21.使用人は眠らせておきました(風月)
少しでも楽しんでいただけますと幸いです。
目の前に広がるのは、ぽつりぽつりと微かな灯火が設置されているだけの暗い廊下だ。
時間は深夜と言えるため、おかしくは無いのだが、どこか雰囲気に違和感を感じる。
レンシィはすぐに気づいた。
ここには、いつもどこにでも感じることの出来る下位精霊が異常に少ないのだ。
(……風月、ここに来れるかしら?)
「勿論ですわ、レンシィ様」
呼び掛けに即座に応え、風月がふわりとドレスをたなびかせ、どこからか現れた。
レンシィの目の前に舞い降りるが、当然ながら隣で立ち尽くすアトラスには見ることが出来ない。
それでも、精霊の気が流れ込んだからか、アトラスがフッと呼吸が楽になったように息を吐いた。
声に出して会話をすればアトラスからは異常に見えるだろう。
そのため、レンシィは風月と声を使わずに言葉を交わすことにした。
レンシィと精霊たちは簡単に繋がることが出来るため、交わることは容易い。
(なぜこんなにも精霊たちが忌避しているのかしら?わかる?)
「おそらく屋敷の主や夫人の行いが問題かと。精霊は清く誠実な者を好みます」
(つまり、ニルヴァーナ家の者たちは何か精霊たちが見放すような事をしているのね)
「探ってみますか?」
(そうね、お父様の不利益になる懸念があるわ。捨て置けません)
領地の一部を管理させている小領主は当然ながらどの上位貴族も各領地に持っているが、しっかり管理しておかなければ任せている領地が荒れることもある。
ニルヴァーナ伯爵家に任せている町は目立って何か不振な点があるなど聞いたことは無いが、もしかしたら秘密裏に動いている可能性もあるのだ。
そういう輩は、得てして隠れ方が上手いものである。
風月と会話をしながらも、レンシィは廊下を見回しつつ、ゆっくりと進んでいく。
その後ろを警戒しつつ追従するアトラスは、不審そうに周囲を見渡し、困惑げにレンシィへと小声で尋ねた。
「お嬢様、ここは一体?先程までのグロウレン家のお屋敷とは思えませんが」
「勿論よ、だってここはニルヴァーナ伯爵家の邸宅だもの」
レンシィの答えに、予想はできていたがまさか、とぐるぐる考え込んでいたアトラスが驚愕を表した顔をした。
当然だ。瞬きの間に、自分の立つ場所が遥か遠くの地になっていたのだから。
「…そんな馬鹿な……自領地内と言っても馬車で半日は掛かる場所ですよ?それを一瞬でなんて……」
たとえ馬車で半日の場所だろうが、徒歩数分の隣家だろうが、室内に居たレンシィとアトラスが足を一歩踏み出しただけでその場所へ着くなど同じくらいありえないのだが。
アトラスはそんなことをチラッと思ったが、賢明なことに声には出さないでおいた。
廊下の壁にはカーテンのない窓が等間隔に嵌められている。
その向こうには、レンシィの部屋からも見えた夜の空に浮かぶ月が良く見えた。
満月では無いため、明るさは少々控えめだ。
「嘘ではないわ。でなければ貴方を連れてきた意味が無いもの」
「……僕を、連れてきた意味?」
「さぁ、行きましょう」
アトラスの疑問には答えを得られず、またもやレンシィに手を引かれ、暗い廊下を進む。
使用人の1人たりとも会わないのがとても異様に感じ、アトラスは全神経を尖らせて警戒する。
嵐の前の静けさのように、それはアトラスの耳を責め立てた。
やがて廊下は突き当たりを迎える。
そこには1枚の扉が設置されていた。
屋敷の最も奥まった場所なのだから、余程重要な人間の部屋なのだろう。
ニルヴァーナ卿の寝室か何かかと疑問が浮かんだが、そのような場所にアトラスを伴って訪れる意味は無いだろう。
「ニルヴァーナ卿は今日、隣の町に足止めを食らって泊まりだから、戻ってくることはないわ」
「え?……なぜ?」
「馬車の車輪が外れたからよ」
「いえ、そうではなくて……いや、それもなんですけど、なんでそれを」
レンシィお嬢様が知っているのですか?
と続くはずだった言葉は、目の前のドアをノックする音に掻き消されてしまった。
「ちょっ!?な」
「誰!?ここには近づくなと命じてるはずよ!」
アトラスが焦って制止する言葉と重なるように、ドアの向こうから鋭い声が飛んだ。
女性の甲高い声だ。
命じた、ということは、この屋敷でも身分の高い女性だろう。
予想する人物はたった1人だ。
しかしアトラスが止めるより早く、レンシィはドアを開き、中へと入った。
アトラスの手を引いたまま。
「な!?入るなと言ったはずでしょう!?一体なぜ!……え?」
部屋の中は薄暗く、所々にぼんやりとした灯火がある程度だった。
中央に大きなベッドが置かれており、その傍らには反射的に立ち上がったのだと思われる女性が、設置されている椅子から腰を浮かしてこちらを睨み据えていた。
だが厳しく叱責きようとした口が突如止まる。
それもそうだろう、突然身も知らない子供が2人、部屋へと入ってきたのだから。
状況の把握が暫く出来ず、ベッド脇で固まっている女性へ、レンシィはお構い無しに美しい仕草でカーテシーを見せた。
「今晩は、夜分遅くに大変申し訳ございません。ニルヴァーナ伯爵家のご夫人でいらっしゃいますの?」
「な!?……貴方、は……」
一体何者なのかと問いたいが、目の前にいるのは2人とも幼い子供だ。
もし遊びに夢中になり、屋敷に侵入してしまった子供だと言うなら、叱責だけで追い出していただろう。
しかし今目の前にいる子供は、どう見てもそういう〝典型的な迷子〟という雰囲気は感じられない。
アトラスはまだしも、レンシィは堂々とした顔でドアをくぐってきたからだ。
まるでこの部屋が自分の部屋ででもあるかのように。
そして怖じることも無く、見事な挨拶をする。
「初めましてニルヴァーナ夫人。私はグロウレン領の領主、グロウレン公爵家の嫡女、レンシィ・レイ・グロウレンと申します。このような時間に不躾とは存じますが、危急のようである為にこのような訪問となりました。どうぞご容赦下さいませね」
「グロウレン家の…お、お嬢様?……なぜここに!?え!?」
レンシィの名前を聞き、流石に任されている町の領主貴族の名前にギョッとする。
公爵家の人間に、しかもアカデミーの子供たちならまだしも未就学である年齢の嫡子と会うなど、そうそう機会は無いはずだった。
産まれた時の最初の挨拶を除けば、時々夫人方のお茶会で、幼い子供を同伴する程度だろうか。
それすら余程躾が行き届いてなければ、その席で失礼をしてしまう可能性が高いため基本は乳母に預けて行く。
明らかに10歳にも満たないだろうレンシィが、1人で出歩くなど当然ありえない。
「今日は夫人に用があるのではありませんわ。そちらの」
そう告げ、視線を夫人からベッドへと移す。
「ニルヴァーナ家のご令息に、少々用がございますの。少しだけお時間頂きますこと、お許しくださいませね」
「……は?」
言葉だけは丁寧に、しかし行動は無遠慮に。
レンシィは足を進めると、夫人の許可もなくベッド横へと歩み寄ったのだ。
「ちょっと!貴方!」
「……初めまして。私はレンシィ・レイ・グロウレンと申しますの。貴方の名前をお伺いてしても?」
「…………クロノス……」
ベッドの上。
掛けられた布団の隙間から、微かな声がした。
それに、夫人が驚いてベッドの上を見る。
「……クロノス……ニルヴァーナ……」
「クロノス!?意識が戻ったの!?私が分かる!?」
慌ててベッドへと身を乗り出すように夫人が話し掛けると、その人物は僅かに身動きし、夫人の方へと顔を向けた。
随分と、窶れた血色の悪い顔だという感想が、レンシィの頭に浮かぶ。
「信じられないわ……今までずっと……いつ息が止まるかと……」
「毒を飲まされましたのね?」
あぁ!よかった!と息子へ縋る夫人に尋ねたレンシィは、その体がビクリと大きく跳ねたのを確認し、間違いないのだと知る。
詳細は、風月が細かに教えてくれた。
「神経系の毒ですわね。身体中を麻痺させ、やがて呼吸すら奪ってしまう。不幸中の幸いか、量が少なかったために辛うじて命は掴んでいる状況でしょう。毒を盛ったのは、ニルヴァーナ卿の新しい愛人だったメイドかと。既に逃げておりますが」
「自身の行いが招いた罰ね。ニルヴァーナ卿も、ご夫人も」
「な!?」
風月の声が聞かれることは無いため、レンシィが何をどこまで知っているのかは夫人には分からない。
だが突然、断罪されるようなことを告げられれば、いい気はしないだろう。
それが大切な息子に関することならば余計に。
「突然何!?貴方は何なの!?衛兵は一体何をしてるの!?」
夫人は甲高い声で叫んだが、不思議なことに誰一人として駆けつける気配がない。
普通であれば、侍女の1人や2人はすぐに部屋へ飛び込んでくるだろうに。
ベッドの上に横たわるクロノスを庇うように自身の腕と半身で覆い、夫人は警戒するようにレンシィを睨み付けた。
だがレンシィはそんな夫人などお構い無しに、口元へと指を軽く押し当て、何かを考え込んでいる。
後ろではどうするべきか判断がつかないアトラスが、レンシィに危害が及ぶことが無いことだけでもと警戒を続け、主を見守っている。
僅かに膠着した時間は、そう長いものではなかった。
「まずはその身体をどうにかしなければ、落ち着いて話も出来ませんわね。クロノス様、少しだけ失礼致しますわ」
「……なにを……?」
「この子に近寄らないで!」
レンシィが更にベッドへ近づこうとするのを、夫人が鋭い声で静止した。
だが、その夫人へと手を翳し、レンシィは一言告げる。
「黙って」
それだけで、夫人はピタリと動きを止め、軽く口を開いたまま固まったかのように静かになった。
身体が小刻みに震えている。
しかし全く動けない訳では無いようで、夫人は目を見開いたまま、ゆるゆると自身の両手を子供の体へと伸ばす。
実際はただ強い精霊力を叩きつけられ、身体が少しの間萎縮しているだけなのだが、それでも身を呈して我が子を守ろうとする母親の姿が見られた。
その姿に、レンシィは笑みを浮かべる。
「子供が苦しむ姿を見て泣く母親など、不愉快でしかないわ。私が許しませんのよ。だから、ほら」
レンシィは夫人へと向けていた手のひらを、そっとクロノスの胸の辺りへと置いた。
瞬間、まるでそこから水が溢れ出すように、光が湧きいで、流れ出したのだ。
クロノスが大きく目を見開く。
「毒も麻痺も、全て消してしまいましょう」
そう告げながら、光が溢れる部屋の中でレンシィが美しく微笑んだ。
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