34.教師にも天と地の差がある
少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。
クロノスは初めてグロウレン家の邸宅を訪れた日から、1年近くグロウレン領へ留まることとなった。
ニルヴァーナ家の当主が横領の罪で捕らわれ、様々な手続きや調整、運営の立て直しの基盤の再構築など、エバにはやらなければいけない事が山のように重なっていたためだ。
エバだけでなく、執事やメイドも新しい当主のサポートと自領の改善に全力を尽くすこととなる。
そうなるとどうしても人手が足りなくなり、細部にまで目が行き渡りにくくなるのだ。
幼い上に先日まで寝たきりとなっていたクロノスは、自身の邸宅では十分なケアを受けられないのではないかと心配していたエバに、グローリアが落ち着くまではクロノスをグロウレン家に預けてはどうか、と提案したのである。
この1年は、同い年であるレンシィやアトラスと共に、レンシィ1人に着くはずだった家庭教師から授業を受けていた。
貴族家の多くは8歳や9歳から本格的に指導、教育を始めることが多い。
理由は、10歳の加護の儀の直後に王城で開かれる記念パーティーが、殆どの子供たちのデビュタントになるからだ。
そのため知識を詰め込み、マナーを身につけ、ダンスの技術を初めて披露する場となり、加護を得た精霊の次に子供たちが注目される一大イベントだったからだ。
このような事を恙無くためには、短期間での付け焼き刃は自殺行為である。
そのため親は余裕を持って学べるよう、1年から2年前には家庭教師を探し出し、依頼するのだった。
ユースベル夫人は社交界でも名だたる指導者であり、教育を望む家庭が多すぎるために指導者として受けてくれることはかなり困難だと聞いていた。
だと言うのに、エドウィンの話ではユースベル夫人はグロウレン家の依頼に二つ返事で了と答えたらしい。
余程グロウレン家の力が強いのか、それとも彼女の琴線を擽る何かがあったのか。
1日おきに夫人の講義を受けることとなり、それならせっかくだからと同い年であるアトラスとクロノスを誘ったのはレンシィだ。
滅多に講師として得られる人物ではないと聞き、レンシィはそんな人物からの講義を受ける機会を自分一人で済ませるより、複数人で受けた方がいいじゃないかと提案した。
貴族のステータスの中に、どの家庭教師に子供を指導させたかも含まれてくるだけに、自身の子だけを指導させたがる貴族が多い。
だがレンシィの両親は、それはいいアイディアだと同意して兄弟2人を追加で依頼したのだ。
ユースベル夫人は多少驚きはしたものの、笑顔で「いいですよ」と答えてくれた。
それから幾度かの授業が過ぎる中、クロノスはとても有意義に勉強の時間を得られていた。
時に3人で真剣に講義を聞き、時には課題に対して意見を出し合ったり。
ユースベル夫人の教え方も丁寧で分かりやすく、そして質問に答えられた際にはオーバーと言えるほどに褒めてくれ、授業が楽しくて仕方なかった。
夢中で勉強出来たと言っていい。
1年後、自領の邸宅に呼び戻される時までは。
「クロノス!お帰りなさい!ごめんね、お迎えに行けなくて」
「お久しぶりですね、クロノス様」
ようやく領地も落ち着いたと連絡が来たクロノスは、惜しい気持ちはあるものの母の元へ帰ることにした。
グロウレン家での生活も楽しく有意義なものであったが、やはり最愛の母親に会いたい気持ちは何よりも強い。
自分の家である邸宅へ帰りついたクロノスを待っていたのは、嬉しそうにクロノスを出迎えてくれた母親と、その隣でニッコリと笑っている覚えのある顔だった。
「…………ダンダル卿……」
つい先程までその存在すら忘れていた、以前からの自分の家庭教師である男がその場に居て、母と共に迎えに出てきたことに、クロノスは唖然として立ち止まる。
その姿を見て、エバが訝しそうにクロノスの顔を覗き込んだ。
「クロノス、どうしたの?驚いているの?ダンダル卿のことを忘れた訳では無いでしょう?あれ程お世話になっていたというのに」
「構いませんよ奥様、子供は目の前のことに夢中になって、過去のことなど簡単に忘れてしまうもの。またこれから覚えていけばよろしいのです」
「えぇ、そうですわねダンダル卿。……悪いけれど、夫人と呼ぶのはやめて頂けるかしら?私はもう誰かの妻ではないわ」
「これは大変失礼致しました!昔からの癖でつい」
そう言いながらエバの前で跪くと、その右手を取り、そっと口付けた。
エバの顔は少しだけ不快そうに歪んだが、振り払うことはしない。
貴族社会の中では当然のマナーであると分かっているからだ。
「エバ様、この度ご子息のお身体が回復致しましたこと、心よりお慶び申し上げます。これからは私も以前にも増して授業に力を入れ、必ずや立派な紳士となりデビュタントを迎えられるようになりますこと、お誓いします」
「……そうね、しっかりやって頂戴」
クロノスには何やら含みを持たせた物言いに聞こえたが、エバは特に気にならなかったようだ。
取られていた手をパッと下げると、手に持つ扇子で口元を多いつつ、再び教育を任せるとダンダル卿へ告げた。
家庭教師として信用はしているが、ダンダル卿は何故か以前からエバへの接触が過剰なのだ。
人妻だと分かってるはずであったのに、やけにエバに触れたがる。
今回正式にニルヴァーナ卿との離婚が決定し、更に遠慮が無くなったように思えた。
ダンダル卿の含みのある言い方に、クロノスの俯き僅かに肩が震える。
ニコニコと愛想良く笑いながら立ち上がったダンダル卿へ、エバはグローリアから直接預かった引継ぎの書類を渡した。
それはこの1年間、ユースベル伯爵夫人が行ってきた教育と、授業の進み具合。そしてクロノスがどこまで身につけているかを詳細に書いた報告書だった。
一通り先に目を通したエバは、随分とユースベル夫人のおかげで息子のマナーや勉強が進んでくれたことを知った。
あとは復習をして、応用などを覚えていけば来年のデビュタントには十分に間に合うだろう。
さすがは有能な家庭教師と名高いユースベル夫人である。
その引継ぎ書を、ギリギリと強く握りしめているダンダルに、エバは気づくことも無い。
「さぁ、クロノス、今日は疲れたでしょうから、授業は明日からにしましょう。部屋に戻って着替えたら、少し休んで食事にしましょうね」
「……あ、はい……お母様」
「ではエバ様、私はまた明日お伺いすることに致しましょう」
「あら、ダンダル卿もご一緒に召し上がるかと思っておりましたのに」
この場を切り上げようとしたエバを察し、大人しく引いたダンダル卿へ、エバはわざとらしく声をかけた。
この家庭教師が嫌いな訳では無いのだが、一人息子との久しぶりの再会にゆっくりと時間を楽しみたかったのだ。
そんなエバの心情を、ダンダル卿はよく理解していた。
家庭教師の大半は、子供より親の気持ちに敏感だ。
雇い主は親であると同時に、自身の評価をし、話を広めるのも親なのだから。
請け負った子供の成長は、自身のステータスになる。
そう考える教師は、残念ながら少なくはなかった。
エバ自身も何となくダンダル卿のそんな態度を感じ取ってはいた。
なにせクロノスが5歳の時からずっと雇っていた人物なのだ。
付き合いが長ければ、見えてくるものもある。
クロノスが毒に犯されてからというもの、一時期家庭教師の契約を停止していたが、今回体調も改善し、また邸宅に戻ってくることも決まったため、再度教育を頼むことにした。
親の顔色を伺う教師だと感じてはいても、実際ダンダル卿の評判はなかなか悪くないのだ。
そんな彼を、理由もなく再び雇わないというのは体裁が悪い。
評判がいいということは、彼にも相応の人脈があるということなのだから。
「今日は頂いたこの引継ぎ書を、しっかりと読み込んでおきたいと思っておりますので。明日から授業を開始するのであれば、済んだものの復習から始めた方がよろしいでしょうし」
「まぁ、そうね。お願いするわ」
息子のために尽くしてくれると言うのであれば、エバも悪い気はしない。
だがクロノスだけは、その視線から目を離すことが出来なかった。
ユースベル夫人の引継ぎ書を手に、僅かに顔を歪めて笑ったダンダル卿の。
「どれほど素晴らしく成長されたのか、楽しみですよ。明日から、授業がとても有意義になりそうだ」
ニッコリと笑い、それでは失礼しますと頭を下げてその場を辞するダンダル卿。
彼が自分を見る瞳が、以前から何も変わっていない……否、以前よりも更に鋭さを増したように感じたクロノスは、1度だけ母親へ強くしがみついた。
「…………お母様……僕……」
「さぁクロノス、早く中へ入りましょう。お風呂にも入ってしまいなさいな。そうしてゆっくりと2人で食事にしましょうね」
見上げた母親の、今まで見たことがないほどに安心しきった笑顔を前に、クロノスは何も言えなくなってしまったのだった。
もう二度と、母の顔を心配で曇らせたくなくて。
読んでくださってありがとうございました!