32.幼い疑問
少しでも楽しんで頂けると幸いです
クロノスが最初に光を感じたのは、毒に犯されて意識が朦朧としている最中だった。
以前から精霊の気配には敏感だと自覚はある。
ケルトレイ国は他国より精霊の恩恵を受けているためか、精霊に対する信仰がより強かった。
目に見えない存在ではあるが、それでも確かに近くにいる大切な隣人。
その不思議な気配は人の心を落ち着け、癒してくれる作用があるとされている。
クロノスが産まれた頃は、まだ自身の近くにも常にその隣人たちの気配を感じ、あやしてもらっていたようだった。
それがいつからだろうか。
少しずつ邸宅の中からその気配が減っていき、やがて闇の中に1人佇んでいるかのような静寂が満ちたのは。
ニルヴァーナ家は元来、水の精霊たちに加護を貰うことが多い家系だ。
水の精霊は下位精霊だとしても、光の精霊の次に癒しの力を持つ。
例え強い毒性のものが身体に入ってしまっても、ゆっくりとではあるが水の精霊たちが自然と解毒をしてくれる。そんな家系だった。
クロノスが致死量の毒を飲まされたというのに一命を取り留めたのは、まだ水の精霊たちの恩恵を受けていたからに過ぎない。
しかし倒れてしばらくまではじわじわと助けてくれていたものの、徐々にその気配は消えていき、遂には全く感じられなくなってしまった。
精霊たちの気配が消えること。それは精霊に見放されていることを意味する。
一体なぜ、精霊たちはニルヴァーナ家を見捨てたのだろうか。
その理由を知るには、クロノスはまだ幼すぎた。
人より精霊の気配を察しやすいその小さな身体には、ただただ少しずつ消えてゆく安心する気配の喪失だけを、黙って感じていることしか出来なかったのだった。
「今日は精霊と魔法の基礎について学びましょう。初日ですので、どうかリラックスして頼んで頂けますと幸いですわ」
そう告げて教鞭を持つのはカタリーナ・ユースベル伯爵夫人だ。
目の前には幼い生徒が3人。
グロウレン家の嫡女、レンシィ。
ニルヴァーナ家の次期当主、クロノス
そしてニルヴァーナ家の次男であるアトラスだ。
レンシィとクロノスは「よろしくお願いします」と笑って席に着いたが、アトラスは困惑顔でその後に続いた。
「……どうして僕まで……家庭教師など貴族の子供が受けるものではないのですか」
「あら、貴方も貴族の子供ですわよね?何もおかしくなくてよ」
「そうだよ、だって僕の弟じゃないか。将来のために、しっかり学んどかないとね」
「将来のためとはなんですか僕は執事になるんです」
居心地悪そうに座っているアトラスに、レンシィとクロノスは何も問題などないと言わんばかりだ。
「もちろんその夢は応援してるわ。だからこそどんな知識でも得ていくべきではなくて?ウォークマンは主であるお父様の補佐として、様々な教養を持っていますのよ。ウォークマンのように、幅広い知識を得てこそ完璧な執事になれると思いますのよ」
レンシィの言葉に、アトラスがピクリと反応した。
流石というかなんというか、レンシィは押さえるべき所をよく分かっている。
アトラスは何よりも「ウォークマンのように」という言葉に弱いのだ。
何より〝執事として〟当然だと思う技能知識はどこまでも探求する性格。
その言葉を出した時点で、レンシィの勝利は決まっていたのかもしれない。
しかもそこにユースベル夫人が追い風を与える。
「グロウレン公爵家の執事はとても有能博識と聞きますものね。なんでも精霊のことにもとても精通していらっしゃるのだとか。うちの侍従たちにもぜひ見習って欲しいと思っておりますのよ」
「そうでしょう?ウォークマンは私がどんな質問をしても答えてくれますのよ」
「さぁ授業を始めてください」
アトラスはすぐさま席に着くと、セットしてあったペンを手に持った。準備は万端だ。
それまで渋って机の前に立っているだけだったというのにこの変わりよう。
流石はアトラスだと、レンシィはクロノスと目を見合わせて吹き出したのだった。
教科書を開くと、意外と文字だけではないことを知る。
聞けばこの教材にしている本は、幼い子供にも分かりやすいようにと、絵をふんだんに取り入れているらしい。
貴族の子供は大抵が家庭教師から。
庶民であれば、その村がある教会が、子供たちに文字を教えつつ、この世界の精霊との歴史や基礎を教えていくのだ。
「元々精霊とは、万物全ての者に宿る聖なる魂の事です。生き物と分類するのか、それとも精霊力の塊のようなものだと捉えるべきなのか、それは未だに判断できません。精霊を見ることが出来る人物は極端に少なく、その中でも精霊と意思疎通出来るのは聖女のみだとされているからです」
「聖女?」
またもや聞き覚えのある言葉に、レンシィが思わず聞き返す。
だがユースベル夫人は軽く肯定した程度だった。
「そうですわね、聖女の話もこの内容に関係はしてきますが、まずは基礎から覚えていきましょう」
教科書を広げるように指示をされ、3人はパラパラと捲る。
そこには様々なマークと、貴族院へと提出する際にも使用するジェノグラムによく似ているものが書かれていた。
ひとつ違うのは、頂点から下の方へ行く過程には、ジェノグラムでいう婚姻関係のようなものが一切見られなかったことだろうか。
それはまるで木が地面の中へ根を張り広げていくかのような図だ。
ユースベル夫人は子供たちに見えやすいようにと、教科書のページを開いて翳しながら、ひとつずつ丁寧に説明していった。
「この頂点にいらっしゃる方が、この世の全ての精霊を束ねていらっしゃる光の精霊です。その下に上位精霊とされている、火、水、風、大地。更にそこから枝を広げて、中位精霊となって、最後に下位精霊となります。中位精霊より上の精霊には名前をお持ちだと聞きますし文献にも記載されていますが、残念ながらこの文字を読み上げることが出来た方はほとんど居ません。おそらく精霊界の文字ではないかと言われています」
上位精霊から下位精霊までの図をゆっくりなぞるように詳しく説明してゆく。
「私たちはこの精霊に加護を頂くことで精霊の力を分け与えて頂き、その属性に因んだ魔法を使えるようになるのです。ここで注意すべきは、加護を頂くのが上位の精霊であればあるほど、それより下の精霊が有する魔法を使えるようになります。例えば火の中位精霊より加護を頂くことが出来れば、火力が相当な攻撃魔法だけでなく「下位精霊が使える全ての低位魔法が使える」ことになりますのよ」
しかし逆に下位の精霊からしか加護を得られなかった場合、その下位精霊がもつ力の魔法だけが使えるようになるらしい。
生活に根付いた魔法というものは、本来そういうものだったという。
「大抵の人が中位精霊以上の精霊から加護を頂くことはできません。10歳の加護の儀の際、呼び出しに答えてくれるのは基本的には下位精霊です」
火を起こす力。
灯りをともす力。
水を湧かせる力。
お湯を作る力。
そよ風を起こす力や、植物が育ちやすくなる力など。
基本的にはそのような魔法ばかりだ。
故に別名「生活魔法」とも言われている。
だがその生活魔法が使えるだけで、間違いなく日常は激変するだろう。
とても便利なものだ。
精霊が人に与えているものは、本来そのように人の生活を豊かにしてくれるものだった。
「どのような加護が与えられるかは、私たち人間にはわかりません。精霊は特に気まぐれで気分屋と言われています。中には精霊に加護を与えられない人もいたと聞きますの」
「加護を与えられなかった人はどれほどいるのでしょうか?」
レンシィの質問に、ユースベル夫人は少しだけ迷う素振りを見せたが、授業なのだから正しく、真実を教えていかなければと思ったのか。
「あまり大きな声では言えませんけれど」と前置きしつつ、説明した。
「加護の儀で精霊から加護を頂けない方は、過去に何人がいらっしゃいました」
レンシィの問いに、教科書を1度閉じて俯き、少しだけ眉を寄せた夫人が密やかな声で答える。
それほど稀ということなのだろうが、結果彼らの末路は相応となるようだ。
「加護を与えられない者は、産まれる前から瑕疵があると判断されるそうですわ。私は直接そのような方を見たことは未だありませんが、中にはその……子供を捨ててしまう親もいるのだとか」
「加護を得られなかった程度で?」
ギョッとして声を上げたレンシィに、ユースベル夫人は何とも複雑な表情で頷いた。
10年間、愛し育ててきた子供を、精霊から加護を得られなかったというだけで瑕疵があると判断し、捨ててしまう親がいるなど。
もちろんレンシィとてとてつもない年月を精霊王として生きていれば、人間の親が子供を虐待したり、冷遇することがあるのは分かっている。
おそらくそんなにも簡単に子供を捨ててしまう親ならば、そういった者達と同じなのだろう。
精霊は気まぐれだと分かっているはずなのに、その気分次第で加護を与えるかどうかすら軽く決めているだけかもしれないというのに。
(そういえば、下の子たちがどうやって人間に加護を与えるかは気にしたこと無かったわね。私はただ気に入った人間にだけしか呼び出しに答えることもしなかったし)
だからと言って、レンシィ自身が気に入ることのなかった人間に何らかの瑕疵があるなどとは考えていない。
おそらく下位精霊たちもそうなのではないだろうか。
それを人間たちが勝手に、精霊から加護されないということは何らかの罪を背負っているのだと決めつけているだけ。
「馬鹿らしいことですのね」
「お嬢様!?」
淑女らしからぬ物言いに、ユースベル夫人が驚いてその名を呼ぶ。
だがレンシィは言葉遣いこそ丁寧に、しかし内容は苛烈に切って捨てたのだ。
「精霊の加護が得られないからなんだと言うのでしょう。その機会が今生でただ1度きりという訳でもありませんのに。なにより加護などなくとも生きていくことに支障はありませんでしょう?その方の人生に、何の価値を付加して下さるといいますの?」
「お嬢様、どうかそのような事をこの場以外で口にされるのはお控えくださいませ。この国は特に精霊に対する信仰が強うございます。もし口さがない者に聞かれれば、どのように広められてしまうか」
ユースベル夫人が手を組み、祈るようにレンシィへ上申する。
レンシィの左右では、クロノスとアトラスが軽く目を見開いて凝視していた。
読んでくださってありがとうございました!