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「レイラ!」
「ハンナ」
レイラを見つけるなり、ハンナは笑顔で駆けてくる。
「あんまり慌てるとまた転ぶわよ」
「その話題はなしにして、お願い!」
王子の口添えもあり、初日に広まった噂はいつのまにか立ち消えていた。けれどハンナの入学パーティーでの失敗はなかったことにはできない。
ハンナをからかっただけのレイラは「ふふ」と笑う。
ルチアーノとよく一緒にいるところを見かけるけれど、ハンナはレイラも慕ってくれていた。
妹が姉にそうするようにキラキラとした目で見上げられて、レイラはくすぐったくなる。同い年なのに、と思いながらそれが嬉しい。
表情がころころ変わるハンナは分かりやすくて安心する。そしてやはり可憐でかわいらしい。どこか憎めないところがある。
「あ、殿下とルチアーノ様よ」
ハンナの声につられて視線をあげると、ぱちりと琥珀色の瞳と視線がぶつかった。
…ハンナと違って、ルチアーノはなにを考えているのかちっともわからない。
レイラは反射的につんと顔を背けてしまい、無視されたルチアーノもまた情けなく眉を下げる。
「一体何がしたいの、君たち…」
アドリアンの呆れた呟きも、こじれた二人には届かない。
「そうだ、わたしルチアーノ様にお借りしていた本があったんだったわ!」
ハンナはレイラに断って、ぱたぱたとルチアーノの元へ走っていく。その後ろ姿に手を振りながらレイラはため息をついた。
―――わたくし、ルチアーノ様に本なんて借りたことないわね…。
ルチアーノとアドリアン、レイラとハンナ。
ルチアーノの傍にはハンナがいるし、レイラの傍にはアドリアンがいる。けれどハンナはレイラの隣にも来るし、アドリアンとルチアーノが一緒にいることも多い。
4人はそれぞれの距離でうまく付き合っていたが、婚約者であるレイラとルチアーノだけが妙に他人行儀だ。
気付けばレイラは、学園でもまったくルチアーノと接点がなかった。
だから、こんな無責任な噂話が囁かれる。
ひそひそ。
ハンナさんまたルチアーノ様とご一緒よ。
レイラ様は平気なのかしら。婚約者でしょう?
そうねえ、でも…。
ひそひそ。
案外ルチアーノ様はレイラ様よりハンナさんの方がいいんじゃないかしら?入学パーティーのときだって…
え、もしかしてそれって…!
レイラは深く息をはいて大きく肩を落とした。
貴族の世界は恐ろしい。
なんて内心で茶化してみても、人の不幸をネタにされては堪ったものじゃない。レイラはすっかり臆してしまった。
ハンナはやはり他の令嬢たちとは馴染めていないようだが、レイラもまたエマやアドリアンら以外とはあまり交流が図れていない。
レイラパピヨンのこともあって、女子生徒の受けはよくないし、男子生徒も二度目のダンスは誘ってくれない。
王子一派に含まれるからか下位貴族出身者からは遠巻きにされる。
…やだ、わたくしってなんだか孤独じゃない?
「レイラ」
ひとりでぽつんとしていると王子が側にやって来た。
その向こうではハンナとルチアーノのがなにやら楽しそうに話している。むう、とむくれたのは一体どちらに対してだったのか。
「気になる?」
「いいえ、気になんてしてませんわ!」
レイラは言ってしまってから落ち込んだ。だって、誰が聞いても強がりに聞こえるだろうから。
アドリアンはそんなレイラにふっと笑みを落として、あっさり話題を変える。
「カフェテラスに新しいメニューが増えたんだよ。知ってる?」
「え、知りませんでした」
「そっか。じゃああとで見に行こうよ」
「はい、ぜひ」
王子は優しい。
彼はいつもレイラを気にかけてくれる。
けれどレイラはアドリアン王子のことをほぼ知らない。
知っていることといえば、空色の髪は猫っ毛でとても柔らかいこと、いつも下ろしたままにしているセミロングのうなじが妙に軽いこと、くらい。
そんなことは頻繁に彼とダンスをしていれば簡単に気付くことだ。アドリアンも隠していないだろう。
はあ、とまたため息をついて俯くレイラの視界の外で、アドリアンがこちらを気にするルチアーノに向けて、しっしっと手を振っている。
もちろんレイラは気づいていない。
―――噂には続きがあった。
レイラ・モンタールドは、ロイド・デル・テスタを愛人にしようと自身のブランドを使って囲い込みを図っている。侍女を張り付かせて、彼が逃げられないようにしている。
その上、野心家な彼女は王子も狙っている。
邪魔になったルチアーノはいつか捨てられるのだろう――…。
悪意に満ちた内容には作為的なものも感じる。誰が聞いてもレイラを貶めるための噂だと思うはずだ。もやもやして気持ち悪い。
この噂はルチアーノの耳にも入ってるはずなのに、それでも彼はなにも言ってこない。
そうなると理由はひとつ。
ルチアーノだって、この噂を真実だと受け止めたのだ。だからレイラの元に来ない。…そうに違いない。
レイラはもはやルチアーノに頼る術を見失っていた。そのつもりもなかった。
こうして二人の間にはますます見えない壁が出来上がっていく――。




