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―――朝。
国中の貴族の子供たちが通う中央学園に、一台の馬車が到着する。
転がるように降りてきたのは、桃色の髪の可憐な少女だ。
彼女の名前はハンナ・クロフォード。
新興貴族の一人娘で、最近父親が大臣に任命されたばかり。母親は病を患い、療養のため離れて暮らしている。
ハンナが馬車を降りたちょうどそのとき、隣に公爵家の立派な馬車が停まった。
降りてきたのは、天鵞絨色と呼ばれ、見る角度によって黒や深い緑に変わる、めずらしい髪色をした白皙の美少年。
彼の名は、ルチアーノ・サルヴァティーニ。
宰相・サルヴァティーニ公爵の一人息子だ。
「おはよう、ハンナ。そんなに急いでどうした?」
「おはようございます、ルチアーノ様。急いでいるのなんて決まっているでしょう?」
ルチアーノ様より先にレイラの隣に座るためよ!
そのまま走り出すハンナをルチアーノも慌てて追いかけた。
「ヒールのくせに速いな!?」
「当然じゃない!!」
二人が駆け込んだのは、学園のカフェテリア。
始業前でたくさんの学生たちが談笑している。
その中央にひときわ華やかな存在があった。
ラズベリー色の輝く髪を波打たせ、長くすらりとした美脚を揃えて座る、完璧なプロポーションの美女。サファイアブルーの瞳がぱちりと瞬く。
「あらルチアーノ様。ハンナ。おはよう」
美しい彼女は、レイラ・モンタールド。
外務大臣を務めるモンタールド侯爵の娘で、自身もレイラパピヨンというブランドを持っている。そしてルチアーノの婚約者だ。
「おはようレイラ!」
ハンナは両腕をあげて駆け寄る。
いち早くレイラの隣を陣取るためだ。
けれどハンナはそのままぴたりと止まってしまった。
「…………」
「……おはよう、ハンナ嬢」
「…おはようございます、トマ様」
レイラの隣にはすでに先客があったから。
すこし跳ねたオレンジ色の髪に、レイラより薄いアクアマリンの瞳。
トマ・モンタールド。レイラのひとつ下の弟だ。
「おはよう、トマ。なんかまだ慣れないな」
「おはようルチアーノ様。そう言われても、もうオレが入学してから一週間以上経つんだけど」
そう。レイラたちは上の学年に進級し、トマが入学してきた。
「あ!」
ぼんやりしている間に、ルチアーノが逆隣に座ってしまう。ハンナは文句を言いながらレイラの向かいに座った。
「なんだよ、今日も賑やかだな」
「レイラおはよー!」
「おはよう、レイラ」
「おはようレイラ、トマ」
そこへ新しい声がやって来る。
夜空のような紺色の髪の、見目整った少年。
ツーブロックのセミロングマンバンヘアで、すこし粗っぽい印象だが、彼はこの国の第一王子殿下だ。アドリアン・ガルディーニ。
ルチアーノとは従兄弟でもある。
アドリアンといっしょに現れた令嬢は、レイラの友人たち。
はきはきと快活で明るい、エマ・パヴァリーニ。
おっとり穏やかで優美な、イリス・マイティー。
きっちり几帳面で真面目、リーサ・アナスタージ。
彼女はレイラたちよりひとつ年上で、そしてトマの婚約者だ。
リーサが来て、トマは彼女を慈愛の微笑みで迎える。仲睦まじい様子にイリスがぷくりと頬を膨らませた。
「リーサたちが羨ましいわ。マルセル様もこっちに通っていればよかったのに」
「イリス嬢がお願いしたら、あいつはふたつ返事で飛んでくるだろうな」
アドリアンがそう言って笑う。
マルセル・ロッソは、イリスのひとつ年上の婚約者だ。金髪を短いアーミースタイルにして、よく鍛え上げられた身体はとても大きい。
それもそのはず。彼は将軍の息子で、軍人学校に通い、すでに軍の組織である衛兵団に所属している。そして婚約者のイリスには頭が上がらない。
レイラは拗ねるイリスがかわいくて堪らない。
「もうすぐ結婚式よね、楽しみだわあ」
「あら、ハンナはノア様に会えるのが楽しみなんでしょう?」
リーサがそれを言うと、「もう!」とハンナは怒ったふりをする。けれどもちもちの頬がバラ色に染まっていて、レイラはそれもかわいくて仕方ない。
「ハンナはノア様に一目惚れしたんだもんね」
「ちょっとやめてよ、エマ~」
「そうそう。オレは一瞬で失恋したんだ」
アドリアンが嘆いて、場がわっと沸いた。
ノアはモンタールド侯爵家の家令の息子で、トマの侍従だ。3歳年上の彼にハンナは夢中になっている。
「もうアドリアン殿下ったら、わたしのことなんて好きでもなんでもなかったくせに…」
ハンナはむうと眉を寄せて、それからレイラと視線をあわせるとにこりと笑った。
「レイラ、ありがとうね」
「やだ、なあに?突然」
レイラが首を傾げても、ハンナはにこにこと微笑むばかり。どちらかというと万感の思いが強すぎて伝えきれなかったのだが――。
「しあわせになって」
ハンナのその言葉に答えたのはルチアーノだった。
「もちろんだよ」
レイラの手をきゅっと握って。
「……そうね」
微笑んで頷いたレイラは女神のように美しかった。
―――乙女ゲームの画の中に描かれていた、きつい印象の令嬢はもはやどこにもいない。




