19.会ったこともない異母兄弟とは
1番気になる点はやはり、本来のニルヴァーナ伯爵家の嫡子だ。
当主と夫人の血を引く正当な後継者。
アトラスと同い年で男児。
彼が生まれたからこそ、マリアベルはアトラスが産まれる前に屋敷を追い出された。
言い換えれば、それほどに大切とされた存在である。
社交界でデビュタントはまだでも、関係のある貴族家には紹介されていただろう。
そんな子供が亡くなったとなれば、普通は記事になるほど世間は騒がしくなる。
人の口に戸は立てられない、と言うように、噂というのはどこからともなく湧いてくるものだ。
どんなに箝口令を敷こうとも必ずどこからか僅かに漏れてゆく。
もしも密かに葬式でも行っていれば、その噂は社交界で裏話としてひっそりと広まるだろう。
そういった裏話を集め、報告する役目をさせている人間は、上位貴族になればなるほど多く抱え込んでいるものだ。
当然ながらグロウレン公爵家も例外ではない。
しかし公爵夫人であるグローリアでさえ、ニルヴァーナ伯爵家のそういった話は耳に入っていなかった。
嫡子は貴族院に正式に登録される。
死亡したならば届出が必要であり、葬式をするのは当然だ。
そういったことも確認されていないとなれば、考えられることは。
「レンシィ様」
室内にふわりと風が舞う。
丁度いいタイミングで、レンシィが放った最高の間者が戻ってきたようだ。
いや、別にタイミングは遅くても構わなかったかもしれない。
そのまま風月の視界を借りて、実際に確認することも出来たのだから。
(まぁ、これを使うと暫く軽い目眩がするから、口頭で報告を聞いてもいいのだけど)
レンシィは軽く側頭部を押さえると、ソファーの背もたれへとその身を預ける。
他人の視線を借りるからだろうか、毎回精霊たちから視点を借りた後は軽くふらつくため、横になって休むことも多い。
今日はそこまで酷くもないので、ベッドに移動することは無かった。
目の前のローテーブルなど気にもせず、レンシィの前へふわりと半透明のスカートが踊った。
「おかえりなさい、風月。随分と早かったのね」
「屋敷の主はグローリア様の元へとこられており、本邸には伯爵夫人とその子供、そして使用人しかいませんもの。見て回るにしてもこの屋敷より小さくて」
「なんですって?ちょっと待ってちょうだい」
まずは今現在の伯爵家の様子を話し始めた風月を、レンシィが慌てて止めた。
聞き捨てならない言葉が聞こえたのだ。
まさにその事をさっきから考えていたのだから。
「伯爵夫人とその子供、と言ったわね?伯爵家の嫡男は、健在ですの?」
「健在と言えるかは分かりませんが、母親である伯爵夫人に付き添われ、静かにベッドで寝ておられましたわ」
「寝込んでいるの?」
「弱々しい生命力しか感じられませんでした。あれでは残り僅かの命だと思いますわ」
風月の言葉に、レンシィは謎が解けたとばかりにハッと顔を上げた。
これで納得がいく。
ようは、まだ死んでないのだ。
もう既に死んだことにしてもいい問題ないほど弱りきり、先が見えていると言っても、生きてさえいれば手続きなど全て不要だ。
そして伯爵は、自身の息子が死んでしまう前に代理の〝息子〟を手に入れようと画策した。
ニルヴァーナ家の直系を残すためだけに。
先程、ニルヴァーナ卿の言葉を聞いた時と似たような感覚がレンシィを襲う。
あれほど激しいものでは無いが、心地よいものでは決してない。
「どうかお気をお鎮めください。貴方様は私共の至高の存在。感情の波で、下位精霊たちが騒がしくなっておりますわ」
風月の言葉に周囲を見渡せば、いつの間に集まったのか、下位精霊たちが部屋の中に随分飛んでいる。
そして先程ニルヴァーナ卿に張り付いていた子達のように、目付きが若干怖いことになり、中には『くくくっ』と笑っている子までいる。
「いけないわね、感情を波立たせるなんて精霊の姿の時にはほとんど無かったというのに」
「幼い子供の姿になっているからでは?人間の子供はすぐ感情的になり、笑ったり怒ったり泣いたりしますわ」
なるほど、確かにそういった子供たちを、市井でよく見かけた。
「ということは、私はなかなか普通の令嬢として生きれているということになるわね。悪くないわ」
「……………………」
若干ツッコミどころ満載な気がする風月だが、レンシィが満足そうに頷くので何も言わないでおいた。賢明である。
「でもアトラスは子供っぽい部分があまり見られないわね」
市井の子供とアトラス。
よく思い出してみれば、随分と違う。
自領の貴族の子供たちが挨拶に連れられて来たこともあったが、やんちゃだったり人見知りしたりと、あまり子供としては市井の子供と変わらなかった気もする。
それなのに、アトラスは随分と子供らしくない。
レンシィは彼が幼子のように泣く姿も、我儘を言って怒る姿も見たことは無かった。
幼い頃から特殊な立場にいるからだろうか。
正式に雇われているマリアベルならばまだしも、その子供であるアトラスへ従属するように強要したことはない筈だが。
ワガママを言ったことも、聞き分けがなかったことも無い気がする。
しかし、父親の話になった時、彼は初めて深く考え込んでいた。
周囲の音が聞こえにくくなるほどに、自身の中で色々と逡巡していた姿なんて初めて見たかもしれない。
やはり自分の父親などの事は、正直気になるのかもしれない。
「どうなさるおつもりですの?」
問いかけた風月に、少し悩む様子を見せたレンシィは、そのまま答えることなくテーブルの隅に置いてあったベルを手に取り、軽く鳴らした。
チリン、チリンと鳴る高く涼し気な音は、風の精霊の魔法を使っているものだ。
空気の流れを操作し、どんなに遠くの部屋に居たとしても、屋敷内であれば特定の人物へと音が届くようになっている。
グロウレン家では特に重宝している、魔法を掛けている道具の一つである。
これがあるからこそ、使用人たちは常に控えていなくとも、主人が用を申し付けたい時にすぐに気づくことが出来る。
今呼んだのは、マリアベルではなくアトラスだけだ。
「…そうね、まずはアトラスの本心によるわね」
ノックの音が響く。
レンシィが「入って」と声を掛ければ、アトラスがそっとドアを開いた。
風月は特に動かない。
下位精霊と同じく、普通の人間には見えないからだ。
「如何致しましたか?」
「お茶が欲しいの」
「……かしこまりました」
僅かに返事が遅れたのは、お茶の用事だったにも関わらずマリアベルではなくアトラスが呼ばれたことに、違和感を感じたのだろう。
アトラスももちろんお茶の入れ方は覚えているし、幾度も出しているが、それでもやはりレンシィの1番のお気に入りはマリアベルの入れてくれるお茶だ。
「ねぇ、アトラス。お父様というものに興味はある?」
随分と真っ直ぐなド直球質問である。
「正直に言うと、興味自体はありました。ですが、このような事をされる前でしたら、と言いますか。少しは僕と母のことを思ってくれる瞬間があるだろうかと」
アトラスもすんなりと答える。
昨日、ティータイムの際に伯爵家を継ぐ意思はないと確認してはいるが、それとこれとは話が別なのだ。
伯爵家にこの2人を諦めさせる方法は幾らでもあるが、アトラスの気がかりの解消にはならない。
目の前にそっと置かれた紅茶の入ったティーカップを黙って手に取る。
とても8歳とは思えない優美な仕草で紅茶を飲むレンシィに、アトラスの頬がほんの僅かにだが染まった。
父親に会わせればおそらく強硬手段に出るだろう危険性が高く、あまり良しと思えない。
その為可能ならこの案件が解決の目処がたった後にした方がいいだろうなとレンシィはしばし考えていた。
アトラスが入れてくれた紅茶を口に運ぶ。
「……では、貴方の異母兄弟は?」
瞬間、ポットを持つアトラスの動きが止まった。
僅かに見開かれた目は、予想外のことを聞かれたと如実に表している。
「…………そうですね」
手元に視線を落とし、アトラスはポツリと応える。
「……どちらかと言えば、父親の存在よりも、自分に同い年の兄弟がいるのだということの方が、気になっていました」
話題に出ていたのは、ずっとニルヴァーナ伯爵の事だった。
自分の父親が伯爵家当主だった事と同時に知らされたのは、自分に異母兄弟がいるという事だった。
同じ父親を持ち、違う母親から生まれた存在。
アトラスと全く違う、伯爵家で嫡男として育てられた存在。
それでも確かに、アトラスの兄弟となるのだ。
今まで一人っ子だと思っていたアトラスにとっては、かなりの衝撃だった。
それこそ、どこかに居るだろうと分かっていた父親の存在よりもだ。
だがその感情が他者に知られるとは思わなかったようだ。
「既に亡くなったと手紙には書いてあったと母は言ってました。ですが、そういった記事や話は一切聞いていないと奥様は仰ってました。なら、もしかしたらどこかで生きているのではないかと。何かあって、伯爵家を継げなくなったのではと……」
会ったことがないどころか、存在すら知らなかった兄弟だ。
聞いた時、不思議な気持ちになった部分の方が大きい。
だが、そんな兄弟は「あのような手紙」を書く父親の元で育った。
伯爵家の次期当主となるべく。
たった1人の嫡男として。
それは一体どのような環境だったのだろうか。
「僕は、このグロウレン家にお世話になり、お嬢様と出会うことが出来ました。母子ともに良くしていただきました。ウォークマン様に出会い、将来なりたいと思える姿も見ることが出来ました。……僕は、とても恵まれていると感謝しています」
ですが、と彼は続ける。
俯き、少し唇をキュッと引き結んだが、すぐにそれを解き。
「もしも、その兄弟の性別が違えば、もしかきたらその立場になったのは僕だったのかもしれません。貴族の後継として育てられ、母と離ればなれにされていたかもしれない。お嬢様にも会えなかった」
もちろん嫡男として、甘やかされて我儘放題に育っている可能性もある。
自分と正妻との念願の子供で男児だと、愛されて育ったかもしれない。
だがもしもそれ程に息子を愛して育てたのなら、あれほど簡単に切り捨てることは出来ないのではないか。
人の世界を見続け、様々な親子を見てきたレンシィには違和感しか無かった。
それ程人生経験がないアトラスですら、何となくではあるが感じ取ったのだろう。
「……まぁ……そうは言っても、僕には何も出来ないのですが……」
アトラスは微かに苦笑すると、紅茶のお代わりは如何ですかと問うてきた。
この話はこれでお終いなのだとでも言うように。