26.その頃、父親は
少しでも楽しんで頂ければ幸いです!
ニルヴァーナ伯爵家の当主は、グロウレン公爵家を訪れた日から、どうにも不運が続いていた。
あまりにも腹立たしくなり、道端にあった小石を蹴飛ばす。
「っこの!……あいた!!」
だがたまたまその小石が近くに立っていた木の幹に当たり、意外な程に跳ね返ったかと思うとニルヴァーナ卿の額の真ん中へと当たったのだ。
思わずしゃがみこむほどに痛い。
しかし心配の声をかけてくれるものは、誰一人この場にいなかった。
それもその筈だ。あと数キロで自身の邸宅がある町へとたどり着く山の中で、馬車が壊れてしまったのだから。
本当であればグロウレン公爵家からそう遠くはない距離で、半日もあれば十分なもの。
しかしたったそれだけの距離の途中でトラブルが続出したのだ。
途中までは順調であった道で王都から随分離れた場所に差し掛かったところ、突然馬が不機嫌になり、御者が休憩をさせてくれと言い出した。
「そんなこと出来るか!雇ってやっている恩も返せないのか!今すぐ走らせろ!」
と御者を怒鳴りつけた途端、今度は馬車自体がガクリと斜めに突如傾いたのだ。
「うわ!今度はなんだ!?」
「旦那様!大丈夫ですか!?」
「大丈夫なわけ無いだろう!?」
「もっ申し訳ございません!突然馬車の車輪が壊れて、ひとつ外れてしまったようで……」
「……な……なんだと?」
「旦那様には申し訳ございませんが、恐らく修理にかなりの時間を要しますので、本日はどちらか宿を取って休んで頂けませんでしょうか?」
「…………宿、と言っても……だな……」
足元の道は舗装されているものの、右手側は山へと続く森。左手側は果てが見えないほど広がっている草原だ。
すぐ近くに村がひとつあることは知っているが、とても寂れた町である。
イライラしながら傾いた馬車から降り、近くの村を目指すしかない。
背に腹はかえられないのだ。
ニルヴァーナ卿は従者を連れてこなかったことを激しく後悔した。
従者がいれば、町に使わせて宿屋があるか確認させるなり、走らせてグロウレン公爵家の中心町に辻馬車を手配させに行かせることもできたというのに。
かといって代わりに御者に行かせるわけにはいかない。馬と馬車を管理できるものが不在の間、馬が暴れたりでもすれば更に危険なことになるからだ。
帰りに少し遊ぶつもりだったがため、御者と馬車のみで移動したのが災いした。
しかしグロウレン公爵家の本邸が建つ中心の町『テオ』では、何故かどれ程声を掛けても一人の女性も振り向いてくれなかったのだ。
それに多少イラつきはしたものの、グロウレン家の人間と同じくつまらない町民だと罵倒しながら、帰り道途中にある愛人の家にでも寄ろうと足を運んだが、これまた不思議な事に留守だったり体調が悪いと断られたりで無下にされ続けた。
ならば今日は仕方がないかと帰ることにしたその道中でこれだ。
「……なんでこんなことに……」
たった数キロではあるが、歩きなれていない伯爵家当主にとっては数百キロにも感じる距離だった。
しかも何故だか異様に身体が重だるいのだ。
1歩足を踏み出す事に、全身に何か重しを満遍なく着けているかのような感覚に陥る。
実際はグロウレン公爵家からの間ずっと下位精霊たちがニルヴァーナ卿の全身に張り付き、口々に「どうしよう」「どうしてやろう」「クスクス」などと呟き続けているのだが、こればかりは見えなくてよかったかもしれない。
虫の死骸に群がる蟻のようにも見えるからだ。
村で唯一の宿屋である古い木造の建物の一室に案内され、狭いベッドひとつしかない狭い部屋へと通される。
ドアを開けた瞬間にショックを受けたが、それでも外でそのまま寝るよりもマシだと、ニルヴァーナ卿は一晩だけ耐えることにしたのだ。
「……くそ……貴族である私がこのようなボロ屋に泊まるなどと……常に我が伯爵家のことを第1と考えて務めてきたというのに、なぜこんな仕打ちを受けるのか……精霊たちよ……」
ベッドに座り、ブツブツと文句を言い続けるニルヴァーナ卿は、自身に群がる下位精霊たちに気づくことなく精霊へと問いかけた。
どこにもやり場のない怒りが、ふつふつと湧いてくる。
ニルヴァーナ卿自身、ずっとこの伯爵家の為に耐え続けてきたのだ。
そもそもニルヴァーナ卿は幼い頃から貴族である血が尊いと言われ、その血を残すために好きでもない女と結婚する羽目になり、しかしなかなか子供が出来ず、何度も好きでもない女と身体を重ねる羽目になった。
ようやく妊娠したが、既に妻はかなり歳を取ってしまい、しかも妊娠しにくい体質だったようで医者からは「この妊娠が最後になるかもしれない」と診断される始末。
もしも男児でなければ自分の直系に伯爵家を継がせることが出来なくなると心配になったところで、遊びで手を出していたメイドが妊娠していることが分かった。
その時からずっと考えていたのだ。
もしも妻の出産が上手くいかなければ。
もしも生まれた子供が女児であれば。
メイドの子供を後継として引き取ろうと。
もちろん妻の手前、遊び相手であるメイドは共に引き取ることは出来ないが、自分の子供が裕福な暮らしができると思えば、喜んで差し出すだろうと。
学もなく、この屋敷を追い出されれば働き口も不確かな母親に育てられるより、子供もよほど幸せだろうと、ニルヴァーナ卿は本気で思っていた。
しかし妻の子供は生まれてみればしっかりとニルヴァーナ家の特徴である赤い瞳と銀の髪に、ニルヴァーナ卿は声を上げて喜んだのだ。
これで伯爵家の跡継ぎの心配はなくなったのだと。
だからこそ、妻がニルヴァーナ卿の子供を同じく身篭ってしまったマリアベルを見たくもない!と追い出した時でさえ、知らないフリをした。
ただひとつ、妻が産んだ子供が万が一無事に育ち切らなかったり、全くの無能であった場合に、マリアベルの子供が補欠としてすぐに確保できるよう、監視者はつけておいたのだ。
その予感は的中し、正妻との息子であるクロノスは、もう命の灯火が既に消えようとしており、持ってもあと数日だろうと思えた。
だがまさかその原因が、自分が手を出したメイドが本気になり、息子を殺そうとするなど。
メイドはいつの間にか姿を消していたが、すぐに追っ手をかけたため、捕まるのは時間の問題だろう。
余計な手間を掛けさせたのだから、許すつもりは無い。
(平民のくせに本気で愛されると思っていたのか。遊びの言葉を本気でとるなどと……これだから浅学者は)
クロノスが毒を飲まされたと分かった際には焦ったが、すぐにマリアベルの存在を思い出した。
やはり保険をかけておいてよかった。
過去の自分の判断に、喜び勇んで件のもう1人の息子を迎えに行ったというのに、まさか会うことすら出来なかったとは。
どうやらマリアベルとその子供を保護した公爵家が、子供を渡すまいと隠してしまっているようだった。
マリアベルがごねたりでもしたら公爵家当主であるエドウィンが、お得意の正義面を晒して庇おうとするかもしれないからと、わざわざエドウィンが不在であろう時を調べて訪問したというのに。
公爵家の夫人だけであれば、社交界では儚げで淑やかな美しい夜の貴婦人と言われていることからも、ニルヴァーナ卿が少し強く言えば怯えて、素直に子供を差し出すだろうと思い込んでいた。
しかしグロウレン公爵夫人を前にした時の、あの痺れる感覚に苛まれるほどの圧と、美貌で更に増した迫力に、飄々としている風を装いながらもニルヴァーナ卿は内心焦っていたのだ。
格の違いを、肌で感じ取ってしまったことを認めたくなくて。
しかも何やら途中から身体が異様に重くなってきて、吐き気や目眩のようなものまで感じる始末。
来邸時は必ず連れて帰るつもりであったのに、もはや絶不調と相手の分の悪さから、何よりもその場を切り上げたいとしか思えなくなってしまったのだ。
一度出直すと決め、這う這うの体でグロウレン家の本邸から飛び出した。
「……全く今日は最悪な日だった。こんな時は美味い酒でも飲んで女でも抱きたいが、この村に娼館があったとしても使いたいとは思えんな」
呟くと、そのままどさりと後ろへ倒れる。
ベッドの少し固めのスプリングが背中を受け止めるが、柔らかさが足りず少しだけ背中に痛みを感じた。
それほど安物のベッドにげんなりとする。
「まぁ、明日の朝には馬車も動くだろう。とにかく何か食べるか」
そう呟くが、この村にまともな食堂などあるのかと不安になる。
従者に食べ物を買ってこいと命令することもできない。
自分の足で探すしかないことにイラつきながらも、ニルヴァーナ卿は夜も深くなった村の中を歩き回ることにしたのだった。
しかし結果は散々なものでしかなく。
「食事処?一件だけあるけど……お口に合うかねぇ」
ニルヴァーナ卿の随分と良い身なりに、上位の貴族だと読み取ったのだろう宿屋の女将が、少し小馬鹿にしたように笑いながら何とか教えてくれた。
その態度に更に腹が立つ。
もしもこの場に従者がいれば、切り捨てさせたものを。
だが他に食事を摂れる場所はないと聞き、渋々教えられた方向へ歩く。
その足に見えない精霊たちがまとわりつき、何かに引っかかったようにニルヴァーナ卿を転ばせた。
「ああ!もう!なんなんだ今日は!!」
鬱憤が溜まっているのだろう。
やがて見えてきた古い木の扉を、乱暴に無理やり開く。
ドアは耐えられず悲鳴を上げ、通常以上に店内へ音を届けた。
恐らく店主と見られる壮年の女性が、控えめな声で「……いらっしゃいませ……」と呟くように告げた声は、残念ながらニルヴァーナ卿には届かなかった。
普段贅沢な品に慣れていれば、当然に舌が肥え、肌が敏感になり、筋肉は軟になる。
庶民的な食べ物は口に合わず、ただ腹を満たすためだけに何とか食べきり、埃臭いシーツの敷かれた硬いベッドで夜を明かした次の日。
ニルヴァーナ卿はようやく自分を迎えに来た昨日の馬車に早々に乗り込み、すぐさまその村を後にした。
一刻も早く自身の邸宅に戻り、柔らかなベッドで寝直し、高級な食材で調理された美しい食事を堪能したくてたまらない。
仕方がなかったとはいえ、伯爵家当主であるこの自分があのような仕打ちを受けるなど、プライドが許せなかった。
後残り僅かな距離だったため、馬車を走らせて1時間ほどで邸宅に着いた。
懸命に馬車を修理し、荒ぶっていた馬たちを宥め、馬車を走らせ続けた御者へなんの言葉もなく、ニルヴァーナ卿は馬車から降りるとさっさと邸宅の中へ入ってしまう。
それを見送った馬2頭が更に不機嫌そうにブルルッと鼻を鳴らしたのを、ニルヴァーナ卿にまとわりつき続ける精霊達はしっかりと聞いていた。
「おい!戻ったぞ!誰かいないのか!」
叫ぶような言葉に、奥からあわててメイドが2名出てきた。
それに違和感を感じる。
否、それだけでは無い。邸宅のドアを開けた瞬間から、何かいつもより雰囲気がおかしかった。
屋敷の中の空気が、異常に重苦しく感じる。
そして建物自体が沈黙するかのような静かさを含んでいた。
薄暗く、部屋の隅は暗く濁っているように見える。
それがなぜだか、とても気持ちが悪かった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「なぜお前たちしか出てこない?妻や執事はどうした?」
「あ……それはその…………ただいま外出中でして……」
「……外出?だと?」
まだ朝早いと言っても良い時間帯だ。
こんな早朝からどこに行くというのか。
何より結婚してからというもの、今まで1度たりとも妻であるエバはニルヴァーナ伯爵の許可を取らずに外出したことは無かった。
訝しげに深く眉を寄せた主人に、メイドの1人がおびえた表情で何かを差し出した。
それは1枚の封筒だ。
「……奥様より、お預かりしておりました……旦那様がお戻りになられましたらお渡しするようにと」
差し出された手紙を毟り取るように掴むと、その場で封蝋を力任せに剥がし、中身を取りだした。
たった1枚入れられていた手紙に目を通していくうちに、ニルヴァーナ卿の目がこれまで見たこともないほど大きく見開き、緊張を表していくのを、側に控えていたメイド2人は初めて目の当たりにしていた。
手紙には「今すぐグロウレン公爵の本邸に再び来て欲しい」といった内容が書かれていた。
読んでくださってありがとうございます!