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**sideブノワト**
にゃーん。
「あら、あなた…」
足元をすり抜けていった白い猫にブノワトは目を瞬かせる。
―――ハンナが戻ってきたのかしら。
ハンナは家出と称して、下町の祖父の家に行っていた。
以前からなにか不都合なことがあるとそうやって逃げ出していた。困った子よね、と肩を竦めて、ブノワトはクロフォード夫人を訪ねるべく彼女の私室へと向かう。
「でも、ママ――…」
「いいのよ、あなたはこのままで。後のことはブノワトに任せておけばいいんだから…」
扉をノックをしようと持ち上げた手の動きを止めて、ふふ、と赤い唇を持ち上げる。
そしてそのまま自室へと踵を返した。
夫人にハンナが戻ってきていることを確かめなくてもよくなったから。さらに夫人の意見が変わっていないことを知って、ブノワトは上機嫌になる。
「おかえりなさいませ」
与えられた広い私室では専属の侍女が控えていた。どちらもクロフォード家から与えられたものだ。
夫人はブノワトをクロフォード家に迎え入れるため、いろいろと手を尽くしてくれている。
養子縁組の了承はなかなか下りないが、それも致し方ないかもしれない。なんせブノワトは元伯爵令嬢だ。
けれど、どれだけ時間がかかっても、夫妻の意思が変わらなければブノワトは安泰だ。
ソファーに腰を下ろすと、すぐに侍女がお茶の用意をしてくれる。
そう、これよ。この待遇を手放すことなんてできないわ。
「ブノワト様、ご注文のドレスが仕上がったそうです」
「ああ、あのドレスね。…ふふ。」
レイラ・モンタールド嬢のお抱えだった職人に作らせたドレスだ。さぞ華やかなものだろう。
「楽しみだわ。さっそく取りに行こうかしら」
ブノワトは侍女が淹れてくれた茶に手をつけもせず、すぐ立ち上がった。
呼びつけた馬車は当然のようにクロフォード家で一番大きなものだ。
本来なら夫妻かハンナしか乗ることを許されていないそれに、まだ一介の使用人であるブノワトが当然のように乗り込む。
不満そうな他の使用人たちを横目に、ほくそ笑んで。
―――いやだわ、当たり前よ。私はクロフォード家に養女として迎え入れられることが確定しているんだから。
クロフォード卿はブノワトの振る舞いも散財も咎めることはない。ドレスの代金も侍女の給金も、糸目をつけず支払ってくれる。
その上、実家に無心されていると告げれば、いまなおブノワトにも給金が払われていた。
…まあ、あれは一生の不覚だったわ。
それよりお金というのはあるところには山ほどあるもので、私のように使い方を知っている人間が使う方がお金にとっても有意義ね。
馬車は店からすこし離れたところで停まり、ブノワトは憤慨しながら降りる。どうして店の前に停めないの、と文句を言いながら。
「やあ、見つけた」
「あら、あなた」
衛兵団の制服を着た紺色の髪の男に声をかけられ、ブノワトは足を止める。
以前すこしだけ立ち話をしたことがある相手だ。あのときより背も伸びて、だいぶ男らしくなっている。
「あれはクロフォード家の馬車?」
「そうよ。私、養女になることが決まってるの」
「…ふうん?」
―――王宮からの承諾は下りていないはずだけどなあ。
当然、ブノワトには彼のひとり言は聞こえていない。
***
ハンナの立場はいま非常に危うい。
レイラとルチアーノ、アドリアンを含めた四角関係の噂も醜聞だが、それよりも歴史の浅いクロフォード家が上位貴族であるモンタールド侯爵家に楯突いたという事実が重くのし掛かる。
さらにレイラとルチアーノの関係が改善したいま、公爵家も王家もレイラ側についたと受け止められる。
そうなるとハンナはもう四面楚歌だ。
自分でも言っていたが、学園どころか社交界にも顔を出せなくなってしまう。
けれど、レイラならその状況を改善できる。
当事者であるレイラなら、単に友人同士のすれ違いとして納めることができる。
「なるほどね…」
リーサが頷いて、エマとイリスは黙ったまま思案顔。
ハンナは居たたまれないようで、次になにを言われるのかとそわそわしている。
レイラのお茶会の前に、ハンナの了承を得た上で、状況を掻い摘んで説明したところだった。
「ブノワトにレディとしての教養があるとは思えないけど。お金があるなら家庭教師を雇った方がよっぽどいいわよね?」
「それすら選択できないほど、貴族への信用がなかったんじゃない?」
「うーん、まあハンナの事情はわかったわ」
エマ、リーサ、そしてイリスが続ける。
「ハンナは、じゃあブノワト派じゃないってことでいいのね?」
「ブノワト派って、イリス、そんな大袈裟な…」
「あらレイラ。お言葉だけど、ブノワトは使用人や職人、ハンナのお母様もそうなのかしら、庶民を味方につけているわ。貴族の世界を知らない一般市民を陽動させるのは危険よ。お父様もそうして何度も命を狙われたことがあると言っていたわ」
「……イリスが言うと重いわね」
渋い顔をするレイラの腕に、「だれか殺されちゃうの!?」とハンナが青い顔でしがみついてくる。
「大丈夫、大丈夫よ。絶対そんなことにならないわ。とにかくハンナは淑女のマナーを…」
「それなんだけど」
頭が痛いわ、と投げやりになるレイラの腕をハンナがぎゅうと握る。
「ママが、そんなことしなくていいって」
「…え?」
「すべてブノワトに任せておけばいいって言うの。わたし、どうしよう?」
―――え、どうして?
眉を下げて小さな子供のように情けない顔で俯くハンナの桃色のつむじを、レイラは目を丸くして見下ろした。




