15.執事の出自
ちょっと痛々しい表現があるかもしれません。
マリアベルは元々庶民の生まれだった。
貧しい家に生まれた彼女は、10歳になり加護の儀を受けると、すぐに住み込みで働きに出ることになった。
実際は前金を多く受け取った両親に、売られてしまったようなものだ。
だが年季が明ければ自由の身。
それまで働くことで家族が養えるならと、マリアベルはニルヴァーナ伯爵家でメイド見習いとして奉公に出たのだった。
その結果、契約である10年の年季最後の年に、ニルヴァーナ家当主のお手つきとなってしまう。
理由は、その時に伯爵家の妻が妊娠していたため。
伯爵家の嫡子誕生という大切な時期の妻は、大事をとって相手にすることが出来なかった。
その為代わりの欲求の捌け口とされたのが、丁度近くにいたマリアベルだった。
若く美しいメイドに手を出す貴族は珍しいことではない。
ましてや妻が妊娠中で大切な時期。火遊びをする男は少なくはない。
ニルヴァーナ家当主も妻に隠れ、マリアベルで欲を発散していた中、屋敷の中で堂々と関係を持っていれば、当然発覚する危険性も増す。
何より、当主から頻繁に呼び出されるマリアベルのことを、他の使用人たちが気にしないはずもなく。
当主とマリアベルの関係は、すぐに当主の妻の耳に入ることとなった。
当主の妻は怒り狂い、マリアベルを激しく鞭打ちにし屋敷から追い出そうとした。
それを止めたのは当主自身。
なぜならマリアベルはその時、既に当主の子を身篭っていたからだ。
なかなか妊娠できなかった当主の妻。
既に年齢は進み、もしかしたらこの妊娠が最後かもしれないと医師から診断されていた。
その妻が出産した赤子が、もしも女児だった場合にどうなるだろうかと考えた。
貴族位は世襲制だ。
代々その家の長男が継ぐこととなっている。
だが女児しか生まれなかった場合、親族から養子を取るか、もしくはその女児に他家の次男、三男あたりを婿に貰い継いで行くことになる。
女性は未だに貴族位を継ぐことが出来ないとされているからだ。
もしも妻が産んだ子が女児であれば、ニルヴァーナ家当主の血を受けた跡継ぎは経ち消えてしまうことになる。
だがもしも、マリアベルがその後で男児を産むことが出来れば。
たとえ庶民の血が半分流れていようとも、間違いなくニルヴァーナ家当主の血を受け継いだ子を得ることが出来る。
そう考え、マリアベルはいざという時の保険として残されたのだった。
当然の事ながら、歓迎される立場ではないマリアベルへの扱いは酷かった。
流産してしまっては元も子もないと、過度な仕事をさせることこそ禁止されてはいたものの、食事は1日に2回、食べ残しの物しか与えて貰えず、控えの部屋は屋敷の隅にある物置へと移され、それまで仲良くしてくれていた使用人仲間は全て口も利いてくれなくなった。
まるで存在しないもののように扱われる日々。
時折、当主の妻から手のひらや背中を鞭で打たれ、罵られる。
当主はマリアベルの妊娠が分かると、様子を見に来ることすら無くなった。
それでも腹の子に罪は無いと、マリアベルはただひたすら耐え続けたのだ。
当主の妻が、元気な男児を出産するその日まで。
「……じゃあ……生まれた子が男の子だったから……」
「そう、私はその日のうちに伯爵家を追い出されたわ。もう随分と、お腹も大きくなっていたけれど」
当時を思い出しているのだろうか、マリアベルは悲しげに目を伏せ、愁いを帯びた声で訥々と語った。
伯爵家から追い出される際に持っていけたものは、こっそりと貯めておいた給金と、伯爵家当主から手を出されていた際に恵み渡された幾つかの宝石。
それらを元手になんとか仕事を見つけようとしたが、身重の女を雇ってくれる所など当然ある筈もない。
幸先の見えない中、町を彷徨い歩いていた所、予定より早いにもかかわらず陣痛が始まってしまったのだ。
助けを求めることもままならず蹲り、途方に暮れていた時に丁度通りがかったのが、メイド長であるエルメシアだった。
「あとはいつも話している通り、グロウレン公爵家の方々に助けられ、貴方を無事産むことが出来たのよ、アトラス」
隣に座り、唖然と見上げてくるアトラスへそっと微笑み、マリアベルは頭を優しく撫でた。
まさか自分が産まれるまでに、母がそれ程壮絶な目にあっていただなんて。
それでも自分を慈しんでくれたなんて。
そしてそんな自分たちを、グロウレン家の方々がどこまでも助けてくれていたなんて。
何という言葉を紡げばいいのか分からなくなり、アトラスは強く口を引き結んだ。
ともすれば、熱い何かが溢れて止まらなくなりそうで。
そんなアトラスに、だが現実は容赦なく時間の猶予を与えてはくれないのだ。
しばらく親子を黙って見守っていたグローリアが、重々しく口を開いた。
「マリアベルは1度伯爵家へ正式に迎え入れられ、性をニルヴァーナと変えていたの。もしも男児が産まれた際、スムーズに貴族籍へ記載ができるように先回りしていたのね」
「……それは、つまり」
「マリアベルは、伯爵家当主の側室として正式に登録されていたということよ」
当然ながら分かっていたマリアベルは、気まずそうに俯いて膝の上で手を強く握る。
貴族位を持つ者は、2人までであれば正妻の他に側室を迎えることは法律で認められている。
世襲制の貴族社会において、後継者を産み、育て上げる事が何よりも重要視されたからだ。
当時は、貴族籍に正式に入れば生活を保証すると言われた。
実の親はマリアベルを捨てたも同然で、助けを求めることは出来ない。
なんとか生きていくために、伯爵の言うことを聞くしかなかった。
愛していた訳でもない。自分を手酷く扱う男に、ただの愛妾として嫁ぐなど、どれ程屈辱だっただろうか。
だがそんなマリアベルを、ニルヴァーナ家はあっさりと捨てたのだ。
ニルヴァーナ家に、念願の男児が産まれたからと。
正妻との間の子で、何よりも伯爵家を継ぐのに相応しいと。
「そんな人間が、なぜ今更手紙を寄越してきたのでしょう」
それまで黙っていたエルメシアが、これ以上耐えられないとばかりに軽蔑をふんだんに込めた声で吐き捨てる。
散々利用し、手前勝手な理由で縛り付けていたくせに、用が無くなればマリアベルの事など一切構いもせずに放り出した。
妊娠中でそんなことをされれば、母子ともに命を落としていてもおかしくは無いというのに。
「それでも、私が伯爵家から追い出された時、すぐに側室の籍を抜かれると思っていたんです」
それが何故、残されたままでいたのか。
しかも8年間もだ。
「手紙には、ニルヴァーナ伯爵家の嫡子が最近亡くなられたとだけ書いてあるわ。事故なのか、病気なのか、または事件に巻き込まれたのか理由は分からない。ただ、そのために今、ニルヴァーナ家は当主の血を引くアトラスを欲しがっている。それだけが確かな事だわ」
「……そして、側室の除籍がなされていない以上、未成年であるアトラスの筆頭親権は、伯爵家の当主となってしまいます」
説明を引き継ぐように、ウォークマンがグローリアの言葉に追従した。
その内容は、マリアベルにとって絶望でしかない。
遂には泣き出してしまったマリアベルは、腕の中の我が子を離すまいと強く抱きしめる。
アトラスは不思議な程静かに、黙って何かを考え込んでいる様子だった。
「このような事態を想定してマリアベルの籍をそのままにしていたのだとしたら、ニルヴァーナ伯爵は相当に慎重派ね。何よりも自身の血を残すことに重点を置いているのだわ」
もしかしたらマリアベルを追い出した時も、どこかで監視していたのかもしれない。
もしもの時の為の布石を幾つも用意し、先回りをしている人物だ。
妻の手前、身重だったマリアベルを放り出したは良いものの、腹の中にいる子は正真正銘自分の血を引く子供。
出来れば残しておきたいと考えただろう。
見張りを立たせておいて、いよいよという時は保護する予定だったのかもしれない。
しかし寸前で、エルメシアがマリアベルを見つけ、保護した。
「……あの人は……どこまで私達を利用すれば気が済むの……」
マリアベルが怒りのあまり全身を震わせる。
あの屋敷にアトラスが連れていかれれば、どのような扱いを受けるか分からない。
子供ですら道具としか思っていない伯爵に、愛する息子を渡すなど到底出来るはずもなかった。
しかし、だからといってどうするのか。
「とにかく、親権の主張を明示している以上、逃げるのは得策ではないわ。下手をすれば次期当主となる伯爵家の長子を、母親であるはずの貴方が誘拐したことにされかねない。追っ手がかかれば捕まるのも時間の問題よ。そうなってしまえば寧ろこれ幸いと貴方からアトラスを完全に奪ってしまうでしょう。本人の意思など無視して」
「そんな!ではどうすれば!」
悲鳴のような声を上げたマリアベルの肩を、グローリアがそっと手で包み込む。
焦りは禁物だ。最善の策は、冷静な頭の中にこそ生まれてくれるものである。
「どんな権利を主張するにせよ、今すぐ強引にアトラスを連れていくことなんて、流石の伯爵も出来ないでしょう。何より今まで大切に育ててきたのは貴方。そして援助をしてきたのは、私達グロウレン公爵家。そこは無視できないはずよ」
貴族位としては、伯爵家にとって王国の四大公爵家は雲上人のようなものの筈だ。
社交の場では、滅多なことでは挨拶すらできない。
それが無礼にも、こちらの予定すら考慮せず明日訪ねてくるなどという態度に出ているのは、今丁度グロウレン家の当主であるエドウィンが不在だと知っているからだろう。
つまり、妻であるグローリアは完全に舐められているのだ。
しかし悔しいことに、公爵家の正妻であるグローリアが強く出れないのは、その身に纏う闇のような色のせいだ。
光の精霊を崇めるこの国において、闇の精霊を象徴するかのような黒い色は忌避されるものだ。
グローリアの瞳と髪の色は有名であり、格好の噂の種とされていることをグローリアは知っている。
光の精霊に愛されない公爵家の妻。
その為、グローリアは1人で社交の場に出る事はなく、エドウィンの横に静かに佇む黒百合のようだった。
大人しく従順な公爵夫人と見えることだろう。
エドウィンが不在のうちならば、無理矢理にでも要求を飲ませることが出来るかもしれないと、相手に舐められるほどに。
だが実際のグローリアは、時にエドウィン以上に苛烈な面があることを、公爵家の人間ならば誰しもが知っている。
伊達に王家に反対されても、エドウィンとの愛を選び結婚まで掴み取った女性では無いのだ。
「とにかく、明日は私がエドウィンの名代として話を聞くわ。マリアベルとアトラスは、その間西の別館へレンシィと共に移っていてちょうだい。本邸にいては、万が一鉢合わせして無理にでも押し通される危険性も無いとは言いきれないから」
「奥様……」
「相手がどんな条件や権利を出してくるか分からない以上、こちらも弁護士を手配して考えられる策を今のうちに練ることにしましょう。まずはそこからね」
「……はい……」
今のままでは解決策も出せないことは、マリアベルも分かっているのだろう。
重々しく頷くと、不安げにグローリアを見上げた。
そんな彼女に安心させるように優しく微笑むと、グローリアはマリアベルの腕の中に未だ収まっているアトラスへ、改めて声を掛けた。
「アトラス、急なことで頭が混乱していると思うわ。本来なら時間を取って、ゆっくりと色々考えられる時間を与えてあげるべきなのでしょうけれど、残念ながらそんな猶予はないの」
まだたった8歳の子供だ。
先程の説明で、どれだけ理解しているのかも怪しい。
元々優秀で聡明な子供ではあるが、だからといって大人の事情や思惑までも理解出来る訳では無いのだ。
当事者であるにもかかわらず、未だにほとんど発言をしないアトラスの視線に合わせてしゃがみ込んだグローリアは、幼さの残るまろい頬をそっと撫でた。
「貴方の母であるマリアベルは、貴方を伯爵家へ渡すことは断固反対しているわ。私も、そんな家に引き取られて、貴方が幸せになるとは思えない。だから全力で貴方を守ろうと思うのだけど、もしも貴方がニルヴァーナ伯爵家の投主の座を継ぎたいと、少しでも望むのであれば、それは貴方の自由よ。ただし、こんな急に決めることではないわ。今回は一旦、何とかお引き取り願って。もしも貴方が望むことがあるのなら、別の形で伯爵家へ話をすることも出来る。その事を、落ち着いてからでいいから考えて欲しいのよ」
グローリアの言葉に、アトラスの赤く色づく瞳が更に紅さを増す。
その後、大人たちがバタバタと慌ただしく駆け回る中、アトラスはしばらくの間、何も言葉を発することなく険しい顔で考え込んでいた。
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