
『レンシィ様、ありがとう。やる……あの子……』
その光を纏う小さな身体はくるくるとレンシィの頭上を何度か飛び回ると、フッと溶けるように消えた。
おそらくニルヴァーナ伯爵邸へと戻ったのだろう。
もちろんレンシィのように時空の精霊である時計などに頼めるわけもないのだから、直接移動するしかない。
あの下位精霊が懸命に飛んでニルヴァーナ伯爵邸へ戻るのは少し時間を要するだろう。
その間に、レンシィは準備をしておこうと考えた。
家庭教師である土の下位精霊の加護を受けた人物をどうにかするならば、まずはその場へと行かなければならなくなるが。
「…………急にいなくなったら、びっくりするわよね」
父親のために、領地の遥か端へと向かった時には、身代わりの人形を作ってベッドで寝ておくように指示を出した。
しかし今回、レンシィが邸宅を抜け出したい時間は日中。
流石にずっとベッドで寝ておくのは不自然だ。
下手をすれば具合が悪いのかと心配されそうである。
しかし所詮、ただの人形なので、応用は効かない。
名前を呼ばれて振り向きはするものの、何かを話しかけられても声を発することはなく、むしろニコニコと笑っているだけなので不気味に見えるかもしれない。
かと言って素直に出掛けたいと誰かに言えば、絶対にお供を連れていけと言われる。
公爵家の令嬢が、本来1人で出歩くなど言語道断だからだ。
お供はレンシィ付きの従僕であるアトラスだろう。
プラス護衛騎士が2人程度だろうか。
いつも外出する時にはこの態勢のように思う。
市井の屋台ではしゃぐのはいつもレンシィで、アトラスは見慣れていると言っていた。
「……んー……でもまぁ、ダメ元で聞いてみようかしら」
町へ行きたいので出かけてもいいか。
決して行くなとは言わないだろうが、それでも1人でなんてとんでもない。従者たちを連れていけと言われる。
ならやはりこっそり抜け出していくか。
うんうん悩んでいると、不意に部屋のドアがノックされた。
気配からして慣れ親しんだ者であるが故に、若干鈍感になってきており、警戒心を解いている時は近くに来なければ気配を感じとれない。
「失礼します、お嬢様。どうかなさいましたか?」
「あらアトラス。どうかって?どういうことかしら?」
レンシィのとぼけた質問に反応することなく、アトラスは淡々と告げる。
「庭園のティーセットを他の使用人へ片付けるよう命令されていらっしゃいます。いつもであれば、マリアベルか僕が時間をずらして迎えに来るのを待っててくださいます。菓子が残っていた場合、その場に残していくのではなく、部屋へと持って帰られますね。ですが今日は慌てていらしたようで、そのまま置かれておりました」
思っていたよりも詳細にバレている。
おかしい、アトラスは精霊の目を使って、遠くの場面を見ることなどできないはずなのに。
「何かあったために、急いで部屋へと戻られたと思わざるを得ません。ですが我々には何もお命じになられない」
思わざるを得る必要は全くないというのに、随分と鋭い従僕だ。
将来成長し、本当に執事になった際、どれ程になるか今から空恐ろしい。
「レンシィ様、聞いてらっしゃいますか?」
全く関係ないことをぼんやりと考えていたレンシィは、目の前で再び名前を呼ばれて我に返った。
「もちろん聞いているわ」
「それはようございました。それで、一体何があったのかお話してくださいますね?」
なぜ断定されるのか。
こうなったら基本的にアトラスは絶対譲らないのだ。
それはレンシィもよく知っている。
なにせ産まれた時からの付き合いなのだから。
こんな所は、エドウィンを前にしたウォークマンと本当によく似ている。
ウォークマンも主であるエドウィンに何かあった際、絶対に譲らない姿勢で押し通すことがあるのだ。
使えている主のためを思えばこそなのだろうが。
「…………そんな姿勢までウォークマンの真似をしなくてもいいのよアトラス」
「僕の目標はウォークマン様のような執事になることですから」
何よりも、主と認めた者の安全と益を最優先に。
その姿勢は見上げたものではあるし、レンシィの立場としては最高の従僕と言えるのだが。
(……まぁ、アトラスも無関係かといえばそうでは無いかもしれないけれど……)
事実確認はまだ出来ていないが、異母兄の事だとすれば関係者ではある。
レンシィはちらりと先程まで土の下位精霊がいたベッドへ視線をやった。
そして軽くため息を着くと、あくまでもまだ確認前だと前提を置いて、アトラスへ説明するために口を開いたのだった。
ここから更に誤魔化して、アトラスの目を掻い潜って邸宅を抜け出すのが果てしなく面倒だと思ったことが、正直に話すことを決めた一番の理由ではあったのだけれど。
読んでくださってありがとうございました!