10.食べる点滴のような
エドウィンが領地の自宅である屋敷へと帰ったのは、キャンプ地への支援を開始してから5日後だった。
帰ったと言っても一時的なものでしかなく、不足している物品を補充すれば再びキャンプ地へ戻る予定だ。
騎士団は数人を除きそのまま彼の地へ留まり、避難民たちのために支援活動を続けている。
そのため今回向かう際はグロウレン家直属の騎士団ではなく、領地の各村から手配をした衛兵を連れていく予定だった。
自警団を兼ねている彼らは領地の至る所に配置され、各村の治安を守っている。
本来ならばあまり人手が潤沢とは言い難いため、どこの村の衛兵舎も手薄にしたくないのだが、今回はそうもいかない。
最低限でもあのキャンプ地に頑丈な住宅を建てなければ、いつまでもテント暮らしでは幼い子供や高齢者には厳しい寒さが訪れる月になってしまう。
それまでには、全ての村人が暖かく水の精霊の月を迎えられるようにしなくては。
いくらここ数年マシになっているとはいえ、雪が積もることも多いのだ。
それに数年間降雪が控えめだったからといって、今年もそうだとは限らない。
早くしなければ、多くの者が命を失うだろう。
そのためやむを得ない決断として衛兵の各団長へ相談したのだ。
エドウィンの心根をよく知るそれぞれの団長は、もちろんだと快く引き受けてくれた。
お陰で最短で進めることが出来るだろう。
「エドウィン、おかえりなさい。疲れたでしょう?」
「あぁグローリア。いつも不在ですまないね。今回ばかりは時期も悪く、急ぐものだから」
ソファーに座り、エルメシアの入れてくれた紅茶をゆっくりと味わってしばらく。
背もたれに身を預け、僅かに目を閉じていたエドウィンに、傍に座っていたグローリアが見かねて声を掛けた。
王都から戻ってすぐにこの問題に取り掛かったために、エドウィンは休む暇もなく動き回っている。
疲れが溜まっているであろう夫への心配が、グローリアの声と表情には溢れていた。
エドウィンの頬へと伸ばされた細く白いグローリアの指を、無骨な手がそっと包み込む。
剣の腕は王都の騎士団すら足元にも及ばないと名高いエドウィンの、所々固くなった皮膚が覆う手のひらだ。
グローリアはその手が愛おしかった。
武門の天才だと謳われた彼の、人知れず重ねてきた努力の証だ。
「いいのよ、そんなこと。貴方が無事でいてさえくれれば」
「グローリア…なんて優しいんだ……君とレンシィが笑顔でいてくれるなら、私は100日寝ずとも働き続けられるよ」
「……お身体が心配だからそんなことはやめてくださいませね?是非に」
抱き寄せ、そのきめ細やかな頬に口付けながらエドウィンが囁く言葉に、グローリアは軽くストップを掛けながら促されるままに隣へと座る。
冗談とは分かっていても少しだけ眉をひそめた妻にもちろんだよ、とエドウィンは笑うが、またすぐに視線がうろ、と彷徨うのだ。
エドウィンが深く考え事をしている時の癖である。
「何か気になることが?」
普段であれば仕事の関係もある夫のこと、望まれない限りは深く立ち入ることのないよう気をつけているグローリアだ。
だが今回は何故かいつもと違うような気がして、そっとエドウィンに問うてみた。
もちろん、エドウィンが話せないというならばすぐに引くつもりで。
しかしエドウィンはグローリアの問いに負の感情は一切見せず、僅かばかり目を見開いて振り向いたのだ。
だがそれも直ぐに元の穏やかなものへと変わる。
「……そうだね……うん……」
しかし言葉にはまだ迷いがあるのか、歯切れが悪い。否、どちらかというと、説明に窮しているかのようだ。
やがてエドウィンは自身の手に添えられた妻の手を握り返し、とつとつと話し始めた。
「今回、避難民の長と落ち着いて話が出来た。遠方から追い立てられて我が領にたどり着いたと聞いていたから、こちらを信用してもらうまでにかなり時間を要すると覚悟していたんだが、意外にも何一つ疑われることなく招かれてね」
「まぁ、それは凄いわね」
平民の中には貴族というものを嫌う人間も多い。
自分たちが働いた金を搾り取り、贅沢を窮め、身分を笠に着る貴族位の者も多い。
特に今回は自分たちを治めているクロウ領の苦しい税による結果が大きいのだ。
しかも逃げた先々で伸ばした手を叩き落とされた状態。
同じ貴族であるエドウィンを嫌い、警戒し、まともに話すら聞いてくれないだろうと覚悟していたのに。
「そうなんだ……凄いんだ……」
「エドウィン?」
「……普通は考えられないのに、初対面であるはずの私を、最初から信用してくれているようだった。彼らのこれまでの経緯や領地での生活なども、詳しく教えてくれたよ」
「……まぁ……それは……」
「……うん」
何と答えてよいか分からないグローリアは、言葉を途切れさせてしまう。
エドウィンはローテーブルに置かれたままだったティーカップの残りの紅茶を飲み干し、黙って見守ってくれている妻へととつとつと話しだしたのだ。
元々あまり豊かではないクロウ領だが、10年ほど前から特に作物が育ちにくくなっていた。
この国の全てのものは精霊に影響されている。
そのためまるで精霊から嫌われてでもいるかのように続く不作に、クロウ領の多くの小領主が集まり、領主であるクロウ侯爵へ支援の要請と精霊たちの調査の嘆願に行くも相手にされず、逆に更に税は厳しくなったという。
ついには税を納めるどころか自分たちが食べていくことすらままならなくなり、畑はどんどん死んでいき作物は枯れ。
そうして遂に彼らはその土地を捨てることを決意した。
仮令それがもう二度とクロウ領へ戻れなくなる、一か八かの生死に関わる賭けとなるものだとしても。
他の領地へと、移住という形の救いを求めることにしたのだ。
だがしかし結果は尽く手を振り払われ続ける事となる。
豊かな領地と言えるほどではない地域もあるのだろうが、全ての領地がそうではない。
例年安定した気候に恵まれ、安定した収穫を得ている土地だってあったはずであるのに。
どうしても自分たちの身を削ってまで下々の民を助けてやろうとする貴族は多くはなかった。
避難民の話を連ね、支援をお願いできないかと王都の貴族院へ使いも出したが返事は来なかった。
避難民達の心はすさんでいく。誰も自分たちを助けてなどくれない。
死んでしまえと思っているのだろうと。
更に追い討ちをかけるように、移動の際に通った森で魔獣の群れと遭遇してしまい、男たち数人で何とか追い払えたものの、村人の幾人かが犠牲となった。
子供や老人を乗せていた荷車はボロボロに。歩き続けた大人たちも限界に達し、食料や水も底を尽き、準備してきたテント類は汚れ、満足な管理も間に合わず、怪我人に対する手当も出来なくなっていた。
エドウィンの予想通り、彼らはもう後がないと思い詰めるほど、追い詰められた状態になっていた。
「……なんという……それでよく信用して頂けましたわね……」
「…あぁ……それなんだけどね……彼らの姿は、とてもその話の通りに虐げられて流れてきた者たちの姿ではなかったんだ」
「どういう意味ですの?」
妻の問いに、エドウィンは彼らの姿、キャンプ地の様子や雰囲気などを、感じたことそのままにグローリアへ伝えた。
エドウィンの話に、グローリアはとても信じられないと驚きが隠せない。
もちろん彼らが辛い目に遭っておらず、ことが穏便に運んだのは何よりだが。
「……クロウ侯爵などの何かしらの企みの可能性などは……」
「私もそれは考えたんだが、このようなことをしてもなんの利益にもならないと思うのだよ。なにより、私たちを騙そうとするならば、寧ろ避難民らを悲愴に見えるよう手を尽くすだろう。それなのに彼らは演技する様子など欠片も見えなかった」
それに、とエドウィンは続けた。
何よりも彼が気になったことだ。
「彼らが天幕を張っている土地の至る所に、まだ若い低めの木が数多く生えていた」
「木……ですの?」
「その木には、熟れて食べ頃になった、見たことの無い果物が山のようになっていた」
そうしてエドウィンがソファーの隅に置いていた麻袋を手に取り、広げてみせる。
その中には、大人の手のひらほどの薄紅色に染まった柔かそうな実が数個入っていた。
不思議なことに、袋に無造作に入れられ、馬で半日かけて移動してきたにもかかわらず、取り出した実はどれも傷1つついていない。
テーブルの上にコロコロと置いてみれば、その果実にグローリアが目をまん丸にして凝視している。
それもその筈だ、公爵邸の庭園は彼女が取り仕切り、季節ごとに美しい花が咲き、趣のある木々が植えられている。
それ程に彼女は植物を愛し、慈しんでいる。
地の上位聖霊の加護を受けているからだろうか、緑豊かにする能力は王都のどの植物学者にも引けを取らない程だ。
故に興味を引かれるのだろうが。
「初めて見ますわ、これは一体なんという果物ですの?」
「博識な君すら知らないとは、やはり相当に珍しい物なのだな」
「……我が領地の植物の全てを調べあげている貴方が確認していない植物だった、ということですわね?」
グローリアの言葉に、エドウィンは眉を寄せて頷く。
自身の治める土地に知らない植物。そしてその植物に着いた実。
人々が加食する可能性があるものは全て調べ、毒性が無いかを確認しておくのはその土地を治める貴族の義務だ。
しかしエドウィンがどれほど確かめても、葉の形、幹の皮、そしてたわわに実る果実の全てが、自領では一切確認したことがないものだったのだ。
目の前で子供たちが加食し、その後も幾人かの避難民らが自由にちぎっては食べていたため、おそらく即効性の毒性は無いと思われる。
だがこの世界には遅効性の毒物を帯びている植物もあるのだ。油断はできない。
新種である事も考慮し、王都に持ち帰り研究機関に確認を取るのが当然の流れなのだが、現に今、目の前で民らが口にしてしまっている。
どのような身体的影響があるのかが分からない。
経過を観察するためとはいえ、今の状況の民を誰か1人選び、王都の機関へと預けることも躊躇われる。
しかし出来る限り早く調べなければ、もしも毒性があった時の解毒薬への対処も遅くなるのだ。
下手をすれば、このキャンプ地の避難民らが全て命の危険にさらされてしまう。
果実を前に悩んでいたエドウィンへ声を掛けたのは、グロウレン家直属騎士団の1人だった。
自分が代償して食し、この果実を持って王都の研究機関へと赴くのはどうだろうかと。
直属の騎士団とは、時に家族よりも深く関わることもある。誰一人残らず大切な存在である。
任務でならばまだしも、このような犠牲となり得るかもしれないことをさせるわけにはいかないとすぐ様却下したエドウィンの静止を聞くより先に、彼は側にあった木の枝から果実をもぎ取ると、手のひらでポン、と軽く遊ばせた。
「誰よりも民を大事にしてくださる貴方様だ。何がいちばん早く、そして最善かは、貴方様が1番よくお分かりでしょう?」
「しかし!」
「伝令を走らせ、それが戻ってきた際にこの果実と食べた者の代表を王都へ赴かせるとなれば、相当な時間がかかります。その間に何かあれば、手遅れとなってしまうでしょうね」
彼はそう告げると、果物の片手に持ったまま、エドウィンへ深く頭を下げた。
「私、バルト・エグニスィアは、グロウレン家直属の騎士団となれたことを誇りに思い、主人の安全と望みのために最善を尽くすことを誓った身。あの民らに何かあれば、我が主君はその優しさゆえ、たいそうお嘆きになるでしょう。その杞憂を払えるのであれば、私は喜んで最善に至るための駒となりましょう」
そう告げると、バルトと名乗った騎士はエドウィンの目の前でその果実を齧ってみせたのだ。
やがて覚悟と緊張を孕んだその瞳が驚きに目を見開き、しばらく味わうように咀嚼した後に、残りの果実を夢中でかぶりつき食べてしまうまで、エドウィンはどうして良いかわからず動くことも出来なかった。
果実にはどうやら種らしきものは無いようで、皮も薄く柔らかいのかそのまま丸かじりし、下手を残して全て食べ尽くしてしまっていた。
バルトは全てを食べ終わると名残惜しそうにその木を見遣り、だがそれ以上手を伸ばすことは耐えたのか、エドウィンへと振り返った。
その表情は、先程までのものとは全く違う。
比喩でもなく、何故だが顔色まで良くなっている。
「私は木の実を幾つか王都の研究機関へ依頼書と共に運び、そのまま経過観察の対象として申し出を致します。よろしいでしょうか」
「……あ……あぁ……」
既に食してしまったのだ。
ならば彼を研究機関へと送り、依頼書を届けて貰うより他に良い方法はない。
何より、もしもバルト自身の身体に異変が起こった際、対処できるとすれば王都の研究機関のみなのだ。
そこへ本人ごと走らせるのが、彼の安全のためには最も最良だった。
それにしてもだ。
「……おい、バルト。お前何だかおかしくないか?」
「え?いえ!何もおかしくなどありません!むしろ何故か先程より力が漲ってまいります!依頼書を頂ければ、すぐに出発いたします!」
「…………分かった」
おかしい。
絶対におかしい。
明らかにバルトの顔が晴れやかになり、何だか肌に瑞々しさが出ている気がする。
だがそれをなんと伝えて良いかわからず、また笑顔で忠犬のごとく、エドウィンが依頼書を準備するのを待っているバルトを前に、エドウィンは言葉を飲み込んでしまったのだった。