3.令嬢としての日々
庭園の中央から少し入った緑のアーチを潜り、木製の細工が施されたガゼボに腰をかけていると、少し離れた場所から己を呼ぶ声が聞こえた。
「レンシィ、レンシィ? どこにいるの?」
「あら、お母様の声だわ。マリアベル、案内してきてちょうだい」
「承知致しましたお嬢様」
レンシィの乳母であるマリアベルに声を掛けると、ガゼボから少し離れた所に控えていた彼女は軽く一礼をして声の方と向かった。
その背中を見送り、レンシィは手元に集まる光の欠片たちへと声を掛ける。
否、正確に言えば、レンシィの元へと集まっている、下位精霊たちだ。
「お母様が呼びに来たから、今日はもう貴方たちの相手は出来ないわ。また明日来るわね」
『嬉しい』
『レンシィ様』
『気持ちいい』
『元気になる』
『また明日』
まるで蝶のようにヒラヒラとレンシィの周りを飛び回る沢山の下位精霊たちは、小さくてとても可愛らしい。
彼らはこの世界に無数に存在しており、全ての力の源に位置していた。
下位精霊は知能こそ決して高くはないが、素直で優しく、そして気まぐれで気分屋だ。
この世の全てに精霊が宿っていると言っても過言ではない。
そんな精霊たちが、レンシィを〝識る〟事など当然だった。
産まれたその瞬間、精霊たちは己の王が身近へと顕現したことを悟り、喜んだ。
常であれば精霊界に留まり、滅多に人間の住む世界へ姿を現すことの無い王である。
その光の精霊王の存在は、全ての精霊たちの力となり、また安息となる。
それはレンシィの近くに居れば居るほど恩恵を受けられるのだ。
必然的に、レンシィの周りには多くの下位精霊がすぐに集まるようになっていた。
だが、レンシィはそれを特に気にも止めない。
「レンシィ、ここにいたね。また 1人でお庭の花を眺めていたの?」
「ええ、お母様。だってとても美しいんだもの」
花の蔓でできたアーチを潜り、グローリアが庭園へと姿を現す。
庭園はレンシィの言う通り、1年を通して季節ごとに様々な花が咲くように植えてあるのだ。
いつ見てもその目を楽しませてくれる。
グローリアはその間を通り抜け、真っ直ぐレンシィへと歩み寄った。
レンシィの周りに無数に飛び回る下位精霊たちを気にすることも無く。
それも当然だ。
ただの人間には、精霊の姿は通常は見えないのだから。
「昼間は暑いでしょうに。あまり日には当たらないのよ?」
「えぇ、分かっていますわお母様。ところで何故ここに? 何かありましたか?」
そう問いかけたレンシィに、グローリアは嬉しそうに微笑んだ。
「えぇ、もうすぐお父様が王都から戻ってくるから、一緒にお出迎えしましょう。夕飯は家族みんなで食べられるわよ」
「分かりました。すぐに参ります」
嬉しいという表情を前面に出して頷くと、グローリアは嬉しそうに「じゃあ、待ってるわね」とだけ告げて、屋敷へと戻って行った。
わざわざ直接グローリアが呼びに来る必要もない気がするのだが、きっとあの落ち着きのない母のことだ。早く娘に教えたくて誘いたくて、使用人に命ずることも忘れて飛び出したのだろう。
後ろの方ではマリアベルが微笑ましげにそれを見送り、レンシィの方へと歩み寄った。
手を差し伸べてきて、少し高めの足がつかない椅子から滑るように降りる。
足が地面につかない椅子によじ登るのは、令嬢としてははしたないが嫌いではない。
スカートの乱れを軽くはたいて整えると、マリアベルと共に屋敷の広間へと向かう。
そこには既にグローリアと屋敷に使える者たちが、主人の帰りを待ちわびているのだろう。
その中に早く加わらねばと少しだけ急ぎ足になる。
その姿は、かつての精霊王とは思えないほど幼い子供の仕草だ。
レンシィ・レイ・グロウレンとして転生してから7年。
光の精霊王は人間としての生活を思いがけず満喫し、またそんな自分を面白いと感じていた。
「グローリア、レンシィ、今帰ったよ」
「お帰りなさい、エドウィン」
「お父様、お待ちしておりました」
屋敷のドアが開くのと同時に、満面の笑みを湛えたエドウィンが両手を広げて足早に駆け寄り、そのまま妻と娘を抱き締める。
王都の邸宅から領地へと帰ってくる度にこの歓迎である。
10日に1度は帰ってくるというのに、もう何年も飽きもせず繰り返されているグロウレン家の恒例行事だ。
だがそんな父の愛情が嬉しくない訳では無い。
仕方がないなと苦笑しつつ、父の腕の中からウゴウゴと抜け出そうともがいてみるがビクともしない。
仕方なくレンシィは顔だけを上げて、エドウィンの背に回した手でその背中を軽くトントンと叩いた。
「お父様、少し苦しいです」
「あぁごめんよ、つい久しぶりに会えて嬉しくなってしまった。レンシィは暫く見ないうちに、少し大きくなったんじゃないかい?」
「お父様、前回お会いしてからまだ10日しか経っておりません。そんなに早く大きくはなりませんわ」
「私にとっては100年の月日と同じだよ」
「……大袈裟ですわ、お父様」
懸命に押し返そうとするが、全力で妻と娘を可愛がるモードに入ってしまったエドウィンは止められない。
無理矢理離れることも出来ることは出来るが、どこまでも妻と娘ラブな父親が、仕事のために仕方ないとはいえ普段は帰れない生活となっているのだ。
多少の過剰なスキンシップも仕方ないかという甘い気持ちにもなる。
だが何事にも限度というものがある。
少しの間好き勝手させ、ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる夫にただひたすら慰めるようにその肩を撫でていたグローリアは、もういいだろとでも言わんばかりにエドウィンをバリッと引き剥がした。
「あっ……」と悲しげな声を上げるエドウィンに、グローリアは嫋やかに微笑んでみせる。
「さぁエドウィン、お風呂に入って着替えていらして? お腹も空いてるでしょう? 皆で食事にしましょう」
「ああ! そうだな、すまない。2人に会えた喜びに胸が止まらなかった!」
だがすぐにグローリアの言葉に笑顔になると、それぞれの頬にキスを落としてすぐに離れた。
自身が汚れていることを思い出したようだ。
そして朝から走り通しだったため、食事もまともに摂っていない。
妻子の顔を見て安心すれば、途端に空腹を自覚する。
エドウィンは執事であるウォークマンに声を掛けると、そのまま私室へと向かった。
その後を、ウォークマンとメイド数人が付き従う。入浴の準備は整えてあるため、あまり時間は掛からないだろう。
父の背中を見送り、レンシィもディナー用のドレスに着替えるためマリアベルと部屋へ戻ることにした。
それは夕食を摂りながらこの不在だった数日を埋めるように会話を楽しんでいる時だった。
グローリアが今回過ごす領地での二日間をどうするのか予定を聞いたその回答が、あまり思わしくないと言わんばかりにエドウィンの表情が曇ったのだ。
「……どうなさったの? お父様」
それに気がついたレンシィが、切り分けていたポテトの包み焼きを口に入れる手前で声を掛けた。
すかさずグローリアから「お行儀が悪いわよ」と苦言が飛ぶ。
すぐにフォークで刺したままだった芋の切れ端を口の中に招き入れると、モグモグと咀嚼した。その素直な様子に、エドウィンも苦笑が漏れる。
「ちょっと頭の痛い問題があってね」
「なにかお困り事?」
グローリアの問いに頷くと、エドウィンはそのままナイフとフォークを置いてしまった。
皿の上は綺麗に食べ終わってはいるが、いつもならもう2切れほど肉を頼むというのに。
「実は最近クロウ領から多くの避難民が領地の端に住み着いたという報告が来てね」
「まぁ、クロウ領から?」
クロウ領といえばこのグロウレン領から馬車でも丸7日は掛かるほどの遠方の領地だ。
治めているのはレイ・クロウ侯爵家でありレイ・グロウレン家と同じく古くから王家に連なる由緒ある貴族。
数年前に当主が代替わりをし、今は若き長子が当主となって守っている地である。
クロウ領からグロウレン領までの間に2つほど別の貴族の領地を通るはずなのだが、はてとグローリアは首を捻る。
「なぜわざわざ我が領地に? 人の足では幾日も掛かる長旅でしょうに」
「それが他の領地では受け入れが困難と定住を却下され、流されて辿り着いたらしい」
「それは……」
随分と頭の痛い話であることはすぐに理解出来た。
領地から領地へと移住を求める民が出るのはよくある話だ。希望すること自体は問題なく、中には旅人となって自分に合う領や国を探し移り住む者だっている。
ただし移り住むのにもその場所の許可が必要となり、その判断は各地を収める領主や国に任されている。
この話の移民は、その移住を拒否されたということだ。
「なぜ拒否されたのです? 何か問題が?」
「数十人程度ならば受け入れは出来たのかもしれないが、今回は村1つ分の人数が大移動を起こしたらしく、それだけの人間を受け入れる余力が他領には無いそうだ。おそらく数は1000人程にもなる」
「そんなに多くの民がひとつの村を見捨てたというの? クロウ領でいったい何が起こっているのです?」
「問題はおそらく数年前からの不作による税の負荷のせいだろう」
軽くため息を吐くと、エドウィンは後ろで控えていたウォークマンに水を1杯頼み、代わりにメイドに皿を下げさせた。
「あくまでも他領の話だからな。我々が口を出すことではないが、クロウ領はここ数年不作が続いているらしいんだが、その割に税率を変更しないのだという報告を受けているんだ」
「なぜ? 不作であれば民の暮らしは苦しいはず。税収を下げなければ生活できないというのに」
「大規模な補正工事を様々な所で行っているため予算に余裕が無い、と聞いているが。確かにあの場所は魔の森にも近く、防衛工事は欠かせないだろう。とはいえ念の為王都から監査が入るだろうが、余程のことがない限りは口が出せないのが現状だ。各地は各々任されているからね」
「それでも領民は大切なケルトレイ国の国民でしょう?」
その問いにエドウィンも頷くが、表情は良いとは言えない。
他所の領地のことに口を出せば、今度は貴族同士の揉め事となりかねない。たとえ領地の民が他領に押しかけたとしても、移住を拒否することも出来るのだから被害があるとは言えないのだ。
何よりもその領地を捨て、離れたのであれば、既に領民ではなくなったということ。
自己責任という言葉がついてまわる。
かといってどこも受け入れてくれないからと領地外の場所に新しく村を作れば。
領地というものは税を収める代わりにその地に住む民を守るのが役割だ。
領地を守る衛兵を派遣し、村同士の揉め事を解決し確約を取り決め、時に犯罪を裁く。
だがそういった守る者がいない、民だけの集まりとなればどうなるか。
その中に屈強な男や戦える者が幾人か居ればまだ救いはあるかもしれないが、大抵が農民であり戦闘能力などは皆無だ。
女性や幼い子供や高齢の者も多い。そうなると、守り手は少なくなる。
そして人の里から離れた場所は、大抵が整備されていない獣や魔物の住処となる森だった。
「当初はもう少し人数も多かったようだが、この地にたどり着くまでに犠牲になったようだ」
「なんということ……」
「私たちまでが拒否をすれば、おそらく彼らにはもう行く場所は無くなる。黙って獣の餌になるのを待つだけだろう。そんな惨たらしいことはできない」
エドウィンの性格上それは予想出来たことで、その場にいる誰もが首を縦に振る。
グロウレン領は周辺の領地の中でも特に民の待遇が厚く、領主が慈悲深く賢君と名高い。
移住してくる者や旅の途中で住み着く者も多く、王都に次いで栄えている土地だった。
更には。
「幸い、我が領地はここ数年は常に豊作が続いており天候にも恵まれている。目立った災害もなく魔物や獣の被害も少ない。受け入れる余力は充分にある」
「そうね、不思議だわ。数年前はもちろん不作の年もあったり、魔物の被害で衛兵だけじゃ間に合わなくて騎士団を送ったこともあったはずだけど、ここ最近は全くそんな報告を受けないわね」
それだけではない。
太陽に恵まれることも多く、だからといって雨が少なすぎる訳でもない。
他国の中には年中暑い国や寒い国があると聞くが、この国は四季というものがありそれぞれの季節が彩り美しい。
風の精霊の月は暖かく、火の精霊の月は暑く、地の精霊の月は涼しく、水の精霊の月は寒い。
だがここ数年は火の精霊の月に暑さが厳しすぎることも無く、水の精霊の月に雪に閉ざされることも無くなっていた。
「レンシィが生まれた年くらいからだろうか。こんなにも落ち着いているのは」
「え?」
突然話を振られ、食べ終わった食器をメイドに下げて貰っていたレンシィはキョトンとした目をエドウィンに向ける。
「そう言えばそうね。レンシィが産まれた年は特に、風の精霊の月には領地のあちらこちらに花が咲き乱れたそうよ。地の精霊の月には畑の作物は例年よりも豊作だったし、森の恵みも多かったと聞いたわ」
「まるでレンシィがこの領地に精霊の祝福を運んできてくれたようだった」
これは父と母が定期的にレンシィに話す親バカ的なネタだ。
2人ともたった1人の娘であるレンシィを溺愛しており、時折こうしてレンシィが産まれてきてどれ程素晴らしく幸せな生活となったかを延々と語る。
こうなると話が長くなりがちだ。
「ではお父様、明日からその移住を希望される方々の所へ行くんですの?」
「え? あぁ、そうだね。馬車で半日ほどの場所に滞留しているらしい上に、対応が困難を要すると予想されるために滞在期間は数日を予定している。王都に戻るのも延ばすことになるね」
エドウィンは話を中断されて僅かに残念な顔をしたものの、手元に置かれた食後の紅茶を口へと運んで微笑む。
グローリアとレンシィの前にもそれぞれメイドが紅茶を置き、それを飲み干してしまえばディナーは終了となる。
レンシィはティーカップを持ち上げると、7歳とは思えないほど優雅な手つきでそれを口元へと運ぶ。
これでまだ講師は着いておらず、グローリアの教育だけであると誰が信じるだろうか。
「気をつけて行ってきてくださいませね」
不安そうに祈るグローリアに、エドウィンはゆるりと頷く。
たかが避難民の対応と侮ることは出来ない。
追い詰められた人間というのは何をするか分からないからだ。
「一応報告を受けた際に、食料の配給を指示しておいた。明日はそれらを積んで向かうことになるだろう。この支給で少しは落ち着いてくれているといいのだが」
そう言って静かにカップを口に運ぶエドウィンを、レンシィは黙って眺めていた。
ソーサーに触れるカップの底辺から、音ひとつさえさせることなく。