1.始まりの出会い
楽しんで頂けましたら幸いです。
その小さな声が聞こえたのは偶然だった。
いや、そもそもがまだ魂の状態でこの世界に迷い込んできたのならば、余程精霊との相性が良かったのだろう。それならある意味で必然だったのかもしれない。
その中でも何より、光の属性と近しい魂だったために聞き取れたのか。
光の精霊王、レンシィは黄金の髪を光の中に靡かせながら、その声が聞こえた方へと足を向けた。
これも珍しいと言える。本来の彼女は、他者に対して興味を向けるということが鈍化している。
それはあまりにも長い生を約束された存在がゆえなのか。
精霊樹の森の中。木々の間を抜ければ、小さな空間がぽっかりと姿を現す。
自身の力を存分に浴びているこの世界で、キラキラと光の欠片を散らしながら佇む一際立派な大樹。
その大きな幹の前で、光の粒子が泣いていた。
否、それはレンシィが指を伸ばせば火の花が弾けたような光を放ち、やがてじわじわと形を取り戻す。
見た目がまるで包まった魚のような形となった時、レンシィはようやくそれが何なのかを知る。
それは人の子の胎児だった。
しかもまだ受精して間もないのだろう。
「これは珍しいこと。人間が迷い込むことは時折あるけれど、まさか産まれる前の魂と精神の姿で迷子になるなんて。貴方は余程方向音痴なのね」
本来、剥き出しの魂はその周りを精神の膜で覆われ、それを肉体が覆っている。
この胎児は、肉体をどこかに置き忘れたまま精神を纏い、魂の姿で迷い込んだようだ。
こんな迷子は初めて見る。
『……貴方は……誰ですか』
辛うじて目の辺りだと思わせる窪みから、幼すぎる命はポロポロと涙を流す。
それはガラスの破片のように降り注ぎ、空中の中へと消えてゆく。
その胎児へ、レンシィは指をそっと伸ばした。
「ここの主みたいなものよ。貴方を元の場所へ帰してもあげられる」
『……ホントに?』
「本当よ」
胎児を護るように囲む光の粒が、レンシィの伸ばされた指先に絡みつくようにその指を受け入れると、胎児はまだ未発達の小さすぎる手を伸ばし、レンシィの人差し指のほんの先を握りこんだ。
その魂に触れて初めて、レンシィは気付いた。
「……貴方……」
『でも……ダメなんです……』
帰れると告げたレンシィの言葉でも、止めどなく流れる涙を止めることの無い胎児はフルフルと小さく首を振った。
羊水の中にでもいるかのように、光に包まれたその中心でふよふよと漂う。
『私が戻っても……ダメなんです……』
「……そう……貴方…枯葉病なのね」
確認するように告げると、今度は小さな小さな首が縦に振られた。
枯葉病。
それは人間たちが付けた、病と言われるもののひとつの名前だ。
それまで元気だった人が、ある日を境にどんどん衰弱してゆき、最後は眠るように息を引き取る。
原因も治療法も分からないとされるその病は、一度罹れば絶対に助からないと言われている不治の病だ。
人から人へ感染するものでは無いらしく、その枯葉病の近くに居たからといって同じ枯葉病を発症した事例は無い。
だが、レンシィたち精霊は知っていた。
魂に触れることが出来るが故に、悟れたのかもしれない。
それは魂自体の摩耗。
幾度も輪廻転生を繰り返した魂が少しずつその身を削り、最後にはこの世界の中へと溶けて万物の一部となる、自然の摂理だった。
そして散り散りになった魂は、再び長い年月をかけて集まり新しい魂となり、また輪廻転生の中へと戻ってゆく。
病でもなんでもない、魂の寿命なのだ。
『私はもう幾度も転生を繰り返しました。産まれた先では記憶は失われていましたが、どの生もそれなりに長く生き、幸せと言えるものでした』
時には小さな村の娘。また別の生では市井に住まう商家の息子。時に旅を続ける一座の娘として産まれたこともある。
魂は同じ種族の中を巡り巡る。
人の輪廻に流れ込んだ魂は、幾度転生しても人に生まれ、虫や鳥、動物や魚に流れ込んだ魂は、それぞれの輪廻を繰り返し続ける。
その魂が寿命を迎え、再び新しいものへと生まれ変わるまで幾度も。
その胎児は、最後の転生をする命になったのだろう。
だがしかしだ。
『私はこのまま産まれても、おそらく1年と生きることが出来ないでしょう……』
それが悲しくて泣くのだと、胎児はただ告げた。
形のない涙がはらはらと零れ落ち、小さな雨だれのようだった。
「生きられないのが悲しいの?」
レンシィの問に、再び胎児は首を横に小さく振る。それはとても力なく思えた。
『違います。私は……私は……両親を悲しませてしまうことが……何よりも悲しい……』
微かに風が流れ、森の木々をさあさあと撫であげる。
レンシィの美しい金髪を揺らしながら通り過ぎてゆくそれらは、零れ続ける胎児の涙を攫って消えてしまった。
レンシィの指先をちょんと掴んでいたはずのその小さな手が、自身の顔を覆う。
頭に対してあまりにも小さすぎる手は、目を隠してしまうだけで精一杯だ。
『私の両親は、まだ宿ったばかりの私をとても慈しみ、愛してくれています。母の身体が弱いため、妊娠は難しいと言われている中で、ようやく授かった愛しい子なのだと言ってくれました。きっと産まれれば、それはそれは愛してくれるでしょう。それなのに、私はすぐに二人に別れを告げなければならなくなるのです……』
「……まぁ……それは……」
『あの人たちを悲しませたくない。笑っていて欲しい。そう願うのに……私は両親を嘆き悲しみの底へと突き落としてしまう……それが何より悲しいのです……』
そう言って嘆く胎児は、今にも消えてしまいそうな程に擦り切れていた。
その姿に、レンシィは珍しく憐れだと思った。
一言で言えば、気に入ったのかもしれない。
この小さな幼い、そして老いた魂の主を。
無事に産まれ、育つことができるなら、もしかしたら精霊の加護を与えてもいいとすら思えたかもしれないほどに。
だが現実は無情だ。
精霊の中でも癒しと幸福の力を持つ光の属性とはいえ、枯葉病だけは治すことは出来ない。
これは病ではなく、魂の寿命なのだから。
レンシィに出来ることは何も無いのだ。
はらはらと流れる涙へ、レンシィはそっと唇を寄せた。
「泣かないで、愛しい子。その涙を止めるためなら、私は何でもしてあげたくなるわ」
『私の願いはただ一つ。優しい私の両親が、悲しみに暮れることがないようにでございます……それ以外はなにも望みません……』
だがそれは叶わない。
この魂が潰えてしまえば、かの両親は嘆き悲しみ、苦しむのだろう。
大切な赤子を喪って、嘆かない親など親ではない。
慰めるようにそのまろい身体をそろりと撫でる指に縋り、胎児が宙を弄び揺蕩う。
その様子を見守っていれば、しばらくして胎児は何かを思いついたように顔を上げた。
瞳のまだ作られてもいない瞼ばかりのそれが、ひたりとレンシィを捉えている。
『もしも…もしも可能であれば、私の身体に新しく入って頂ける魂はございませんでしょうか』
「なんですって?」
突拍子もない願いに、レンシィの目が見開かれた。
まるでそれが最後の希望ででもあるかのように、レンシィの白い指先に胎児が両手で縋り願う。
『私の魂ではなく、どなたかの魂が入ることが出来れば、あの身体は生きることが出来ましょう。それならば、両親を苦しめることはありません』
「でもそれは……貴方の身体でしょう? 貴方ではなくなってしまうわ」
『たまたま私が入る予定だったものでございます。違う方の魂を得れば、それはその方のものとなるでしょう』
「それは……」
別の魂がその身体へと入り、産まれれば、それはその魂の持ち主の身体となるだろう。
両親はこの胎児のものではなく、誰か他の子供の親となってしまうのだろう。
誰よりも、両親の幸せを祈り願ったこの子の存在は消え失せて。
それはなんと悲しいことだろうか。
だが、胎児の言う通り、両親を悲しませないのであれば、その方法しかないのだろう。
なんと哀れな子供だろうか。
そして優しい子供だろうか。
「……分かったわ。その願い、叶えてあげましょう」
『本当ですか? 精霊様』
愛しい子はおそらく、レンシィの精霊としての位を知らないのだろう。
ただ目の前に現れた光の精霊に、ひたすら願ったのだ。
大切な人を悲しませないために。
そんな優しい可愛い子の願いを、聞かないなんて出来なかった。
「ええ、大丈夫よ。だから貴方はもうこれ以上耐えることなく、安心して還りなさい」
それは母の胎内ではなく、この世界の中へということだ。
懸命に耐え続けたその魂は、既にボロボロと崩れそうになっている。未だ消え散ることがないのは、ひたすらに親を思う子の心の強さだろう。
しかしそれも限界だ。
摂理に反すれば、酷い苦痛を伴う。
胎児の小さな手が、細やかに震えているのはそのせいだろう。
それに、安心するように指先で撫でた。
「安心しなさい、愛しい子。私が貴方の事を忘れず、その思いのまま身体を受け取りましょう。貴方の心は私と共に、その両親の元へと帰るのです」
『……なんと……』
レンシィの言葉に、胎児が言葉を失う程に驚いたのが分かった。
だがもう決めたことだ。この子の思いを、消してしまうことなど許さないと。
「私は精霊。ここにあるのは魂そのもの。私がその身体へと宿り産まれれば、誰も泣くことは無くなるでしょう」
『宜しいのですか?』
「果てしない時を過ごす身。その中のほんの僅かな時間を、人として過ごしてみるのも面白いでしょう」
『それは……なんという……』
「貴方の両親への思いごと、私は宿り産まれましょう」
全くの知らない魂ならば、愛し子の思いは消えてしまうだろう。
だが、この小さな身体より託された、大きな思いを忘れずに産まれることができるならば。
「あの両親は、貴方と私の親となるのでしょう」
他の誰が知らなくとも、私が忘れないと告げる。
その言葉に、今度こそ胎児は顔を覆って嗚咽を零した。だがそれは、先程までの嘆きの涙ではない。
喜びに溢れた、薄紅色の涙だった。
『ありがとうございます精霊様……そのような奇跡を起こせるのならば、貴方様はとても尊い方なのでしょう。数々の非礼をお許しください』
「何も気にしなくていいわ、愛しい子。私は貴方がとても気に入ったのよ。安らかに眠りなさい。そして次に魂がまた産まれる時、幸せになればいい」
貴方に光の精霊の加護を。
そう呟くと、胎児のつるりとした頭にそっと口付けをした。
胎児がうっとりと瞼だけの目を細め、レンシィの頬に触れる。
その指先が、光となってサラサラと溶けだした。
「さぁ、僅かの間お休み、愛しい子。貴方の幸せを祈っているわ」
『ありがとうございます精霊様……最後に貴方様に会えたことは、私の至上でございました……』
そしてどうか、と愛し子が祈る。
それは初めて、レンシィが他者から自身に受けた祈りだった。
『どうか貴方様も……幸せに。人の生を、楽しんで頂けますよう』
その子は穏やかな微笑みを湛え、紅茶に注いだ砂糖が溶けるように消えていった。
後に残るのは、まるで星が落ちてきたような輝きの欠片のみ。
虚空に漂う光に指先を伸ばすが、届く前に潰えてしまった。
「……ありがとう、愛しい子。さぁ、心は私と共に」
そう告げて、白いヴェールのようなドレスをはらりとはためかせると、レンシィの姿は掻き消えるようにその場から失われたのだった。
読んでくださってありがとうございました。