第20夜
薄暮。
夕焼けに赤く染められた雲が西の空からゆっくりと流れ、澄み切った群青色へと移り変わる大空に美しい彩りを添えている。
どこまでも続く草原の中をさわさわと吹き抜ける風に髪を遊ばせながら、私はいつまでも唯々佇んでいた。
視界いっぱいに広がる美しい景色に、心まで洗われていくようだ。
ふと、ここは何処だろうと小首を傾げる。
私はいつからここにいるのだろう?何をしていたんだっけ……?
記憶が曖昧で、何も思い出せない。
その時、背後から誰かに呼ばれた気がした。
ゆっくり振り返ると、少し離れた場所で小さな人影が私に向かって大きく手を振っている。
女の子だろうか?薄紅色の着物を着て、片手にたくさんの花を抱えている。
しかし、私はその顔は見ることができなかった。まるで靄がかかっているかのように輪郭がぼやけて、声もはっきりと聞こえない。
誰だろう?
あぁ、でもーーーー
愛おしい、と思った。
私はあの子の為ならば、どんな犠牲を払おうとも護ってみせる。
私の大切な大切な、
「…………?」
微睡の中でゆっくりと意識が覚醒する。
薄く開けた瞳には、格子状に細い木が張り巡らされた見知らぬ天井が映っていた。
陽に焼けた天井板にゆらゆらと影が揺れ動いている。視線だけゆっくりと右へ移すと、木漏れ日が障子を透かして部屋の中を柔らかく照らしていた。
背中に感じるサラリとしたシーツの感触に自分は布団に寝かされているのだと気が付いたが、ここが何処で何故寝ていたのか思い出せない。
その時、冷たい何かが耳朶へポトリと落ちてきた。
不思議に思いそっと触れると、それは自分の瞳から零れ落ちる涙だった。
濡れた人指し指を親指と擦り合わせながら、目覚める前に感じていた何かを思い出そうとする。
なんだか、懐かしい夢を見ていた。
どんな内容だったのか覚えていないけれど、とても愛しくて、哀しい夢だった気がする。
しかし、どうにも思い出せそうにないと早々に諦めた私は、濡れた手を顔の横へぽすんと置き、ぼぉっとしたまま揺れ動く葉の影を映す天井を眺めていると、ふいに左側から襖が開く音がした。ゆっくりと首を動かすと、そこには水を溜めた桶を抱える葵が立っていて、私が起きていることに気が付いた途端、眉を八の字にして心配そうに枕元へと座った。
「椿、やっと目が覚めたんだね」
「……ここ、は」
「支部屋敷だよ。襲撃の件で話している最中に急に倒れたんだ。具合はどう?」
そうだった。
妖の襲撃に遭って、その件で話していた時に頭痛と目眩に襲われたんだった。
やっと現状を思い出した私は、重たい身体を起こして葵の顔を見る。
心配そうに揺れる深い青の瞳が部屋に溢れる光を映していて、まるで燦く水面のようだなと思った。
恐らく私の前でしか見せないであろう葵の情けない表情にぷっと吹き出すと、安心させるために小さく微笑んだ。
「もう大丈夫よ。だからそんな顔しないの」
「……笑うことないじゃないか」
「ごめん、ごめん」
ジト目で不貞腐れたようにこちらを見る葵に、コロコロと笑いながら私は謝ると、どれくらい寝ていたのか尋ねた。
「半日かな。今は月曜日の昼過ぎだよ」
「結構寝てたね……って!月曜日!?」
「えっ、うん、そうだけど……それがどうかした?」
「仕事!!」
「あ」
やばい。無断欠勤してしまった。
というか、昨日の夜の時点で翌日が仕事だということはすっぽり頭から抜けていた。
今からでも連絡すべきか……と、部屋の隅に置かれていた自分の鞄を手繰り寄せ携帯電話を取り出して液晶画面を見ると、そこには杵柄さんからの怒涛の着信履歴が表示されていた。
その時ふと、疑問が頭を掠める。
「ここ、電波入るんだ?」
液晶の左上に表示される5本の縦棒のうち、左2本に色がついている。つまり、ここには電波があるということだ。
しかし、自宅である屋敷には社務所を通して配線を伸ばしているから電気やネット環境が整っているけれど、そんな屋敷は自分の知る限りウチしかない。基本的に支部屋敷というのは、人間の住む世界とは別の空間にある。そのため、携帯電話の電波はもちろんのこと、電気すら通っていないのだけれど、まぁ正直無くても困ることはない。むしろ今までそうやって暮らしてきたのだから、それが当たり前の世界なのだ。
首を傾げる私の仕草に葵は、あぁ、と小さく呟いた。
「たぶん、入り口が開けっぱなしだからだと思うよ」
「開けっぱなし?」
「うん。本殿とか社務所の修繕しないといけないからね。動けるメンバーがさっきから忙しなく出入りしてる」
「なるほど」
まぁ何にせよ、携帯電話が繋がるのなら有り難い。
私はこの後言われるであろう叱責を想像し憂鬱になりながら、とりあえず職場ではなく杵柄さんへ電話を掛けることにした。数回のコール音が流れると、電話口からかなり焦った声色で小さな叫び声が聞こえた。
『椿ちゃん!?』
「あー……ごめん」
『電話繋がらないから心配したんだよ!?何かあったの!?』
「ちょっとね……昨日の夜に倒れて、さっきまで寝てたの」
『えぇ!?大丈夫なの?』
「今はもう大丈夫。迷惑かけてごめんね」
『それは構わないけど……真面目な椿ちゃんが無断欠勤だなんてって、課長もかなり心配してたよ』
「あ、てっきり怒ってるかと」
『普段からの勤勉さの賜物だね。怒るどころかワタワタしてたよ。まぁ……彼女らは文句言ってたけどね』
彼女ら、とは、給湯室に毎朝集まっている集団のことだろう。
杵柄さんは事件の日を境に、彼女達とは少し距離を置くことにしたようだ。
元々うんざりしていたからいいキッカケだったよ、と先日のランチで言っていた。
『明日は来られそうなの?』
「んー、ごめん。無理だわ。1週間くらい行けないと思う」
『……あっち関係?』
「そう」
『分かった。私から課長に言っておこうか?』
「いや、こっちから会社に連絡いれるよ。入院したことにでもしておく」
『あー、それがいいよ。最悪1週間過ぎても入院長引いたことにすればいいし』
「綾音ちゃん、悪知恵が働いてるわね」
『お互い様でしょ』
ふふ、と小さく笑いながら突っ込まれる。
席に課長がいるか聞いたが、丁度お昼休憩で外に出てしまったから分からないと言われたので、夕方にでも再度連絡することにして通話を切った。
外の様子を見てくると言って葵が部屋を出たのを見届けると、私が電話をしている間に取ってきてくれた着替えに急いで袖を通し、少しふらつきながら廊下へと出た。
もう大丈夫だとは言ったけれど、まだ少し頭痛が残っている。
しかしこんな時に弱音は言ってられないと気合を入れ、声がする方に向かって歩き出した。
廊下の突き当たりを右へ曲がり数歩行くと、屋敷と社務所を繋ぐ渡り廊下をバタバタと忙しなく行き来する部隊の仲間を見つけ声をかける。
「部隊長はどこにいるかしら」
「椿様!目が覚めたんですね。えっと、部隊長なら本殿の方で修繕の作業をしています」
「ありがとう」
ぺこり、と仲間は礼をして屋敷の奥へと走っていった。
私は渡り廊下を社務所に向かって進み境内側の出入り口まで行くと、適当に脱ぎ捨てられた下駄を拝借しカランコロンと音を鳴らしながら本殿へと近づいた。
改めて周りを見渡すと、何とも酷い有様だった。あちこちに散らばっていた木片などは片付けられているものの石畳は抉られボコボコ、無残にも破壊された手水舎は屋根を支えていた柱の土台だけを残し跡形も無くなっている。引いていた地下水が水盤のあった場所から止めどなく流れ、辺りに大きな水溜りを作っていた。
今自分が出てきた社務所を振り返ると、瓦はすべて吹き飛び、建物の左半分に至っては崩れ落ちていて、まるで竜巻にでも襲われたかのようだ。
本殿へ視線を戻すと、こちらも屋根の半分が崩れ落ちている。ただ、不幸中の幸いか、こちらは屋根と壁の一部が損傷しただけで、建物としての形は保っていた。
私ははぁ、と小さい溜息を吐くと、本殿の屋根に登って何やら作業をしている部隊長へ声をかけた。
その横で一緒に作業していたのは春彦だったようで、二人が同時にこちらへ気がつくとホッとした顔をして屋根から飛び降りてきた。
「椿!もう起きて大丈夫なのか」
「えぇ、心配かけてごめんね」
「謝んなよ。いくら椿が強いからつっても、あんだけ霊力吸われれば倒れもするさ」
「そうですよ椿様。それに回復術もかなり使っていましたし」
大男二人がニカっと似たような表情で笑うと、あぁそうだ、と言って春彦がズボンの後ろポケットから何かを取り出した。
「さっき地面片付けてた時に見つけたんだ」
「あ、」
それは、私がいつも使っている扇だった。
春彦から受け取りゆっくりと開くと、骨が所々折れてはいるものの、修復は出来そうだ。
手に馴染んだそれの無事に、ホッと胸を撫で下ろす。
「ありがとう」
「おぅ。それ、大事なものなんだろ」
「んー、大事っていうか……小さい頃にお祖母様の部屋から勝手に拝借した扇なのよね」
それを聞いた部隊長はギョッとした顔をして、恐る恐る扇を指差しながら疑問を口にした。
「お祖母様ということは…… 阿古町様の物ということでしょうか」
「そうよ」
私の何とも淡白な返事に、部隊長は目に手を当て天を仰いだ。
阿古町様というのは、伏見稲荷にある白狐社の主祭神である命婦専女神の昔の名である。
主祭神として祀られる以前はこの名で暮らしていたため、眷属である私たちはそちらの名前で呼ぶのだ。
今となっては次元の違う身分である我ら眷属トップ阿古町の私物を勝手に持ち出し使っているという事に、部隊長は度肝を抜かれたのだろう。
孫である私個人としてはあまり気にする内容ではないが。
春彦はというと、部隊長と私のやり取りを横で腹を抱えて笑って見ていた。
「ひー。笑った。椿、阿古町様の扇ならもっと大切に扱えよな」
「次からは気をつける」
「笑ったらなんか腹減ったわ。ちょっと休憩」
春彦のマイペースぶりにも追い討ちをかけられたのか、部隊長は疲れた顔をしながら屋敷に戻りましょうと社務所に向かって歩き出したのだった。