22.まずは義兄を救済
ニルヴァーナ家伯爵夫人であるエバは、ここ数日ほど毎日泣き続けていた。
当然だ。
希望に満ち溢れた日々から、突然大切なものを次々と壊され、現実を叩きのめされたからだ。
20日ほど前の夜。
最愛の息子と共に食事をしていた最中、突然息子が喉を押さえて苦しみだし、倒れたのだ。
犯人はすぐに判明した。
ニルヴァーナ卿が手を出していた若いメイドだ。
怪しい小瓶のようなものを持っているのを他のメイドが見ており、またクロノスの食事の配膳をしたのもそのメイドだった。
本来であれば毒味役である者が事前に食したものをクロノスは口にする筈なのだが、毒味が終わり、配膳する際に忍ばせたようだ。
毒味役である下女の少女は、特に何ともなかったのだから。
エバはどれほど役立たずなのかと、その毒味役の少女を責め立てた。
犯人のメイドが、クロノスが毒に倒れたのを見届けたその日のうちに消えてしまった為に捉えることすら出来なかった八つ当たりもあったのだろう。
しかし倒れてから目を覚まさなくなってしまった息子に付きっきりとなり、次第に何も手がつかなくなっていった。
父親であるニルヴァーナ卿が少し焦ったように部屋を訪ねてきたのが、それから三日後。
一体どこで誰と何をしてきたのかなんて聞きたくもないと、夫人は絶望で飽和した頭の片隅で思った。
そして「お前が着いていながら!」「直系の男児であるというのに!」「お前が1人しか産めないからこんなことに!」と、苦しむ我が子の隣で、ショックで窶れている妻に向けて思いつく限りの罵詈雑言を並べ立て、手に持っていた杖で太腿を1度殴ると部屋から出ていった。
そんな夫であり父親が、再びクロノスの部屋を訪れたのは更に2日後。
一向に回復の兆しを見せないクロノスの顔を1度だけ覗き込むと、軽くため息をついた。
何かを諦めたような目だ、とエバはふと思う。
それは的中していた。
「クロノスを、ニルヴァーナ家の後継者から外す」
「な!?」
突然告げられた言葉に、エバは言葉を失った。
頭が真っ白になるとはこのことだ。
そんな自分の妻の様子など気にもせず、ニルヴァーナ卿はそのまま背を向けると、クロノスの部屋から出ようと扉へ向かう。
その腕にエバは縋った。
今までどんなに夫がメイドや市井の女と遊ぼうとも、1度も本人に縋って泣いたことなどなかった。
そんな彼女が、初めて自身の夫の腕に縋り、懇願したのだ。
「何故です!?貴方の直系の子供はこの子だけのはず!この子が外されれば、傍系の者が跡を継ぐことになるのですよ!?それだけは許せないと仰っていたではありませんか!」
だが哀れに袖を掴む夫人の指を振り払い、当主は残酷な言葉を吐いたのだ。
「それはもうダメだろう。死ぬ者に爵位を継がせるわけにはいかん」
あまりの言葉に、エバは声を出すことすら忘れた。
「傍系に爵位を継がせるわけもない。お前が8年前、追い出したメイドがいただろう?それが男児を産んでいる」
「………………な……」
「その子供は美しい銀の髪に、宝石のような赤い瞳だ。ニルヴァーナ家の遺伝子の特徴を、しっかりと受け継いでいる、な」
「……ま……さ、か……」
震える声で確信しつつも問うと、ニルヴァーナ卿は床に座り込んだ妻を蔑むように見遣り、笑ったのだ。
「マリアベルが同じ年に男児を産んでいるのは本当に好都合だった。監視をさせておいて正解だったな。その子供を引き取り、クロノスの代わりとする」
「クロノスはそのままゆっくり休むといい」
そう告げると、ニルヴァーナ卿は振り返りもせずに部屋を後にしたのだ。
エバはこれまで必死だった。
ニルヴァーナ家に嫁いで来てからというもの、元々女遊びが激しいからか、夫が夫婦の役目を果たそうとする日は極端に少なく、なかなか子宝に恵まれなかった。
ようやく妊娠できた時には、夫はよりにもよって自身の邸宅に務めているメイドと遊んでいた。
いっそ離婚して実家である領地へと戻ろうかとも考えたことがあるが、それでも産まれてくる子供には父親が必要であろうし、何よりも身重の時に動くことははばかられた。
やっと授かった何よりも大切な子だ。
ただ、どうしてもマリアベルの存在はやはり許すことが出来ず、出産し、子供が男の子だと分かったその日のうちにマリアベルを屋敷から追い出した。
ニルヴァーナ卿が不在にしているのをいいことに。
それでも帰ってきた夫に赤子を見せると喜んでくれ、マリアベルが居ないことには自分から出ていったのだと話を変えていた。
だがそんな嘘はすぐバレただろう。
調べれば簡単にわかる事だ。
それでも夫がエバを責めなかったのは、ニルヴァーナ家にとって何よりも大切であろう、正妻との間に生まれた男児がいたからだろう。
これまでエバを見向きもせず、ほとんど帰らなかったニルヴァーナ卿だったが、息子クロノスが産まれてからはちょくちょく帰るようになっていた。
時折エバとクロノスと共に食事も取るようになり、クロノスが7歳になった時に家庭教師を付けるという話が上がった際は、伯爵自らがその面接にも立ち合ったほどだ。
その様子に、ずっと蔑ろにされていたエバは歓喜した。
クロノスの存在が、伯爵家での〝家族〟というものを整えてくれているかのように。
愛しい息子が、幸せまで運んできてくれたかのように感じ、より愛情深く育てていた。
だが勿論、伯爵の女癖が簡単に治るはずも無く。
よりによって再び自身の邸宅のメイドに手を出したのだ。
不幸だったのは、そのメイドが伯爵のその場限りの甘い言葉を本気にしてしまったこと。
夫人とその子供さえ居なくなれば、自分がこの伯爵家の正妻となれるのだと、思い込んでしまった。
そしてクロノスが8歳になったある日、事件を起こしてしまう。
エバとクロノスの食事を配膳する直前に、毒を混入させたのだった。
食堂に運ばれた際に、配膳直前に毒見を行うため、配膳の最中に混入されるとは思わなかったのだろう。
そして先に毒が入ったスープを飲んだクロノスが、その場に倒れたのだった。
あの日から、時折苦しげにうなされはするものの、クロノスは目を覚ますことは無かった。
医師をかきあつめ、何とか命をつなごうとエバは必死だった。
水分だけでは限界があると、数日後には首から高カロリーの輸液を点滴することになり、排泄の世話もメイドにさせなければいけなくなった我が子に数日泣き叫んだ。
ただひたすら、目を覚ましてと。
そこへ追い打ちをかけるように、ニルヴァーナ卿は後継者から外すと。
いつ死ぬかも分からないからと言い放ったのだ。
自身の息子を、簡単に切り捨てた。
もう死んでもいいと、吐き捨てたのだ。
その瞬間、エバの中で何かが派手に砕け散った。
自分のしてきたことは、何だったのだろうか。
この子はなんのために産まれてきたのだろうか。
なぜこんな目に遭わなければいけないのだろうか。
自分は一体、なんなのだろうか。
繰り返し、繰り返し、問い続け、目覚めない息子の横で時が過ぎるのを待ち、涙を零し続けた。
自分を見失ってしまう直前だった。
レンシィが、光を伴い現れたのは。
「………………クロノス?」
部屋中が光の畑にでもなったかのように、あちらこちらで仄かな丸い明かりが灯っている。
足元に溢れるそれらは、クロノスの上に降り注ぐ光がベッドから零れ落ちたものだ。
目を見開いて、自身の上に降り注ぐ光を見つめ続けるクロノス。
そしてそんなクロノスの名を、夫人はぼんやりと呼んだ。
やがてレンシィはクロノスの上に翳していた手を引くと、床に溢れている光の玉たちは少しずつ小さくなり、やがてポツリ、ポツリと消えていく。
最後に残ったのは、未だベッドの上で唖然と天井を見上げているクロノスだった。
「…………クロノス?」
再び夫人が小さな声でその名を呼ぶ。
ようやくそれに気づいたかのように、クロノスはゆるゆると母の方へ首をめぐらせた。
そしてなんと、ムクリと起き上がったのだ。
自分の力だけで。
大きく目を見開き、口をあんぐりと開けて固まる母に、クロノスはどこかぎこちなく笑った。
「……お……お母様……」
ベッドの上で、身体を支えていた両手を、そろそろと母へ伸ばす。
「…………僕……」
抱っこをせがむかのように。
「……どこも苦しくない……苦しくないよ……」
「クロノスぅ!!」
たまらず夫人が抱き締める。
強くしっかりと。
そして涙を零しながら、何度も何度もクロノスの名を呼んだ。
「クロノス!クロノス!クロノス!あぁ!!」
「お母様……ありがと……」
そんな2人の邪魔にならないよう下がったレンシィは、フッと満足そうに笑った。
同時に、足元の絨毯にコツリと控えめな音が鳴る。
あまりの展開に茫然と親子を見ていたアトラスが、ハッと気づいてしゃがむより早く、レンシィはそれを拾った。
手のひらに乗ったのは、2センチほどの緑色の美しい宝玉である。
それを握りしめ、レンシィは今しばらく親子の奏でる最高の瞬間の声を聞くため、その瞳を閉じた。
読んでくださってありがとうございました。