25.母の決意
少しでも楽しんで頂けたら幸いです!
伯爵家を継ぎたいと、母親に待ってと自ら告げたクロノスに、母親だけでなくアトラスも驚いてクロノスへ視線を向けた。
てっきり押し付けられている将来に対して、そこまでの執着はないだろうと思っていたからだ。
確かにこれまでの努力は、その「伯爵家の跡取りとして」という目標の元、幼い子供には辛いであろう勉強やマナーの講習も受けてきた。
市井の子供たちのように何も気にせず無邪気に遊ぶこともできず、ただひたすら頑張ってきた。
母親と共にその実家に戻るということは、これまでの努力は全て無駄になるということではある。
それが嫌だから、なのかとエバは思った。
「クロノス、今まで沢山厳しいことを言ったわ。この伯爵家の為と言って勉強ばかりさせていた。貴方はそれをとっても頑張って聞いてくれたわ。でももういいのよ。私が間違っていたわ」
「お母様……」
「貴方がそうやって元気で笑ってくれるだけで、本当は何よりもそれだけでよかったはずなのに。私はすっかり忘れていたわ。こんな母親でごめんなさい。貴方の努力が無駄になることもないのよ。勉強で得た知識は、どこかで役に立つように出来ているの。まるきりそのままではなくても、それに関係する体験をした時に」
勉強は将来の知識として、マナーは貴族位でなくとも社交界デビューする際の力として、充分に役立つだろう。
だがクロノスは小さく首を振り「そうじゃないんだ」と言った。
「前に首都の式典にお父様と行った時、凄くかっこいい男の人がいたんだ。堂々としてて真っ直ぐ前を見てて、とっても綺麗な金色の髪をしてた。そして王様の隣に立ってたんだ。あの時、僕は将来あんなふうな貴族になりたいって思ったの」
キラキラと目を輝かせて話すクロノスの姿に、レンシィは何となく既視感を覚えた。
あの眼差しには見覚えがある。
何だったか。
「とっても素敵で、かっこよかった。たくさんの人がお話して、とっても難しいことばっかり言ってたけど、でもその人のお話はとっても分かりやすかったよ。僕達貴族は、町の人達を守ることだって。色んな方法で助けることだって。だから偉いんだ。凄いんだ。その人に挨拶をした時に、頭を撫でて貰って笑ってくれたんだよ」
それはニルヴァーナ伯爵が出席した王城での式典のこと。
クロノスはエバと共に初めて社交の場に参加した時のことだろう。
エバ自身もよく覚えている。
「陛下の隣に……?」
エバが思い出そうとしているのか、ポツリと呟く。
そしてレンシィも、何だか聞き覚えのある言葉に軽く首を捻る。
唯一、その式典にレンシィの従者として付き従っていたアトラスだけが、何かを察したようにじっとレンシィを見ていた。
「お父様は嫌い。お母様を泣かしてばかりだもの。だからお父様みたいな伯爵じゃなくて、あの人みたいなかっこいい伯爵になりたいって、あの時決めたんだ」
瞬間、ピッタリと重なったのは、ウォークマンの立ち姿にかっこいいと目を輝かせて語った、昔のアトラスの姿だった。
「……なりたいもの……」
ふと聞こえた声に隣を見れば、アトラスが茫然とクロノスを見詰めている。
あの、当主になりたいのだと語る姿が、自分と同じであることに気づいたのだろう。
こんな産まれた時から未来が決められている環境でも、クロノスはちゃんと自分で憧れを見つけ、なりたいものを決められていたのだ。
「お母様、僕はこの家を継ぎたい。そして立派な伯爵家当主になって、いつかあの方にご報告できるようになりたいんだ」
真剣な顔でエバに願うクロノスに、だがエバの表情はどんどん固くなっていった。
真っ直ぐに見つめ返すことすらできず、俯いてしまう。
もちろんエバはその夢を叶えてあげたいと思った。
元々はこの伯爵家を継いで欲しいと願っていたのだ。それが自身の独り善がりだったと自覚しても、本人がそれを望んで選ぶのであれば改めて反対しようとは思わない。
「……でも……」
エバの脳裏に響いたのは、そんな息子の夢をあっさりと切り捨てた父親である夫の声だった。
『クロノスを、ニルヴァーナ家の後継者から外す』
『そのままゆっくり休むといい』
息子を心配するどころか、そのまま死んでしまえと告げる実の父親。
そんな事を言われれば、たとえ自分の夫であろうが許せない。
何よりこうしてレンシィの魔法で命を救って貰えたが、もしもこれで「じゃあ元気になったからまた後継者にしてやろう」と言われても、ありがとうございますなどと受けられるわけが無い。
しかし、そんな男がこの伯爵家の現当主なのは事実だ。
エバの実家は爵位を持っていない。
貿易で成功を収めた商人であり、その実家の太いパイプと裕福な資産のために伯爵家との繋がりが持てたのだ。
それに、王都から遠く離れた田舎へと戻ってしまえば、クロノスの憧れる貴族には、もうほぼ確実に会うどころか遠目に拝顔することすら出来なくなるだろう。
クロノスにそのような悲しい思いはさせたくなかった。
どうしても、夫であるニルヴァーナ卿に頭を下げるしかないのか。
あれほどまでに息子を無情にも切り捨て、暴言を吐いた男に。
そしてもしも再びクロノスに毒が盛られるかもしれない恐怖と共に、クロノスが命の危機に瀕することがあればまたもや実の父親から捨てられるかもしれない悲しみを、息子に覚悟させなければいけないのか。
固く口を引き結び、思考の渦に飲み込まれそうになったエバの目の前に、不意に小さな手のひらが差し出された。
「……え?」
そこには、2センチ程の小さな宝珠が乗っている。
とても美しい、鮮やかな翠の宝珠だった。
「…………これは……」
エバは商人の娘である。
様々な宝石や天然石、金銀プラチナなどの取引を、幼い頃から見ており、また父親に教えられていた。
特に宝石関係は美しい見た目が目を引き、昔から夢中で調べ、覚えていた。
だからこそ分かるのだ。
この宝珠の価値が。
「…………まさか……これは精霊珠?」
「これを、肌身離さず息子に持たせておきなさい。たった1度だけだけれど、どんなに強い毒からでも守ってくれますのよ」
勢いよく顔をあげれば、目の前でレンシィが穏やかに微笑んでいた。
それはとても幼い子供の笑みではなく、まるで全てを悟った大人の、エバを子供扱いし慈しむかのようなものだった。
レンシィの言葉にエバは確信する。
手のひらのそれとレンシィの顔を交互に見て、震える指でそっと宝珠を受け取った。
「レンシィ様、それは?」
「1度だけ助けてくれる石ころよ。それ以上でも以下でもないわ」
アトラスの問いに軽くそう答えたレンシィの目の前では、エバが両手でそれを包み、大事そうに胸元へと抱えていた。
「…………こんな……こんな物を頂けるなんて……本当によろしいのでしょうか?」
「元々貴方の息子を癒して出来たものですのよ。クロノスの毒を吸い出したそれがクロノスを守ってその役目を終えるのが妥当ではないかしら。今まで苦しめていたのですもの」
「ですが……この精霊珠ひとつで屋敷のひとつでも買える品でしょうに……」
「こんなもので?なぜそんな価値をつけるのかしら。人間とは不思議ね」
自身も人間であるはずだというのに、目の前の令嬢は不思議なものの言い方をする。
普通、人が人のことを話す時に「人間は」なんて言い方はしないだろう。
「この国の人は」や「この町の人は」と表現することはあっても。
〝人〟のことを〝人間〟という言い方をするのは、魔族や精霊などの「人間では無い存在」だ。
レンシィは間違いなく公爵家の令嬢であり、人間であるはずなのに。
なんでそんな言い方を?とアトラスが疑問に思ったその問いをくちから出す前に、レンシィが少し腰を折って、エバの目の前へ人差し指を立てて見せた。
「貴方は自分を知らなすぎますわ夫人。クロノスの夢を叶えるための手段のひとつを、貴方は誰よりも強い手札として持っているではありませんの」
「え?私が?」
エバの顔を面白そうに見遣り、レンシィは何かを企んでいると表現するに相応しい、ニヤリとした笑みを浮かべた。
それはまるで劇中で企みを語るシーンに見せる、悪役の女性が浮かべる笑みのような。
「夫人、まずは私のお母様の元へ往くのですわ。そしてこう告げるのです」
「私の夫は、不正を犯しております。それを訴え、伯爵という爵位を頂く我がニルヴァーナ家を、貴族の誇りを抱く誠実なものへと戻すために参りました。どうか、お力をお貸しください、グロウレン公爵夫人」
目の前で潔く頭を下げ、真っ直ぐに訴えかけたニルヴァーナ伯爵夫人に、ソファーに座るグローリアはただ驚き、ティーカップを持つ指が震えた。
それほど、この来客と内容は衝撃的だったのだ。
グローリアの後ろに控えているウォークマンも、軽く息を飲んだのがわかる。
目の前のローテーブルに置かれたのは、分厚い紙の束。
1頁めくるだけで、それが伯爵家の帳簿だということが分かる。
しかしどう見てもそれは、貴族院に登録されている提出用の帳簿用紙ではなかった。
明らかに他者にみせていいものではないそれ。
エバはその帳簿を手に、早急にグロウレン家へ相談したいことがあると願い出たのだ。
続けざまにニルヴァーナ家の一族が本邸を訪れたことに当初グローリアも警戒したものの、顔を見た瞬間のニルヴァーナ伯爵夫人が哀れな程に懸命な目を向けてきたことに、その夫とは違うものを感じた。
そのため奥の応接間に通したのだ。
だがマリアベルの話から、この夫人が過去に身重だったマリアベルを無理やり追い出し、死の危険に晒したことは事実である。
念の為、マリアベルは間違っても顔を合わせないように、再び別館へと待機してもらった。
「……詳しい話を聞かせてくださるかしら」
ニルヴァーナ伯爵夫人の言葉に、グローリアはその話の先を求める。
グローリアの声に力を感じたエバは、ひとつ頷くと、自分の知りうる限りの全てを話し出したのだ。
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