第1夜
どんな事柄にも「表」と「裏」があると、私は思う。
それは世界の形であったり、人の持つ善意と悪意であったり。「表の顔」「裏の顔」なんてのは、誰しも心当たりがあるのではないだろうか。
かくいう私も、表と裏の顔がある。
しかし今も昔も、全てを曝け出して生きている人なんていないと思うのだ。特に現代社会では。そんなことを考えながら自室にある姿見で身だしなみを確認し、頬を両手で軽く叩いて気合をいれると、狐守 椿は仕事へと向かった。
「おはようございます」
職場へ着くなり、デスクに高く積まれたファイルにげんなりする。派遣社員として雇用されている自分の主な仕事は、営業事務の補助だ。しかしここ数か月「補助」ではなく正社員と同等の仕事を押し付けられていた。まぁそこまで難しい内容ではないので何も言わないが、納得しているわけではない。その分の給料よこせ、なんて心の中で愚痴りながら自分のデスク周りを簡単に掃除したあと、すぐに仕事を始めた。
同僚の女の子達は休憩室へ集まり、始業まで各々飲み物を用意し歓談しているようだ。そんな時間があるのなら、私に仕事を押し付けるな!自分でやれ!と盛大に心の中で悪態をつく。もちろん、表情には出さない。そんなこんなで私は、無口でつまらない人、というレッテルを貼られていた。
容姿も孤立している一つの要因かもしれない。
今のご時世には珍しい黒髪ストレートの長髪に、切れ長の黒い瞳、肌は白く、まるで日本人形のような見た目。そこに無表情とくれば、取っ付き難いことは自分でも理解していた。
ふと、歓談からぞろぞろと帰ってきた同僚の一人と目が合った。なんだか意味ありげな会釈をし、彼女は自分の席へと座る。なんだろう。また私の悪口でも言っていたのだろうか。
ダメだ、いちいち気にしてたらこっちの気が滅入ってしまうと、私は仕事に集中した。
****
よし、今日も定時に仕事が終われそう!
カタカタとキーボードを叩きながら、壁掛け時計をチラリとみる。
書類を片付けたら、さっさと帰ろう。帰ったら、今日は人と会う約束がある。その用事でやらないといけない事を思い出し、はぁ、と小さく溜息をついた。なんだか今日はあまりやる気が出ない。帰ったらベッドでごろごろしたい。心ゆくまでゲームとかしたい。
そんなこと言ったら、怒られるだろうなぁ。
なんて憂鬱な気分で、定時を迎えた。
「先に失礼します。お疲れ様でした」
「はーい、お疲れ様ー」
上司の疲れ切った声を背に、私は職場から出ると駅へ早足に向かう。
10分後に出る電車に乗れば時間通りに帰れそうだ、と腕時計を確認していたら、ふと背後でこそこそと話し声がした。なんだか悪意を感じる視線に気持ちが悪いなと思いつつ、駅前のコンビニに入る。
商品を見るフリをして背後を確認すると、毎朝休憩室で駄弁っている同僚の数人がいた。
コソコソと周りを気にしながら歩いてくる同僚達は側から見たらただの不審者だ。一体なにをしているのだろう?
疑問を浮かべながら、今日の自分へのご褒美にちゃっかりプリンを買いつつコンビニを出ると、改札を通り駅のホームへ向かった。どうやら同僚達も同じ行き先のようだ。
まだこちらをチラチラ見つつ、何やら話している。
気分が悪い。
用があるなら、堂々と聞きに来なさいよね!
と思いつつも、自分からは話しかけない。
話しかけようものなら、面倒ごとが待っているのは目に見えている。自分からトラブルに飛び込む必要はない。まぁ、逆に聞きに来られても面倒ではあるが。
まさか後をつけられてたり…なぁんてね。
まぁいいや。気にしてる時間が勿体ない。
さっさと家に帰ろう。
のちの結果として、その判断が結局は面倒を引き起こすとは露知らず、椿はやってきた電車へ乗り込んだ。
電車で揺られること40分。
ようやく最寄り駅へと到着した私は、改札口で待っていた男の名を呼んだ。
「葵」
「おかえり、椿」
「ただいま」
黒のTシャツに深緑のチノパンを履きこなした、藍色の髪をもつ男は、椿を見つけると柔らかく微笑んだ。切れ長の目にすっと通った鼻筋。スラリとした長身でスタイルも良く、誰が見てもウットリするような整った容姿をしている。
「いつもありがとう」
「どういたしまして。皆が待ってるよ」
「はいはい」
そんな軽い会話をしながら、椿はロータリーに停車していた葵の車へと乗り込んだ。その光景を、背後から見ていた同僚達の姿には気が付かずに。
****
時間は、始業前に遡る。
「狐守さんってさ、普段どんなことしてるのかな」
毎朝の日課になっている休憩室でのお喋りで、誰かがそんな疑問を話題にした。
「さぁ?いつも無表情だから、全然想像つかないや」
「仕事は出来るけど、愛想が無いのはちょっとねー」
「ほとんど喋らないもんね。時々いるの忘れちゃう」
「あはは、それ私も」
「黒魔術とかやってそう」
「なにそれ、怖っ」
キャピキャピした女の子達は、陰口や噂話が大好物だ。そうして周りを牽制し、調和を図っているともいえる。
すると最初にこの話題を切り出した女が、ニヤリと笑った。
「ねぇ、みんな今日空いてる?」
「空いてるけど、どうして?」
ふふ、と笑みを浮かべながら、僅かに声を潜めた。
「狐守さん、つけてみない?どこに住んでるとかもイマイチ知らないし、もしかしたら意外な趣味とかあったりして。気にならない?」
「ちょっと気になる…」
「でも、狐守さん残業ほとんどしないし、全員が今日定時で帰るのムズくない?」
「それもそうねー。じゃあ定時で帰れた人だけ、下のロビーで待ち合わせとか、どう?」
「オッケー」
「頑張って終わらせるわー」
そうして、狐守 椿の尾行作戦が決定した。
****
「ちょっと!今のなに!?」
「めちゃくちゃイケメン…」
「誰なのよ、あのイケメン!彼氏?」
「狐守さんに彼氏とか、想像つかないんですけど」
椿の後をつけていた同僚達は、車で走り去る二人を見送りながら興奮冷めやらず、だ。
40分も電車に揺られて、中心街から離れたちょっと田舎の駅。駅前にこそ商店街があるものの、駅のホームへ入る直前にみた景色は田んぼに畑。少し車を走らせれば山だ。こんな遠くまで、なんて少し飽きてきていたのだが、まさかの展開にビックリしている。つけてきた甲斐があったというものだ。
「送り迎え付きとは…あんなイケメンと知り合いとは予想外だったわ」
「ほんと、ほんと。でもこれじゃもう追えないね」
「そうだねー。せっかくこんな所まで来たんだし、ちょっとフラフラしてから帰らない?」
「さんせー!」
「ご飯食べてから帰ろ!」
商店街もあるし飲食店くらいあるだろう!と同僚達は、適当に歩き出した…が、少し歩くと急に人通りが無くなった。さすが田舎である。何もない。
「ちょっと…ご飯食べれるところ無さそうなんですけど」
「こっちじゃなくて、反対方向だったのかな」
歩いてきた通りには小さなスーパーや日用雑貨店、コンビニくらいしか見当たらなかった。引き返して反対方向に歩いたとしても結果は同じような気がする。うーん、どうする?と悩んでいるところへ、ふいに後ろから声がかけられた。
「お嬢さんたち、何かお探しかい?」
さっきまで誰も歩いてなかったのに、と少し吃驚しつつ振り返ると、人の良さそうな笑みを浮かべ佇む八十幾歳の好々爺が立っていた。
その雰囲気にちょっと安心しつつ、折角声をかけてくれたのだからと事情を話す。
「ご飯食べようと思ってたんですけど、この辺りはよく知らなくて」
「どこかオススメのお店は知りませんか?」
ふむ、とお爺さんが顎に手を当て考え込む素振りをみせるが、すぐに笑顔で、
「では、儂に着いておいで。案内してあげよう」
「本当ですか!」
「ありがとうございます!」
親切な人に出会えてよかった!と、同僚達は喜びつつお爺さんの後ろを着いていくことにした。そうしてお爺さんと他愛もない話に花を咲かせながら歩いていたのだが、なんだか少し雲行きが怪しくなってきた。歩き出してもう15分は経っている気がする。あまり遠くまで行くつもりのなかった同僚達は一体どこまで行くのだろうと不安になっているのを横目に、お爺さんはどんどんと先へ進んだ。
「あのぉ〜…」
「何かな?」
「まだお店まで時間かかりますか…?」
「もうすぐじゃよ。ほれ、見えてきた」
そうお爺さんが示す先を見ると、ポツンと一軒の民家が見えてきた。かなり古びているが、大きな建物だ。しかし、食事が出来るようなお店には見えない。
「えっと…」
「心配なさるな。ここは昔なじみの店での」
そう言って家の前に歩いていくと、胸のあたりまである高さの古びた木の門をギィと押し開き、同僚達を中へ促した。彼女達は互いの顔を見交わし、意を決して敷地内へと足を踏み入れ見えた光景は、純日本家屋といった造りの建物と荒れ放題の庭だった。玄関へと続く石畳のあちらこちらから雑草が生え、庭に植えられた木は枝が伸び放題で雑木林と化している。とてもお店には見えない。
そんな同僚達の戸惑いを意に介さずお爺さんは石畳をずんずんと進み、
「おーい。客を連れてきたぞー」
と、まるで自宅のような気軽さでガラリと玄関の引き戸を開けながら中へ呼びかけた。間を置いてかすかに奥の方から返事が聞こえる。
玄関からは中は真っ暗で、よく見えない。
本当に大丈夫なのだろうか?あまりいい予感はしないんだけど…もう帰りたいなと彼女達が思っているのを尻目に、お爺さんに中へ入って待っててくれと言われてしまった。
お爺さんの好意を無下にする事も出来ず、恐る恐る玄関をあがり案内された部屋へと入るが、どう見ても民家である。やはりお店には見えない。
座布団の上に座りソワソワしていた同僚の一人が不安そうな声を上げる。
「大丈夫かな…」
「ねぇ…申し訳ないけど、帰らせてもらわない…?」
「うん、私も帰りたい…」
「お爺さん来たら、謝って帰ろう」
ここまで着いてきてしまったけれど、失礼は承知の上でここは帰らせてもらおうと決断し部屋の外の様子を伺おうと腰をあげたちょうどそこへ、襖がすっと開いてお爺さんがやってきた。
後ろに誰かいるが、暗くてよく見えない。さっき呼びかけた時に返事をした人だろうか。
「お待たせしたね」
にこりと笑い部屋へ入ろうとしているお爺さんへ正座をしたまま身体ごと向き直ると、同僚の一人が申し訳なさそうな声で切り出した。
「……あの、すみません」
「何かな?」
「もう時間も遅くなってきてしまったので、申し訳ないんですが帰らせて頂こうかと」
「折角案内してくれたのに、ごめんなさい」
「なんと。それは困るのぉ…」
ここまできて帰ると言われるとは思ってもいなかったのだろう、皺だらけの顔にさらに皺を寄せてお爺さんは困った顔をする。その様子に彼女達の良心がチクリと痛んだ。
その時、後ろにいた人影がのそりと前へ出てきた。
それはお爺さんとそう年齢の変わらないであろう、着物を着た老婆だった。しかし、その姿に同僚達は恐怖で固まる。
「せっかくのお客様を、おもてなしせずにお帰りいただく訳にはいきませんなぁ」
そう言ってニタリと笑ったその人の目は血走り、両手には大きな鉈が握られていた。
呆気に取られ身動きが取れないでいると、さらに老婆が一歩近づく。
殺される…!!
瞬間的にそう思った同僚の一人が、手に持っていた鞄を二人へ投げつけた。それにハッと我に返った残りの同僚達は、二人が怯んだ隙に部屋の外へと駆け出す。
「なんなの!?」
「早く!!早く外へ!!」
「急いで!!!」
恐怖で身体が震える。
暗い廊下をひたすら玄関へ向けて走る。
玄関からそんなに距離はなかったはずの廊下が、とてつもなく長く感じる。ストッキングの所為で何度か滑りそうになりながらもようやく辿り着いた引き戸に手をかけるが、開かない。
「やだやだやだ!!」
「なんで!!開かないの!!」
「早く!」
「後ろから来てる!!」
のそり、のそり。
後ろからゆっくりと歩いてくる音がする。
このままじゃ殺される。そんなの嫌だ。
早く開いて!早く!
「ひひひ。逃げても無駄じゃよ」
ゆっくりと暗闇から姿を現した老婆は、恐怖に震える哀れな獲物の様子に心底楽しそうにニタリと笑うと、大きく腕を振り上げて鋭い刃先を彼女達へと振り下ろした。
幸運なことに間一髪で避けた鉈は玄関の引き戸へと当たり、大きな音を立てて壊れる。咄嗟に壊れ傾いた引き戸へ体当たりをすると、派手な音をたてて引き戸が外側へと折れ、体当たりをした勢いのまま彼女達は外で飛び出した。
しかし、その先には何も無かった。
「なに、これ…」
「真っ暗で何も見えない…」
文字通り、そこには何もなかったのである。
入ってきたはずの門も、建物にそって広がる荒れた庭も、雑草だらけの石畳も、なにもない。ただひたすらに暗闇が続いていた。空も、地面も、何も見えない。
予想だにしていなかった光景に呆然と固まる。
「だから言ったじゃろう?逃げても無駄だと」
「っ、きゃああ!!」
立ち尽くしていた同僚の一人が思い切り腕を掴まれ、その勢いのまま後ろへと倒れた。その悲鳴に他の同僚がハッと我に帰り背後をみると、そこには引き倒した同僚の肩を踏みつけ舌舐めずりをしながら鉈を構える老婆の姿があった。
このままではきっと私達は殺される。彼女を助けなければと思うのに、恐怖で身体が動かない。
恐怖に飲み込まれる獲物達の姿に老婆は酔いしれながら、ひひひ、と抑えきれない欲望の赴くままに獲物を切り刻もうと血走らせた瞳を見開いて、老人とは思えないスピードで鉈を振り上げた。その時、
「そこまで」
凛とした声が響いた。
ぴたりと、全員の動きが止まる。
彼女達が恐る恐る声のした方を見ると、そこには一人の女性が立っていた。
暗闇の中、その女性はぼんやりと青い炎を纏わせてそこに佇んでいた。
白い生地に金と赤で鮮やかな花々が織られた着物を着た、銀髪の女性。
口許を扇で隠しているため表情は分からないが、僅かに見える瞳は金色。
銀の髪がさらりと流れ、凛とした佇まいは唯々美しく、まるでこの世のモノとは思えない妖艶さを放っていた。
突然現れたその姿に誰もが見入ってしまっていた中、いち早く冷静を取り戻した老婆は、引き倒した彼女の髪を乱暴に掴み無理やり起こすと、その首元に鉈を押し付けた。
「ひぃっ」
「お前は誰じゃ」
女性はその問いには答えず、すっと前へ歩み出る。
そのただならぬ威圧感に老婆は焦り、さらに人質の彼女へ刃を押し付けた。
薄い首の皮膚が裂け、つぅっと血が流れる。
「止まれ!こやつが死んでもよいのか?」
その言葉に女性が立ち止まると、
「ここ最近、行方不明事件が頻発に起きていたのは、お前の仕業か」
「さぁて、どうかな」
「掟を忘れたか。彼女達を元の場所へ返しなさい」
「ふん、そんなこと、素直に聞くわけなかろう!」
老婆は女性の言葉に馬鹿にしたよな笑みを向けると、人質の首に押し当てていた鉈を振り上げ、首を切り落とすべく勢いよく薙いだ。
あぁ、もう駄目…!
人質となってしまった彼女が死を覚悟し目を強く瞑ったその時、轟音をたてながら立っていられない程の強い風が吹き抜けた。髪を掴まれていた手が振り解かれ思わず尻餅をつき、そのまま倒れこむ。
「きゃぁっ」
「ぐああぁ!」
老婆はその業風に耐えられず、建物の壁に強く身体を打ち付けそのまま地面へと崩れ落ちた。みしり、と身体中の骨が軋む音がする。何が起きたのか状況を把握できず、痛みで両手に握っていた鉈を落としていた。
「ぐっ、何が……、っ!?」
老婆は痛みに喘ぎながらも立ち上がろうとして、身体中に刻まれた切傷に息を飲んだ。
壁に打ち付けただけでは付かないような傷。これは、まさか…
「おまえ、まさか、眷属か…!」
「気づくのが遅すぎる。ちゃんと警告はしたわよ」
老婆の視線の先には、扇を持った腕を横に大きく構えた女性の姿。
「さようなら」
その言葉と共に、扇を右から左へと薙ぐ。まるで空気を切り裂くような風の刃が老婆目掛けて駆け抜け、諸に風を受けたその瞬間、老婆の身体はそこにはもう無く、ただ塵だけが舞っていた。
そして老婆の背後にあった建物は風の刃を受けて、轟音をたてながら崩れ落ちようとしている。
今見ている光景は何なのか。夢か、それとも、ファンタジー映画にでも入り込んでしまったのだろうか?同僚達は、今目の前で何が起こっているのか理解できず、呆然と立ち尽くすしかなかった。
そこへ、女性の凛とした声がかけられた。
「さぁ、帰りましょう」
そうして漸くしっかりと女性の顔を見た同僚達は、再び思考が停止した。
そう、知っていたのだ。女性のことを。
「こ、もり…さん……?」